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第5回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2018年1月10日)

※使用しているテキストは以下の通り。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(稲垣直樹訳)『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)
※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 


はじめに


西川:
 今日で5回目です。前回はほんの少し2ページ半ぐらいしか進みませんでした。稲垣さんの翻訳で20ページのところからです。

 さて、最初ちょっと違う話します。明後日東京行くんです。僕の『「一人」のうらに』[*1]の編集してくださった浅野さんと会うことになってます。彼は今年から東京の出版社に勤めることになって、就職する際に10本ぐらいね、本の企画を出さないといけなかったらしくて。

 その中に、僕が『星の王子さま』について書くというのを企画として出してくれました。それは一応の候補だったんです。入社試験じゃないけど、まあどんなこと考えてるかっていうことで提出したみたいなんですが、会社に入ったら「正式に出版社のほうで企画会議通りましたから」って言われたそうです。新泉社でしたよね。『悪魔の詩』[*2]を出版して、翻訳者が殺された事件あったでしょ。

[*1]『「一人」のうらに』:『「一人」のうらに: 尾崎放哉の島へ』西川勝著、2013年出版、サウダージブック。
[*2] 『悪魔の詩』:“The Satanic Verses” サルマン・ラシュディ著、1988年出版。日本語訳は五十嵐 一(いがらし ひとし、筑波大学助教授)、新泉社、1990年出版。

長見:「新」しい「泉」?

西川:
 そう、新泉社。民俗学でいろんな本出してるところです。まだ本の題名とか決まっていませんけど、12日の夜に浅野さんと会って、もうちょっと詰めた話をしようかなと思ってます。

 僕は別にフランス文学者でもないし、『星の王子さま』の翻訳ができるわけでもない。サン=テグジュペリの研究者でもないですから、ここでやってるような『星の王子さま』を読みながらいろいろ考える臨床哲学みたいな感じのものになるかなあと思っているんですけど。

 ケア論にするかどうかはまだわかりませんが、そんなことを考えているわけです。だからできるだけここで、まずはみんなに思ったこととか、「ここはなんかよう分かれへん」とか、そんなことを言ってもらいながら、この場でいろいろ考えられたらと思っています。

 浅野さんは向こうで初めての仕事なんで、締め切りを「年内に」と言ってました。年内ということはもう秋ぐらいには原稿が上がってないといけないんです。

 長見さんにもお願いがあるかもしれませんけど、テープ起こししてあるものを、もちろんテープ起こしはそのまま使えないですけど、ちょっと参考にしながらやっていこうかなと思ってます。よろしくお願いします。今度こそは目指せ1万部みたいなね。なかなか売れるもんじゃないですけど。

長見:1万部は、なあ。うん、3千売れたらまあトントンっていうか、ね、

西川:一番売れた『ためらいの看護』[*3]で5千ちょっとですしね。

[*3] 『ためらいの看護』:西川勝著、岩波書店、2007年出版。

長見:ああそうか。ふーん。岩波で5千。

西川:数字が気になる大人ですので。いろいろ考えてるんですけど、ここでやってるようなかたちで、前から順々と読んでは何かを書くみたいなになるかなあ。今のところどんなスタイルになるかもよく分かりません。みなさんからいろんなヒントもらえたらいいかなと思います。


何がさびしいのか 


西川:
 さて、いきなりⅢ章のこないだの続きから行きます。
20ページからですね。

ぼくがどんなに心を奪われたか、お分かりでしょう、王子さまが思わず口にした言葉から、王子さまが「地球以外の星」から来たかもしれないと分かりかけて。そこで、ぼくはもっと突っこんだことを知ろうとしました。
「どこから来たんだい? ねえ、君。『君んち』っていうのは、いったいどこなんだい? いったいどこへ、ぼくのかいてあげたヒツジを連れていこうっていうんだい?」
 しばらく無言でじっと考えたあと、王子さまはぼくに答えました。
「ありがたいことに、箱をくれたから、夜、箱がヒツジの家になってくれる」
「そうだとも。それに、君がおりこうさんにしていたら、昼間、ヒツジをつないでおく綱をあげてもいいんだよ。それに、杭もあげる」
 綱や杭をあげると言われて、王子さまはびっくりしたようでした。
「つないでおくだって? とんでもない!」
「だけど、ヒツジをつないでおかなかったら、ヒツジは好き勝手に歩いていって、いなくなってしまうよ……」
 すると、王子さまはまたしても大笑いしました。
「だけど、いったいどこへヒツジが行くっていうんだい?」
「どこへだって行くさ、どんどん前に進んで……」
 そこで、王子さまはまじめな顔で言いました。
「かまうことはないさ。とっても狭いんだ、ぼくんちは」
 そして、たぶん、少しばかりさびしそうなようすで、王子さまはつけ加えました。
「どんどん前に進んだって、そんなに遠くへは行けないのさ……」 


 Aさんはここ読んでどうですか?なんか気になってるところ。気になるところ、引っかかるところ、ありますか?

A:気になったのは、王子さまが「かまうことはないさ、とっても狭いんだ、ぼくんちは」と言っているところ。「どんどん前に進んだって、そんなに遠くへは行けないのさ……」って言うぐらい、王子さまの家わりとちっさいってさびしそうに言ってるんですけど、僕は別に、僕んちがそんな大きくなくてもいいかなあっていうか。

西川:ああ、なるほどね。

A:なんか、うーん、ここで王子さまはすごくさびしそうに言ってるんですけど、ぼくはまあ小さな家でいいような。あとで確か夕日が何回か見れるみたいな話が出てくると思うんですけど、むしろいいじゃないかと僕は思いました。

西川:はい、ありがとうございます。Aさんの意見はそういう感じですけど、それを聞いてどうですか? Bさん。

B:えー、わかんないです。ちょっと、パスで。

西川:では、Cさん。別に他の、自分が気になったところでもいいですし。

C:「ヒツジをつないでおかなかったら好き勝手に歩いていっていなくなってしまう」ってパイロットが言ったあとの王子さまの大笑いが、どんな笑いだったのかなっていうのを想像してました。

西川:
 なるほどね。他ないですか?「ここいいわ」とか「ここ気に入った」とかないですか。じゃあ、僕がちょっと話しましょうか。

 さて、Aさんは「そして、たぶん、少しばかりさびしそうなようすで」を、家が小さいことをさみしい、とみたわけです。僕はそんなふうには読めませんでした。僕は「どんどん前に進んだって、そんなに遠くへは行けないのさ……」がさみしいんだと思いました。これ誰のことかっていうと、王子のことなんですよ。この「どんどん前に進んだって」って。

 だから自分の星にバラを残して旅に出たわけでしょう。このことはあとにならないと分かりませんね。1回目では分からない。2回目読むと初めて分かるんです。

 2度目に読むと、この「どんどん前に進んだって、そんなに遠くへは行けないのさ……」は、実は王子のことだということがわかります。バラと仲違いして、ある意味バラを忘れるためにでしょうか、自分の星をあとにした。で、どんどん前に進んで地球までやって来たけれど、バラのことは忘れられない。

 「そんなに遠くへは行けないのさ……」。つまり、遠くに来たつもりでいても、バラのことがずっと気になっていたという。

A:うんうん。

西川:だから、そういう王子自身の心境とここを重ねて読むと、なんでそんなさみしそうな顔をしたのかって不思議ですよね。やはり「恥ずかしい」とかではない。

A:ああ、そうですね。

西川:
 小さいから情けない顔したとかじゃない。さみしいんですよ。ヒツジはどんどん前に進んでもそんなに遠くに行けないということは別にさみしくも何ともないのかもしれない。でも、ある意味王子もそうなんですよね。

 自分のふるさとの星をあとにして小惑星を巡って、それで地球に来て1年間あちこち行って。それでも「そんなに遠くへは行けないんだ」といってます。ふるさとの星はまだ帰れるところなんです。そんなふうに読むと、ここはずいぶん感じが変わります。

 だから最初に言いましたが、この『星の王子さま』は一度読んだだけでは決してそのすべてを明かしてはくれません。何度も読んでいくうちにやはり理解が変わっていくというか、深まっていくというか。まあそういうところがあります。

 で、最初のところからまた行きますけど、「ぼくがどんなに心を奪われたか、お分かりでしょう」は誰に言ってるかといったら、読者に言っているんです。

 この『星の王子さま』の特徴は、読者に直接語りかける文章が随所に入っているところです。ナレーションというか、単純に物語だけが淡々と続くんじゃなくって、読者に「ほら」、「ね、お分かりでしょ」っていうかたちで話しかけてくる。

 だから、ただ読むっていうわけにいかない。「お分かりでしょ」って、「ああ、分かります」「いや、分かりません」と応答せざるをえないような、読者に対してね働きかけるっていう、そういう文体を持った作品なんですね。

 単純に読み物として楽しむっていうよりは、常に問いかけられて応えなければしかたがないような、なんかそんな感じの本なんです。

 このあいだ「思わず口にした言葉」ということの中に結構真実があるんじゃないかという話をしつこくしましたね。質問されて答えるとかではなく、何か特段のことを主張するために言ったのでもなく、思わず口にしたこと。そこにこそ人の深いところから出てくる、そういう真実があるんじゃないか。それは決して説明ではないからはっきりと分かるわけじゃないけれど、でも「分かりかける」わけです。

 王子は非常に不思議な男の子です。砂漠の中でいきなり出会ったのに、そんなに困ってる様子に見えない。パイロットは王子がいったいどこから来たのかをずっと疑問に思い続けているわけです。だからこそ思わず口にした言葉から、自分の疑問とカチッと合うようなことが起こります。これ何にも考えてない人だったら何とも思わない、何も起こらない。

 でも、パイロットはそこから「ぼくはもっと突っこんだことを知ろうとしました」ということで、質問攻めするわけです。「どこから来たんだい? ねえ、君」とかって言っていろいろ言いわけです。

 王子は無視するわけじゃないけど、「しばらく無言でじっと考えたあと」全然違うこと言うわけです。「ありがたいことに、箱をくれたから、夜、箱がヒツジの家になってくれる」みたいな感じで全然見当違いの答えをする。まあそこからまだいろいろ突っ込むんだけど、うまくいかないわけです。コミュニケーションちゃんととれてないですね、ここらへんはね。

「ヒツジをつないでおかなかったら、ヒツジは好き勝手に歩いていって、いなくなってしまうよ……」
 すると、王子さまはまたしても大笑いしました。


 大人は何も分かってないのに分かったようなことを言うわけです。自分にとってヒツジっていうものは繋いでおかないとどんどんどんどん歩いていって、要するに行方不明になっちゃう、なくしちゃうと。だから常にヒツジっていうのは、牧羊犬じゃないけど羊飼いだとかそういうものの監視の下に置かないけない。

 これはパイロットの地球人としての常識なわけですけど、その常識でいきなり話しかけられると、星の王子さまの生活実感とは全然違う。でもいきなり、こう説教くさく言っているわけです。

たぶん、少しばかりさびしそうなようすで、王子さまはつけ加えました。「どんどん前に進んだって、そんなに遠くへは行けないのさ……」 

 これを王子はどんな気持ちで言ってたのかと考えると、ちょっとこっちもしんみりしてきますね。はい。じゃあ次行きましょうか。


王子さまの星


こうして、ぼくは二つ目のとても大事なことを知りました。王子さまの生まれた星は、一軒の家と同じくらいの大きさだったのです。

西川:
 一つ目は何かっていうのは分かりますよね。20ページのところです。要するに王子さまが地球以外の星から来たかもしれないっていうことですね。地球じゃないんだ、どっかの星から来たんだ、っていうことが一つ目。この二つ目は、その星が一軒家と同じぐらいの大きさなんだ、っていうことです。

 それを知っても、ぼくはそんなに驚きはしませんでした。というのも、ぼくは百も承知だったからです、名前がついている地球や木星や火星や金星といった大きな惑星のほかに、小さな惑星が何百もあることを。なかには小さすぎて、望遠鏡でもなかなか見つけられない惑星もあるということを。そういった小惑星の一つを天文学者が見つけると、名前をつける代わりに番号をつけます。例えば、「小惑星325」のように。
 ぼくは王子さまの故郷の星が、小惑星B612だとにらんでいるのですが、それにはちゃんとした理由があります。この小惑星は一九〇九年に一度だけ、トルコ人の天文学者が望遠鏡で観測したことがあるのです。
 その天文学者は自分の発見について、大々的に国際天文学会で発表をしました。けれども、着ていた衣装が衣装だっただけに、だれもその天文学者の言うことを信じませんでした。おとなたちというのは、そういうものなのです。
 B612がみんなに認められるのに好都合なことが起こりました。「洋服を着なければ死刑にするぞ」とトルコの独裁者が国民にヨーロッパ風の服装を無理強いしたのです。その同じ天文学者はとてもスマートな燕尾服を着て、一九二〇年にもう一度同じ発表をしました。そうしたら、今度は「そうだ、そのとおりだ」とみんなが口々に賛成しました。

 ここ、どうですか? ここで何か気になることとかありますか?またAさん。 

A:あー、何て言うか、さっきの続きって言ったらあれなんですけど、結構さびしそうやな、すごい自分の家のことをさびしそうかなと思ってる理由というか補足になるんですけど。平凡社で言ったら22ページにあたる星が、僕から見たらさびしそうな家で。王子さまもなんか自分の星のこと好きそうじゃない。というか、そんな思い入れがあるような顔にも見えなかったです。この時点では、だからこの星からどっか行きたかったんかなって僕は思ったんだと思います。

西川:なるほどね。なんでさみしそうに見えるんだろうか。

A:なんか、違うどっかの星のことを眺めてそうな。どっか別の星に思いを馳せていると思ったんです。

西川:まあここに描かれてるような星のどれかを見つめてるってわけじゃないよね。何を見てるか分からないけど、遠い所を見てるような目ですよね、たぶん。

A:そうですね。

西川:
 自分の足下を見てるわけでもないしね。自分の住んでいる星の何かを見てるわけでもないし、火山を見てるわけでもないし、ちっちゃな花を見てるわけでもないし、なんか遠いところに対してまなざしを向けてる。

 それからたった一人です。そういう意味では、この王子っていうのはどういうときの王子なのかっていうのもまた考えたらいいと思うんですけど。たぶんこのすぐ後ろに出てきます。28ページのところですか。

「むかし、むかし、王子さまがおりました。王子さまは自分の体より少し大きいくらいの惑星に住んでいました。王子さまは友だちがほしくてしかたがありませんでした……」

 これをキャプションに付けたらもうぴったしになっちゃう。だから家(星)がさみしいというよりも何か、友だちがほしいとか独りぼっちやみたいな雰囲気がやっぱりこの絵にはあるんです。宇宙空間の中に小惑星がぽつんとあるわけですから。

 サハラ砂漠に不時着して一人でいても同じ地球です。何億っていう人間が住んでるところの、人が少ないところにいるだけで地続きなんです。

 でもこの小惑星ではたった一人なんです。でもあとで、いろんな星を巡りますけど、その星巡りをするところの相手もみんな一人なんよね。だから独りぼっちと独りぼっちとの出会いの話がずっと続くんです。

 パイロットだって、ずっと心を打ち明けて話できる相手はいませんでした、っていうところが前にあったと思います。要するにこれ、孤独というか独りぼっちの者どうしの話になるんですよね。ここらへんがまた面白いところだと思います。

 あと、「一九〇九年に一度だけ、トルコ人の天文学者が望遠鏡で観測したことがあるのです」とか「一九二〇年に」とか、もうカチッと書いてありますよね。

 僕はトルコのことなんかほとんど知りませんけど、インターネットでトルコの歴史とか調べたことあるんですけど、特段思い当たる事実は何もなかったです。この年号に何かあるのかなと思ったんですけどね。1909年は<青年トルコ人革命>でクーデターが起きたみたいです。1920年には<トルコ大国民議会招集>というのがあります。

 1922年から1923年の間にトルコ革命っていうのがあって、オスマン帝国からトルコ共和国になってるんです。だから、そういう意味では1920年前後にトルコですごく大きな社会的変化があったことは確かなんですね。オスマン帝国からトルコ共和国になる、要するに日本の明治維新と一緒です。西洋化するっていうか欧米化をトルコは選んだわけですよね。

 だから、まるででたらめな話ではないんですけれども、「一九〇九年」とか「一九二〇年」に何かあるかというとそうでもなさそうですね。で、トルコにサン=テグジュペリが関係を持っていたかどうかも、僕が伝記読んだ限りでは特段ありませんでした。

 ここに何か隠されてんのかなあと思ったりもしたんですけどね。分かりませんでした。それで「小惑星B612」っていうのもね、あほみたいに調べてみたら、この名前を付けられた星は実際にあるんです。バシドゥーズ[*4]とか何とか。1993年に日本人が発見して、2014年に「小惑星B612」と命名されたっていうことです。『星の王子さま』ブームに乗っかって命名したようなものみたいですけれど。

[*4] バシドゥーズ:B612(466410 Bésixdouze)。BésixdouzeはB612のフランス語での読み下し“bé six douze”から来ていて、発音は「ベ・シス・ドゥーズ」に近い。


数字以上のこと


 小惑星B612について、こんなにあれこれ細かく話をし、番号まで明かすことになりましたが、それもこれもみんな、おとなたちのせいなのです。おとなたちは数字が好きですから。君たちが新しい友だちのことを、おとなたちに話すとしましょう。そんなとき、おとなたちは君たちに、大切なことはなに一つきいたりしません。「その子はどんな声でしゃべるの? どんな遊びが好きなの? チョウチョウの標本を集めているの?」なんていうことは決してきかないものですよ。おとなたちが君たちにきくのは、「その子の歳はいくつなの? 兄弟は何人いるの? 体重は何キロなの? お父さんの給料はいくらなの?」なんていうことだけ。そんな質問をして初めて、おとなたちはそのお友だちのことが分かった気になるのです。おとなたちに君たちが言ったとしましょう、「バラ色のレンガ造りのすてきなおうちを見たよ。窓にはゼラニウムがいっぱい咲いていて、屋根には白い鳩がいっぱい止まっていてね……」ってね。そうすると、おとなたちの頭には、その家のイメージがまるで湧かないのです。おとなたちには、こんなふうに言ってあげなければいけません。「十万フランもするおうちを見たよ」ってね。そうすれば、おとなたちは「ああ、なんてすてきな家だこと!」って大声をあげるでしょうよ。

西川:
 「○○さんてものすごい面白い人やね」って聞いちゃったら、「歳いくつ?」とかって言ってしまいますよね。こどもがいたら「坊ちゃん、いくつ?」とか。やっぱり聞いてしまいます。「一億円の家やって」って聞くと「ええ! すごいな」と言ってしまったり。二度と言わないって心に決めても、すぐに言ってしまいそうになります。

 「給料なんぼですか?」「ええ! 300万?月給。すっごい!」とか。何がすごいかさっぱり分かりませんけどすぐ言っちゃう。「10万ですか。やっていけます? それ」とか「生活保護11万か、ええー!」「そら、あかんでしょう」とか。これも何があかんのかさっぱり分かりません。

 僕たちは大人なんですよ。だから千円のコロッケがあったら「千円、高っ! このコロッケ千円、高っ! すっごいな、すっごいコロッケやな」って思いますよね。

 烏骨鶏(うこっけい)の卵なんかで1個千円ぐらいしますよね。「千円!」「すごい卵に違いない」って思ってしまうわけです。しかも「烏骨鶏」っていう漢字が読めない。「おお、うこっけいって読むのか、ええー!」みたいな感じで、食べたこともないくせにすぐにいいものに違いないと思ってしまうとこありますよね。まあ、大人だったら「そらそうやけど、そない言われても」となりますね。


大切なことはなに一つきいたりしません。「その子はどんな声でしゃべるの? どんな遊びが好きなの? チョウチョウの標本を集めているの?」   

大切なことはこれなんです。なぜ大切なのかを考えてもらいたいなあと思うんです。これは大人たちに対するまあ批判ていうかね。「数字だけじゃあかん」みたいな。

 とは言っても、僕たちの日常生活っていうのはやっぱり数字で物事を比較したりだとかします。数字がすごいと「おそれ多い」みたいなところがあります。

 「あの車何千万もするんやって、すっごいな」。「すごいな」ってすぐ言ってしまいます。「時速何キロ、すごいな」って言っちゃうんです。色がきれいとか関係ないもんね。でもマニア、というかファンになってくると、「この車のエンジンの音がすごいんや。腹に響いてくるこのエンジン音がたまらんねん」ってなりますよね。

 車を愛してない人だったらエンジン音なんかどうでもいいんです。そんなことより値段なんです。値段とかスピード、最高速度とか。ところが車を好きやって言ってる人は、エンジンの音がどうなのかとか、形がどうなのかとか、そういうことに気持ちが行くんです。

 だから自分にとって、数字ではない、世間一般の人とは違う価値基準でそれと接しようとする物とか事があるのかどうか。「仕事はやっぱり給料が良うないとなあ」としか思えないないのだとしたら。仕事だけじゃなく、家でもそうだし、何でもそうですね。

 「いや、数字じゃなくって、僕は、私は、これに関しては値段とか関係ないねん」みたいなことがあるかどうか。「数字じゃなくって、これが気になる」みたいなことです。「ガラスのグラスを選ぶときには必ずちょっとピンって弾いて鳴らしてみる」、「その音が気に入らんかったら買えへんねん」みたいなものがあるかどうか。そんな感じで考えてみると面白いかもしれません。

 答えはここにまだないですよ。次のところに、「大切なことは何一つきいたりしません」と、もうちょっと難しく畳みかけるように続きます。「どんな声でしゃべるのか」、「どんな遊びが好きなのか」、「チョウチョウの標本を集めてるか」が大事なことだって言ってるわけです。えっ?と思いますね。

君たちがおとなたちにこんなふうに言うとしましょう。「王子さまはとってもすてきで、王子さまはニッコリ笑い、王子さまはヒツジをほしがった。だから、王子さまがほんとうにいたってことは絶対間違いないんだよ。ヒツジをほしがるってことは、その人がほんとうにいる証拠だよ」と。すると、おとなたちはきっと肩をすくめて、「まだまだ子どもだね」って君たちをたしなめたでしょう。それに対して、君たちがおとなたちに「王子さまの生まれ故郷の惑星は、小惑星B612だよ」と言えば、おとなたちは膝を叩いて納得し、君たちを質問攻めにすることはないでしょう。それがおとなたちなのです。だからといって、腹を立ててはいけませんよ。子どもたちはおとなたちのことは、なるべく大目に見てあげなければいけないのです。

 さらに難しくなってます。「ヒツジをほしがるってことは、その人がほんとうにいる証拠だよ」っていう文ですけど、ここについてみなさんどう思われますか。さっきの「大切なことっていうのは、その子がどんな声でしゃべるのか」とかっていうところと、「ヒツジをほしがるっていうことは、その人がいたっていうことの証拠なんだ」というところ。

 「彼はB612で生まれて、何年間そこにいてて、6年前に」ではなくて、「歳は何歳で」とかじゃなくて、「ヒツジをほしがった」こと。「王子さまはとってもすてきで、王子さまはニッコリ笑い、王子さまはヒツジをほしがった。だから、王子さまがほんとうにいたってことは絶対間違いがないんだ」というこの理屈です。この理屈、この論理はいったい何なのか?


その子はどんな子か


E:なんかこう意外性っていうか。うーん。子どもは「こういうヒツジをほんとにほしがるんや」っていう、そういうところが心に響いたっていうことですかね?

西川:心に響いたんですかね?

E:うん。それを「ほんとにいたっていうことや」ってこの人は言わはるっていうことで。なんか普通の大人が感じるのよりかは、やっぱりそういう子どもっぽいっていうか、見る目がそういう感じで。そういうほうを大切にしてはるんやなあっていう感じがします。

西川:
 このあたりはパイロットなのか作者なのかちょっとはっきりしないんですね。まあまあ、そうですね。すてきであったり、ニッコリ笑ったり、ヒツジをほしがったりっていうことが心に響いたっていうことかもしません。

 小惑星B612って言ったって、それは「彼の故郷は小惑星B612だよ」って聞いた、知ったところで全然心に響いてこない。だから心に響いたのは、彼がすてきやったり、笑顔が…、ニッコリ笑ったりっていうことなんだっていうことですけど。どうですかね。

 それじゃあ、ちょっと離れて考えてみます。たとえば「長見さんがいるっていうことの確かな証拠は何なのか」とかね。誰でもいいですけど。自分でもいいですね。「自分はいますっていうことの証拠を見せろ」って言われたらどうでしょう。これちょっとSFチックですけど。

 「お前、人造人間やろ?」っていうのは、ぼくは精神科で働いているときにしょっちゅう言われてました。「お前人造人間、あいつも人造人間、みんな人造人間。人間なんか誰もおらへん、ここには」って言われます。「いや、俺は人間や」っていくら言ってもだめです。

 「私が私としてここにいる」ということの証拠はどうしたらいいと思いますか?「昭和32年6月13日に生まれて、大阪に行ったら分かるよ。戸籍あるよ」とかって言ったって、「そんなもん違うよ」とその患者さんだったら言うでしょう。「違うよそんなん。違うよ。車検証みたいなもんや、そんなん」って。じゃあいったい何でしょうか?「これがちっちゃい頃の俺やよ。写真やよ」とか言っても「そんな、そんなん証拠になれへん」って言われるかもしれません。「何が証拠なん?」ってなりますよね。

 これは臨床哲学でものすごく問題になったんです。思考実験みたいなことをやりました。「もしこの目の前にいる患者さんがロボットだとしたら」って。今、臨床哲学で教授してる堀江さん[*5]がまだ大学院生やった頃、池川清子[*6]さんという看護学者に、大阪大学に来で一緒に授業やった時に、そういう問いを投げかけたんですって。

「もし、この『苦しい、助けてほしい』って言ってるこの患者さんがロボットだったとしたら」みたいなこと言ったら、みんな激怒してね。ナース連中激怒して、「もう一緒にやってられない」みたいな感じで、ものすごいチャンチャンバラバラのけんかになったんです。これはもう数年間にわたりました。すさまじいけんかになった。「あんなことを平気で言えるような人たちに臨床とか名乗ってほしくない」みたいな感じで。

 でも「この人はいるっていうことの証拠は何なんですか、じゃあ」って言った時に「ひょっとしたらこれは幻覚かもしれない」って感じで、デカルト[*7]は論を詰めていくわけです。「今ここにあると思っているのは、これは私の錯覚かもしれない。私が見てる、生きてるように見えてるだけで、実はそこには何もないかもしれない」っていうふうにしてすべてのことを疑ってかかる。方法的懐疑[*8]っていうんですけど、それで「どうしても疑えないものは何か」っていうことを突き詰めるまでやるわけです。

 だから「この患者ひょっとしたら、これは仮病かもしれない」ぐらいのことはナースも考えるんだけど、「ロボットかもしれない」なんてことは思考実験だからね。思考実験は哲学者だったらやるんですよ。ところが実際の実践家であるナースはですね、「そんなことを考える人と一緒に議論できません!」みたいな感じで、もう全然一緒にやれなくなったんです、しばらく。それこそね、自分の弟子をね臨床哲学の院に入れたんですけど、その弟子まで連れて帰ったっていうね。

[*5] 堀江さん:堀江剛(ほりえ つよし)。1961年生まれ、哲学者。大阪大学大学院文学研究科教授。
[*6] 池川清子:いけがわ きよこ。1938年高知県生まれ、神戸市看護大学名誉教授。
[*7] デカルト:René Descartes 1596-1650、フランス生まれ、哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
[*8] 方法的懐疑:デカルトによって提唱された哲学用語。これはデカルトによる哲学の革新の出発点であり、確実なものに到達するまでの手段として行われる懐疑。この世に存在する偏見や謬見、あるいは真実らしくみえているものの不確実であるなど疑う余地が少しでもあるならば、疑う余地として否定していくということである。

 さあ、だから結構難しい問題なんですよ。目の前にいる彼が本当にいるという証拠は何なのか。私がいるという証拠はいったい何なのか。その時に、その子の歳がいくつやとか、きょうだい何人いるとか、体重は何キロやとかっていうようなものは、彼の故郷はB612やとかって言ったって、それは証拠にならんって言ってるわけです。

 そうではなく、「その子がどんな声でしゃべってるのか? どんな遊びが好きなのか? チョウチョウの標本を集めてるか?」が大事なんです。これはいったい何だと思います? 

 要するに外から見て分かるようなことじゃないんですよ、全部。これは全部、向こうから何か、行為というか、内側から出てきたものなんです。声にしても、相手がどんな声でしゃべったのかですから。だから、どんな遊びをしたいと思っているのか。彼の内側から出てくる彼がしたがっていること、していること、そこにこそその子の、その人の存在の根っこがあるんだって言ってるわけですよ。

 客観的に観察して「観察したからあるんだ」「観察可能だからあるんだ」みたいなことは証拠にならないって言ってるわけです。それは観察者の錯覚かもしれない。そういう意味ではどんな声でしゃべるかっていうことは、聞くまで分からないんですよ。聞くまで、決して分からない。

 耳を傾けなければ分からないわけです。チョウチョウを集めてるかどうかっていうことも、それもやっぱり友だちになって話をいろいろ、「僕はこんなことしてる、あんなことしてる」っていうやりとりがないと分からない。

 その子が何歳とかきょうだい何人いるかっていうのは、その本人に聞かなくったって周りの事情からでも分かることができるんです。でも、その子の声はどんな声なのかっていうのは、その子が話さない限り分からない。だから、だからこそ大切なことなんですね。その人に聞かなくても分かることは大切じゃないんですよ。


ケアと思考実験


西川:
 これをまたケアのことで考えるとしたら、「相手のことを知らないとちゃんとしたケアできない」と言ってるけど、ほとんど大切なことは調べてないんですよ。アセスメントしてないんです。本人に聞かなくても分かるようなことばっかりなんです。

 その人の年齢がいくつとか、要介護度がいくつとか、知能指数がいくつとかね。体重は、身長は、とか。そんなことを知ったら、患者さんに対して、というか利用者に対して、自分がこれからケアする人に対して理解が深まったと思ってるんです。

 でも、ここではそれは全然大切なことじゃないって言っています。大切なことは、その相手をケアしようとした時に、相手を知るために、相手の本当にいる姿を知るためには、相手から出てくる声に耳を傾けること。相手の笑顔だとかそういうことのほうがずっとずっと大事なんだ、っていう話なんです。

 すごいことをたぶん言ってるんですよ。「ヒツジをほしがるってことは、その人がほんとうにいる証拠だよ」っていうこと。これ普通聞いたら「おかしいんちゃうか」と普通思いますよ。思うけれども「何かをしたがってる」っていうことなんです。

 だから、「この患者さんはロボットじゃないってはっきりした証拠を、私なら言えます」っていうのはどうなのか。「この患者さんはお水がほしい、私の話を聞いてと言った。話を聞いてって言ったっていうことは、その人が本当にいるっていうことの証拠だよ」ということはたぶん言えるんです。

 でもそうじゃなくって、「どう見たってこれは人間でしょう」とか、「体温もあるし」とか、「心音も聞こえるし」っていうのはどうでしょう。「いや、それは精巧なロボットやねん」って言われたら終わりです。

 だから、「この人が本当に生きてる人なんだ、ということの証拠は何か」って言った時に、いったいどこにその根拠を探すのかっていうことは、かなり大事なことなんですね。

 怒って「そんな失礼なこと言うやつとは一緒に議論できへん」て言うてるやつのほうがよっぽど馬鹿なんですよ。やっぱりきちんと、何がその人が生きてるっていうことの証拠なのかっていうことを、やっぱり理解できてないんです。単純に思い込んでるだけなんです。もう規範、職業的な規範なんです。「患者をロボット扱いするな」みたいなね。

 でも「ロボット扱いしない理由は何なのか」って言われた途端に、もう口チャックです。「もうそんなこと話したくありません」みたいな感じになっちゃう。でも哲学っていうのはある意味、まあ言ってみたら、非常に穏当ではないようなところにまで問いを持って行くんやけど、でも根っこの根っこのところに真実があるんだとしたら、適当なところでごまかしてはいかんと僕なんかは思います。

 うん、あのことを思い出しました。なんかね、思い出しました。今ならもうちょっと僕もやり込め、やり返せるんやけどな、とか思うけどね。うん。

長見:池川清子さんってどこの大学やったん?

西川:池川清子さんはどこだったかな。高知女子大出て、日赤かな?そりゃすごい、川本隆史[*9]さんとかみんなにめちゃくちゃ影響を与えた人ですよ。西村ユミ[*10]さんなんかも全部あの傘下ですからね。

[*9] 川本隆史:かわもと たかし。1951年広島県生まれ、倫理学者。東京大学名誉教授、国際基督教大学教授。専門は倫理学、社会哲学。
[*10] 西村ユミ:にしむら ゆみ。首都大学東京大学院人間健康科学研究科教授。専門は成人看護学。 

西川:
 東京から来てたと思います。一緒に共同で授業しましょうっていうのをやってた。あの頃は、ちょうど、日赤で鷲田先生とか中岡先生が現象学[*11]の出張講義してたんです。「現象学的看護論」というタイトルで、鷲田先生とか中岡先生が行ってました。俺も中岡先生が行った時にかばん持ちで行きましたね。

 結構仲良かったんです。そんな関係もあって、西村ユミさんも博士論文を鷲田先生に相談して書いてました。でもそのときはもう大げんかで、上どうしがけんかしてしまって。鷲田先生は怒ってないですけど、向こうが起こって手が付けられないとき時がありました。

[*11] 現象学:哲学的学問およびそれに付随する方法論を意味する。

 でも「ケア」って言うときに、まず人間愛とか、そういう「規範」とか、使命感とか、愛情とか。そんなことをばーんって出すと議論できなくなります。「彼が本当に生きてるっていう、彼が本当に人間なんだっていう証拠、何でしょう?」みたいなことを言ったら「失礼」になるんです。「失礼って言われてもなあ」みたいな感じだけど。

 これも本当にそうなのか。何にも声も出さない、何かしたいと言うこともない、遊ぶこともない、笑うこともないって言われてるような、ただ生きてるだけっていう人は生きてないのか。いわゆる植物状態といわれているような人たちは生きてないのか、って。

 だから、ここも結論があるわけじゃないです。『星の王子さま』ではこう言っているけど、問いの答がはっきり見つかってるわけじゃない。「じゃあいったい、その人がほんとにいるっていうことの証拠は何なのか」っていうのは、たぶんこれで「ご名答」っていうわけじゃないんです。

 もっとこうシビアな関係の中に自分たちが巻き込まれることってありますから。もう、もうほんとに、あとわずかでこの世を去ろうとしている人。そういう臨終の間際をケアすることだってあるわけですが、その時に「この人が生きてるっていう、ここに本当にいるっていうことの証拠は」なんていうことを、「ニッコリ笑ったり」とか言ったりしても話は始まらないわけですから。「じゃあどうしたらいいのか」っていうことになりますね。それはそれでまた、みなさんが現場で必死になって考えたらいいかなあと思います。


読者を巻き込む仕掛け


けれども、もちろん、人間が生きるうえでなにが大切か分かっているぼくたちには、番号なんかどうだっていいのです。この物語にしてからが、ぼくはほんとうはおとぎ話と同じような書き出しにして、こんなふうに書きはじめたかったのです。
「むかし、むかし、王子さまがおりました。王子さまは自分の体より少し大きいくらいの惑星に住んでいました。王子さまは友だちがほしくてしかたがありませんでした……」人間が生きるうえでなにが大切かよく分かっている子どもたちには、このほうがよほどもっともらしく思われたことでしょう。 

西川:
 ここにも、さっき言った読者を巻き込む言い方が入ってます。「人間が生きるうえでなにが大切か分かっているぼくたちには」。この「ぼくたち」って誰なんでしょう?これは少なくとも作者と読者です。これを読んでる自分です。「いや、俺分からん、こんなん」って言ったら、ここでもう本読めなくなっちゃうんですよね。うん。

 こうやって『星の王子さま』っていうのは、第Ⅰ章からですけど読者を試すというか読者を鍛えるっていうか、「この本を読むためには、こうでなければこの先は読めないよ」っていうことを何度も何度も警告というか忠告するわけです。それで、「でしょ」って言う。「人が生きていくうえで何が大切か分かってる、ぼくたちでしょ」って。「あなた違うの?」「ぼくたちでしょ」って言うわけです。

 そうすると、さっきのところがよく分からなかったらいけないですよね。「え? ちょっと待てよ、その人が本当にいる証拠っていうのはどういうことやろ」みたいなね。「これが分からなかったらこの先は読めない」みたいなことになる。

 だからこれ、厳しいと言えば厳しいんですよね。そういう意味で自己批判というか自己否定というか、通常の常識で生きている大人たちが読むと、その常識をくつがえさない限りこの先は読めないぞっていうかたちで突きつけてくる。そういう本なんです。

 子どもたちは、どうなんでしょうね。子どもの時は、そんな底意地は分からないからあれかもしれないけど。これもさっき言ったように、こんなふうに書き始めたかったっていうのは、「王子さまは友だちがほしくてしかたがありませんでした……」っていう、王子が何をしたいのか。何を欲しているのか。そのことを言ったほうが、「小惑星B612で」ということよりも、ずっとずっとその人が本当に生きてるんだっていう証拠になるわけですから、ぐっと中に入れるっていうことです。

 それこそさっき言われたみたいに、読者の、それを聞いた者の心に響くわけです。「え、そんなに友だちがほしくてしかたがなかったん。そんな『しかたがない』っていうのはどういうことやろ?」「そんなにさみしいんやろか?」とかね。「どんなことがあってそないなってんのやろ?」ってやっぱり考え始めるわけですよ。「なぜそんなに友だちがほしいんやろ」って、「自分はそんな友だちがほしかったこと、ほしくてしかたがない時ってあったやろうか? 今どうやろ?」とかって。「え、でも友だちって何やろ?」とかって、いろいろ考え始めるわけですよね。

でも、そんな書き出しにしていないのは、ぼくがぼくの本を気軽に読んでもらいたくないからです。

 ここです。「ぼくがぼくの本を」っていうことは、ぼくはサン=テグジュペリでしょ?だからパイロットが書いてるかなと思ってたら、パイロットでもなさそうなんですよね。第Ⅳ章の始めの「こうして、ぼくは二つ目のとても大事なことを知りました」っていうのは、これはパイロットのことですよね。

 だから「ぼく」はパイロットのことかなと思ってたら、「え?ぼくがぼくの本をって、これパイロットが書いた本?」ってなる。「え、そのパイロットって誰? サン=テグジュペリ?」みたいになって、ちょっと不思議です。

 本当は話者、物語をお話している人と、この「レオン・ヴェルトに」っていっている献辞の書き手はサン=テグジュペリってすぐ分かります。でも「ぼくが六歳のとき」とかっていうのは、これはパイロットの話です。

 でも途中に入る地の文っていうのは誰が書いてるのかというと。この本の物語を物語っている話者なのか、まあイコール著者ですよね。著者なのか、それともパイロットなのか。はっきりしないところがあるんですよ。フランス語ではもっと明確になってるのかどうか分かりませんけど、日本語だとあんまりよく分かんない。

この本に書いた思い出を語るのに、ぼくはほんとうに悲しい気持ちになっています。ヒツジといっしょに、ぼくの親友の王子さまがいなくなってから、もう六年が経ちます。 

 と出てくるわけですから、「いや、やっぱりそうか、パイロットか、パイロットが本書いたのか」っていうことになるんですね。

王子さまのことをここに書くのは、王子さまを忘れないためなのです。親友のことを忘れるなんて、悲しいことです。親友を持つなんて、だれにでもできることではありませんから。それに、ぼくだって、おとなたちのように、数字のことしか頭にないようになるかもしれません。 

 たぶんここをレオン・ヴェルトが読んだら、ぐっときたと思いますよ。レオン・ヴェルトに捧げられてる本ですし。「この世でいちばんの親友だからです」っていうことで、「レオン・ヴェルトに捧げる」ってなってます。「王子さまのことをここに書こうとするのは、王子さまを忘れないためなのです」。「王子さま」って言ってますけど、それは親友のことなんですよね。

 この本はいわゆる童話というか童話風のスタイルですから、前にも言ったかもしれませんが、固有名詞は一切出てきません。王子さまの名前が何て言うのか、ジョンなのか何なのか、とにかく出てこない。パイロットの名前も出てこない。誰一人名前を持った人が出てこない。

 すべて一般名詞です。「王子さま」とかね、「パイロット」とか、「地理学者」とか。バラにしたって「バラ」です。ヘビだって「ヘビ」でした。だからそういう意味では非常にこう抽象的っていうか、普遍的なものなんですよね。

 「王子さまのことをここに書こうとするのは、王子さまを忘れないためなのです」って言った時の「王子さま」と、次に「親友のことを忘れるなんて、悲しいことです。親友がいたなんて、だれにでもあることではありませんから」というのは、これはもうレオン・ヴェルトに向けて書かれたものだと思って、もうほんとに間違いないと思います。

 レオン・ヴェルトはここでたぶんぐっときてる。「この本がレオン・ヴェルトを慰めるために書いたんや」って前回言いました。要するに「慰められなあかん人なんや」って。

「この本の内容のどこが慰めになるんやろ?」になるのか。分からないですよね。そんな明るい話と違いますから。この本の中では、最後にバラと会うこともなく、王子はパタンって倒れますし。いったいどこにそんな慰めるような中身があるのかっていうことですけど、まあその一端はここにあるのかもしれない。


もっと大事なこと


ぼくが絵の具箱や色鉛筆を買ったのも、王子さまを忘れないためなのです。ただ、ぼくの歳になって、もう一度絵をかき始めるのは大変なことです。なんといっても、六歳のときに、外しか見えないボアと、お腹の中が透けて見えるボアをためしにかいただけでしたから。もちろん、ぼくはできるだけよく似た王子さまの絵をかくつもりです。けれども、うまくいくかどうかは、心もとないのです。一枚くらいはうまくかけたとしても、つぎの一枚は王子さまに似ても似つきません。王子さまの背丈にしても、ぼくは少しは間違ったりもします。ここにかいた王子さまは背が高すぎる、あそこにかいた王子さまは背が低すぎる、なんてことになったりします。王子さまの服の色についても自信がありません。ああでもない、こうでもないと、かいてはみますが、なかなかうまくいきません。もっと大事なことについても、ぼくは間違うことでしょう。

西川:
 さあ、「もっと大事なこと」って何でしょう?うまく描いても似ないときもある、背丈も違うかもしれない、服の色も違う。これはさっきの話で言ったらどうでもいいことです。「身長はなんぼやの?」とかね、「どんな色の服着てんの?」とかっていうのは、まあ言ってみたら外から見たら分かることなんで。でも、「もっと大事なこと」っていったい何でしょう?。

 「もっと大事なことについても、ぼくは間違うことでしょう」って書いてあるけど、「もっと大事なこと」っていうのは何なのか、っていうことは書いてくれてないんですよ。だからここは僕たちが考えないといけないんです。

 星の王子さまのこの様々な絵がありますけど、確かにさっき話題になった22ページのこの王子と、38ページの夕日を見る王子と、ずいぶん印象違うと思いませんか?ずいぶん違うとこありますよね。ずいぶん違います。

 それぞれ見てみたら、服の色だって違う。蝶ネクタイとそれからマフラー(ストール?)と、服装の違いももちろんあるし、色も違ったりするけれど、いったいじゃあ何が大事なんでしょう?

 昨日は僕は、『星の王子さま』の朗読をやっているジェラール・フィリップっていうフランスの昔の男前が主演した『モンパルナスの灯』[*12]っていうビデオを家で観てました。あれを観ると僕ね、酒飲むんですよ。あともう一つミッキー・ロークの『バーフライ』[*13]。あれも酒飲むんです。

 ともあれ、昨日はジェラール・フィリップを観たわけです。モディリアーニ[*14]の役やってるんですけど、モディリアーニってとんでもない男ですね。もう何十回観てるか分かりませんけど。

 モディリアーニは画家で彫刻家です。彼が絵を描くと、モデルとある意味で全然似てないわけですよ。細ーい、なんか首のぴゅーっと伸びたようなのを描く。アフリカあたりの彫刻にすごい影響された人で、全然似てないわけです。

 「似てるように描いてよ」とかって言われるんだけど、全然似てない。「俺は似顔絵描きじゃない。俺は画家や」っていうセリフが「格好ええ」とか思って僕は観ているんです。昨日のジェラール・フィリップ演じるモディリアーニによると、絵にとっては、似てるか似てないかは大切じゃないんですよ。

 「似てるか似てないかが大事なのは似顔絵描きや。俺は画家だから」言ってるわけですが、面白いですよね。でも「もっと大事なことって何やろ」というわけです。文章書くときでもたぶんそうかもしれない。普通大事だと言われていることよりももっと大事なものがあるということです。

[*12] 『モンパルナスの灯』:“Les amants de Montparnasse” フランス映画、1958年。監督はジャック・ベッケル、主演はジェラール・フィリップ。画家アメデオ・モディリアーニの伝記映画。
[*13] 『バーフライ』:“Barfly” アメリカ映画、1987年。監督はバーベット・シュローダー、主演はミッキー・ローク。脚本を作家・詩人のチャールズ・ブコウスキーが手掛けた。
[*14] モディリアーニ:Amedeo Clemente Modigliani 1884-1920、イタリア生まれ、画家、彫刻家。主にパリで制作活動を行い、芸術家の集うモンパルナスで活躍した。

 「大切なことは目には見えない」は非常に有名なセリフですけど、この『星の王子さま』全体のあちこちに、大事なこと、大切なことが散りばめられてあります。これらはキーワードなんです。必ずそこで立ち止まらないといけない。大事なことを見過ごしていったら駄目なんです。

 この本では「もっと大事なこと」とあるときに説明してくれないんです。一切してくれない。だからここは自分で読まない限り絶対に届いてこない。まあ、自分一人じゃなくって、できたらみんなでいろいろ考えながらやるといいかなって思います。

 僕がちらっと思ったのは、昨日のそのモディリアーニの言葉ですね。「俺は似顔絵描きじゃない。俺は画家だ」ということです。しかし、モディリアーニの絵は何を描いてるんやろね? 内縁の妻ジャンヌっていうのが、モディリアーニが亡くなってからまあ一週間経てへんうちにあと追い自殺してるんです。飛び降り自殺。そのジャンヌを描いた絵に「青い瞳の女」[*15]っていうのがあるんですけど、なんかねえ、もう薄幸の人っていう、ほんと幸薄き女性みたいな感じです。

 まあ不幸にしたのはモディリアーニですけどね。嫁さんが一生懸命絵はがきの色塗りしてるのに、自分が儲けてきた金を、酔っぱらった勢いで「金、金、金か。ほんなんセーヌにやる!」って、ぱーんって川に放り出して。それで「ほら、川が金持ちになったわ!」って。

[*15]青い瞳の女:アメデオ・モディリアーニの作品。青い目と赤褐色の髪から、モデルはジャンヌ・エビュテルヌだと、多くの人が信じている。

一同:(笑)

西川:
 ほんとにねえ。ほんとに、ああいう男っていますよね。そんなに遠くに行かなくても、って感じがしますね。はい。


忘れることは悲しいこと


ぼくの親友の王子さまは、説明をぜんぜんしてくれなかったのですから。たぶん、自分と同じような人間だ、とぼくのことを買いかぶってくれていたのでしょう。でも、残念なことに、ぼくは、箱の外を見ただけで、中のヒツジが見える、そんな人間ではありません。ぼくはたぶん少しばかりおとなたちみたいなのです。ぼくはもう年齢を重ねすぎたにちがいありません。

西川:
 僕はここには異論があります。「「年歳を重ねすぎて」じゃないねん。歳が足らんねん」と思ってしまいます。中途半端な大人だから駄目なんだと思います。ちゃんと歳を重ねていけば、そうじゃなくなると僕は思うんで、ここはサン=テグジュペリに俺は全然同意できないです。

 まあ40何歳で死んだサン=テグジュペリに、60歳の僕が「60になったら分かるんや!」って言うのもあれですけど。「説明をしてくれなかった」「自分と同じような人間」とあるので、王子というのは説明を必要としない人なんです。ここはどうですか? ここらへんでみなさん、感じたことをひと言ずつでも言ってもらいましょうかね。

 今日はこのあたりで止めようと思いますんで。食べながら和やかにやりましょう。いや、別にここだけじゃなくてもいいですよ。他んところでもいいです。

G:そうですね。なんか悲しみとか、何て言うんでしょうね、なんかもう、いろんなことが詰まっています。「もっと大事なこと」って何なんでしょう? 嘘をつかないことでしょうか。

西川:
 「もっと大事なこと」って何なんでしょう。ここは絵を描くときですよね。「ぼくは間違うことでしょう」ってありますけど、「もっと大事なこと」って何なのか。あとやっぱり、レオン・ヴェルトがぐっときたやろうっていうので、悲しみとかっていうのは「親友のことを忘れるなんて、悲しいことです」なんでしょうけど。

 でもやっぱり親友だけじゃないですよね。「別れた妻を忘れるなんて」っていうのもかもしれない。だから「愛した人を忘れるなんて、悲しいことです」っていうことかもしれないけど。でも、うーん、結構難しいですよ、やっぱり。

G:忘れるってことではないけども、ある意味忘れる、忘れていってしまう時に、なんか違うかたちで残ってる、みたいな感じですかね。

西川:
 どうなんでしょう。でもやっぱり忘れるとね、「辛い思い出やから、楽しかったけどまあ結局は別れてしまったし、もう彼女のことを思い出すと…」とかって、まあ僕の場合だったらなりますね。相手が女性だとしたらすけど。

 だから、「もう、もう思い出すのはやめよう」とか、それこそ「時間が経てば忘れるかもしれない」とか。でも忘れたら、自分のことも思い出せなくなってるんですよ。自分の人生と一緒に消えるんですよ。こないだそのことに激しく気づいてね。ほんと激しく気づいて「俺は辛くても忘れないでいよう」と最近思ってます。ついついやっぱり、やっぱね、そらもう、だんだんだんだんやっぱり遠くなっていきますけれど、忘れるなんてやっぱり悲しいことなんですよ。

 それはその相手のことを思い出せないだけじゃなくって、彼と親友だった自分だとか、彼女を愛した自分だとか、自分が必死になって生きてた時のその自分も思い出せなくなっちゃう。自分が生きてきたことが根こそぎにされちゃうんですよ。

 そんな都合よく相手のことだけを忘れるなんてことはできへんのです。ある意味そういうこう親友にしても、その愛する人にしても、自分の人生とほんとに切り離せないように絡みついて、相手のことを忘れたら自分まで失ってしまうというね。たった一度しかない人生のそれこそほんとに、まあ悲しかったかもしれないけれども、みたいなふうに思います。

 それこそ、こう20代の時の自分のことを思い出そうにも思い出せないですよね。こないだもうそれに気づいて愕然として。今でも様々なことを「もう忘れてしまおう」みたいに思うようなこといっぱいあるわけですよ。だから「忘れるっていうことは、悲しいこと」、ここらへんもものすごい、ものすごい僕には響くんです。

 それぞれの人の人生経験とかによって、『星の王子さま』は、どこががーんとくるかは違うかもしれませんね。それこそ、その若かった頃にこんなん読んでもね、別に何とも思いませんでしたよ。「親友のことを忘れるなんて、悲しいことです」、「そうかあ?」って言うぐらい。「別に忘れへんし」みたいな感じやったですけど。実際にその親友のことも忘れてしまってることあるわけですよ。思い出せなかったりするわけ。それとか愛する人のこともすべて思い出せなかったりとか。

 だから認知症にしてもそうですけど、忘れることの悲しみとか、それから忘れられることの悲しみがあります。マリー・ローランサン[*16]でしたっけ、「この世で一番不幸な女は」「忘れられた女です」みたいな詩がありますけど。堀口大學[*17]が訳してました。

 認知症の「忘れる」とはまた違うんかもしれませんが、「忘れるということ」は「忘れた人間の能力の欠如」だけじゃないんですよ。忘れられた者の悲しみもあるんです。「お宅さん誰やった?」みたいなことを言われると、やっぱりもうグサーッて来るわけです。だいたい女性の場合は、亭主から忘れていくんです。男は嫁さんのことは最後まで覚えてるんですよ。子どものことは分かれへんようになるんですけど。これ結構一般的にそうなんです。

G:えー、そうなんですか。

西川:久夫先生[*18]、おっしゃってました。はい。じゃあ次行きましょうか。

長見:いや、俺何もないわ、悪いけど。パス。

[*16] マリー・ローランサン:Marie Laurencin 1883-1956、フランス・パリ生まれ、画家、彫刻家。件の詩は『鎮静剤』というタイトルで堀口大學が訳したもの。「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」と締められる。
[*17] 堀口大學:ほりぐち だいがく。1892-1981、東京都生まれ、詩人、歌人、翻訳家、フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。
[*18] 久夫先生:中井久夫(なかい ひさお)。1934年奈良県生まれ、精神科医。専門は精神病理学、病跡学。神戸大学名誉教授。2004年より兵庫県こころのケアセンター所長。


直感と後知恵


H:
 昔、特養におってね。夜勤中に、逆流をして、それがその肺に入って窒息して僕の目の前で死んだんですね。で、まあそこは24時間ナースが常駐してる、まあ稀な施設なんですけど。こっちがこう目の前で、その、突然死んだんとちごて、その前段階があって、ちょっとずつこう容態が、おかしいぞおかしいぞって。

 僕もまあそれなりにこう経験してきたから、容態が、なんか伝わってくる感じが、「なんかちょっとおかしいな」って、「変なことにならへんかな」って巡回も増やしたり個人的にしてたん。でそれを、僕のまあ直感とかその感じ方があるんやけど、そのナースに電話で伝えてもね、こう伝わらないというか。うん。

 向こうが知りたいのは「バイタルがいくつや、体温は何度や」とかね、そんなことですよね。そっからでしか判断してくれない。結局、そりゃ僕はそのこと細かく、「電話して、様子見るようにって言われました」っていうことを幸いちゃんと書いてたんですよ。で、それがあと警察来た時にそれが証拠みたいになって、まあ僕は別にそのおとがめも何もなかって。まあむしろ看護師のほうが突っ込まれとったけどね。そういうのとオーバーラップしてこう、思って聞いてました、今日は。はい。

西川:そやね、まあ、うん、そうやなあ、

H:一所懸命こう感情込めて「大変だし一回見に来てください」ってもう言うてんねんけど伝わらへんねんな。「分かりました、もうちょっと様子見てみよか」みたいなことしか返してくれへん。それがその人の怠慢なんか、本当に僕の伝え方が悪くって、でもそういうふうに対応すんのがナース的には正しかったんか、それはよく分からないけど。

西川:ナース的には正しくないでしょうね、そりゃ報告受けてんのやからね、行かなあかんわ普通ね、絶対に。ただバイタル見て「大丈夫」って帰るかもしれんけど。バイタル書いていって「大丈夫。特変なし」って帰るかもしれんけどね。まあそれこそ数字やとか、何となく分かるっていうか、どうしても分かってしまうっていうことあるやんね。

H:いやあな感じがね、なんか伝わってくる。死んでいかはる人ってね、なんか分かるんですよね、介護してて。

西川:
 でも、そりゃね、案外ね、逆行的構成[*19]で、自分のその時のふとしたことが、結局亡くなったから「あの時のあのもやもやっていうのはメッセージやったんや」っていうふうに、後付けで強化されてるときもあります。

 ほんとうに死ぬと思ったら、「そんなもん許されへん!」って行きますよね、絶対に。だから人間ってやっぱりね、自分の都合のいいようにっていうか、自分の過去の経験まで変えてしまうんよ、意味合いをね。

 だからそこまで考えると、なかなかわけが分からないようになってくるんですよ。うん。直感とかっていっても、「いや、でも直感らしきものがあったんや」ってあとから気がつく。

 これはもう一つ僕大事なテーマとしてあります。後知恵[*20]ね。後知恵ってものすごく大事なんですよ。これ何度も読んでやっと分かる後知恵、みたいな。あらかじめ分からないんですこれ。読んで読んで読んで、「ああ、そう言えばそうやったんや」みたいに、後知恵なしには読めない本です、これ。

[*19] 逆行的構成:これから起きることが本来予期できる類のものではないのに、予期あるいは確信しているとしか見えない言動をとったとの供述が現れることがある。それは体験準拠ではなく、結果が分かっている二次情報によって構成された作話である可能性を疑い、これを逆行的構成分析と呼ぶ。
[*20] 後知恵:何か事が起こったあとでその原因に言及することをいう。事前には予想できなかったことが事後には必然的であったかのように判断する心理的バイアス。

 それで、このあとにも後知恵みたいなことがいっぱい出てきます。いっぱい出てきますけど、いわゆる今のこうケア論とかっていうのは後知恵じゃあかんわけですよ。あらかじめ分かってなかったらだめです。ケア「プラン」だから。あらかじめ分かっていないといけない。

 「こうしたらこうなるだろう」とするわけです。「こうしたらどうなるか分からん」っていうことをやったらいけないわけですよ。「こういうふうに関われば、必ずこういうふうに良くなる」って言って、「将来のことを見据えるような知恵がなかったらちゃんとしたケアはできませんよ」って今言われてるんですけど、そういう先知恵っていうか、先読みの知恵がものすごく求められるているんですけど、僕はそんなこと本来無理だと思っています。

 ケアを続けることで何が大切かって、後知恵をつけることです。だから失敗する。人のことなんかうまくケアできるわけがない。でもそのできないことを何度も何度も繰り返していくうちに、「いや、そういえばあの時、あの時あの患者さんが言ったことはこういうことだったのかもしれない」。後知恵ですよ。

 だから「後知恵で悪い」って言ってんじゃないです。そうやって後知恵をたくさんこう積み上げていくことが人間の賢さで、先読みをするような、なんかそういうものが人間の知性やとは僕には思えないんですね。まあそういうことです。

 また後知恵とかいう言葉出てくるときあると思います。そこでまた話したいなあと思いますけど。ケアで大事だとされている先読みというか、「プラン作成能力」とか、そんなのはくそくらえと僕なんかは思っています。


大切なものは表現できるのか


西川:Aさんは?

A:
 そうですね。王子さまのイラストを描いて、「もっと大事なことについても、僕は間違うことでしょう」って言うところに関係すること、関係してるっぽいことかもしれない感じなんですけど。まあ僕も、僕もというかカメラって、ダンスとか、まあ逆にフィクションのワンカットとか撮った時に、僕はよく分からないんですけど人に見せたら、「ああ、写ってるねえ」みたいな言われることがあって。

 それ僕全然よく分からないんですけど、なんか「ああ、ここはなんか良く撮れてるね」みたいな。まあ僕もどこにピントを合わせるとか考えますけど、なんか僕が思ってもないところがすごい、「ああ、写ってるね」って言われたり、僕が「ここはわりとこう画面を意識して撮ったな」とかは別にそんな、人に「まあ、いいんじゃない」みたいな感じでなったりすることが多々あるというか、あって。

 なんだろ、なんか逆に、ほんとに大切なものは写せたりとか描けたりするんかなあっていう疑問というか。うーん。なんかその人を写すとか、あるいはこの瞬間を写すみたいなのって、うーん、描く側とか撮る側はまあできないんじゃないかなあ、みたいな。

 見る側が勝手に反映しちゃうというか、自分の中にあるものをその映像の中に見ちゃうみたいなことはあるかもしれないけど、まあなんか撮る側って、撮る側とか描く側ってその時に「描けたなあ」とか「ほんとに大切なもの撮れたなあ」って思えるもんなのかなあ、っていうふうなことをちょっと思ったりしました。まあそんな感じです。

西川:
 なるほどね。そうだよね、書こうと思った通りに文章だって書けないから。絶対違う方向に流れて行く。それこそ映像やったら、久保田テツさん[*21]に、甲谷さん[*22]の時や、釜ヶ崎のふじやんっていう人と一緒に撮ってもらいましたけど、彼はずっと一緒にいるんです。

 僕のこともずっと撮ってるから、彼が何を見てるか全然分からない。彼はカメラ覗いてるだけだから。でもたぶん同じ場面に一緒にいる。うん。そのカメラ目線には絶対僕はいないはずなのに、「そう、これよ」とか思って見てしまう。自分が見たことない光景なのに。面白いよね。うん。次どうぞ。

[*21] 久保田テツさん:くぼた てつ。京都府生まれ。大阪大学コミュニケーションデザインセンター(CSCD)特任准教授を経て、2018年より大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション准教授。映像作家および音響作家としても活動中。
[*22] 甲谷さん:甲谷匡賛(こうたに まさあき)。1958年岐阜県生まれ、京都市在住。2002年にALSを発症し、市内の町家で24時間ヘルパーに支えられながら一人暮らしをしている。

J:私、ヘルパーをやっていて、ある利用者さんのところに入れてもらってるんですけど、その利用者様は、いつも指示を出すんですよ。「荷物を整理してください」「あのノートはどこにありますか」って。で、それは何回も聞かはるんですよ。で、「あの、どうしてこんなことをするんですか」って聞いても説明をしてくれないし、ただ指示を出すだけなんですけど。で、私はそれに従って、言われた通りに荷物を出したりしまったりするんですよ。今日これを読んで、なんかその利用者さんが星の王子さまに似てるかなあと思えて。これを読み込んで、その利用者様の介護にいい影響を与えられたらなあと思ってます。

西川:はい。なるほど。説明してくれない利用者さんね。そうだよね。星の王子さまやね。「おねがい、ヒツジの絵かいて」「なんでなの?」みたいなね。「どこに連れていくんだよ」、何も答えない、みたいな。

J:でもご本人にとってはすっごく大事なことらしいです。

西川:
 そうですよね。自分に分かるか分からないかっていうことに重きを置くと、話にならない相手になるんですよ。星の王子ってわけの分かんないやつなんですよね。「病院入れたろか」っていう感じの人間になっちゃうんですけど。

 自分に分かるとか分からないとかっていうところよりももっと大事なものがあるかもしれない。自分に分かるっていうのは、「彼の生まれ故郷はどこなん? どこの星なん?」って、「B612か、ああそうか。そうかそうか、B612か」みたいな。「何歳? ああそうかそうか、8歳か」「なんで星に? ああそうか、ヒツジを連れて帰るのか。そうかそうか」みたいなね。こっちが分かればいいのかっていうと結構そうじゃないよね。本当はこちらの分かること以外にあるかもしれない。

 「夕べはよく眠れましたか?」とかね、「具合どうですか?」とかって朝看護師さんが病室を回ったりするんですけど、「夕べよく眠れました?」って「はい」、「あ、そうですか、良かったですね」って去っていく。でも、「眠れたか眠れなかったか」じゃないことが言いたいかもしれませんよね。

 でも、もうちゃんとコミュニケーション取れたと思ってナースは帰っちゃうわけです。こっちが聞いたことに対して答えてくれたらオッケーと思っちゃう。ところがそういうふうなQ&Aでのコミュニケーションっていうのは、質問した側が主導権を取っているわけですよ。で、勝手に去っちゃうんです、もう分かったら。「分かった」と思って。

 だからそういう意味ではね、説明をしない、答えてくれない人は謎でしょ? その謎に惹かれるかどうかなんですよ。中の仕組みが分からんかったらやってられへんっていうのは、相手をこうなんかからくり人形のように思ってるわけですよ。「あ、こういうからくりで動いてんのね」って感じで。

 でも人っていうのは本来謎なんです。人っていうのは、他人っていうのは。その謎にどういう気持ちで自分が向き合えるのか。。あきれはててしまうんじゃなくて、その謎にどうつきあえるのか。みたいなところがこれから出てくるかもしれません。だからいいと思いますね。「星の王子さま」と実際におつきあいしてる感じですね。


ことばにできないことと大人であること


C:
 説明をしないっていうことですけど、説明…、恐らくヒントみたいなのは言えても、それをずばりなんかこう活字にして言える、説明できるようなものであったら逆にちょっと、うさん臭いなと思いますね。

 私だいたいお正月、朝から仕事の年が多いんですけど、だいたい元旦だと、神社このへんにいくつかあるんで、初詣に行ってから仕事に行くように何となくなってるんですけど。まあなんで初詣に行くのかっていうのはちょっとよく自分でも分かんないんですけど、あとから「ああ行って良かったな」っていうふうに思います。

 っていうのは神社のその初詣の、そのパンパンっていうお参りがあんまり心に残るわけではないんですけど、その神社でしてる焚き火がすごく好きで、そのパチパチっていう音とかも。木を持ってきてパーンてした時に、火の粉が風で飛び散って空に舞ってく感じとか、真っ暗なのですごくきれいなんですね。そういう匂いとか音とか、そこにいてこう手をこすり合わせてる人たちとか、なんかそういう。

 今年は下鴨神社に行きましたけど、カラスがちょっとカアカア鳴きだす感じとか、そういうのがいいなと思って。いうのはあとからちょっとこう思ったりして。で帰り道で、だんだんちょっと夜が明るくなってきて、だいたい鴨川のところの橋あたりでこう見ると、白々と少し夜が明けてきて、それが川面に映ったのを見た時とか、ああ、やっぱりこう、それこそとっても素敵だなっていうふうに思ったりして。それってこう何かこう、それこそうまく説明できないんですけど、そういうことがすごくいいなと思って、自分の中でしかちょっと感じれないですけど、そういうのが面白いなと思う初詣かな、とか思います。

西川:はい。

B:さっき存在みたいな話をされてたじゃないですか。今まさになんか、まあ私がいてるところはそういうところの、やっぱり大事なことに気づくし、それが大事なことなんかよく分からないですけど、やっぱりこう「私は何でここにいてるの?」って言う人もやっぱりいるんですね。「私は今何のためにここにいるの?」っていう問いを、まあ私ぐらいの歳の人に言いやすいんか、よく言われることがあって。そこにちょっと巻き込まれるのが魅力なんやなあって最近感じてて。

西川:なんや普通はそんなこと聞かれへんからねえ。

B:うん、だからその場で、なぜそこにいるのか?って、それはもちろん簡単に言わないですけど、うーん、それを考えるのが、私も大事なことに気づかされる何かのヒントもらってんねんなと思いながら、そういうことが魅力なんやなと思いながら、働いてて。で、大事なことに最後、人間最後のほうで気がつく人もいるし、気がつかん人もまあいるんかなあみたいに思いながら。そんな毎日です。

西川:はい。どうぞどうぞ。もう食べながらやりましょう。

E:私とかすっごいこれ読んで、全然初めて読むし、何の予習もしてこなくって行き当たりばったりな感じ。私はすごい、なんか面白いなと思うところがすごいいっぱいあって、たぶんみなさんは大人やから、分かろう分かろうと思うとたぶんちんぷんかんぷんやと、じゃないかなと思ってて。でもなんかこの噛み合ってない感じが私は好きで。だからなんか、さっきJさんが言わはった利用者さんに私も入っていて、なんか分かろう分かろうとすると、たぶんあまり分からないです。でもなんか話が噛み合なくても、「ま、いっかあ」って流してたら私は面白いんですけど、そんな苦にはなってない。なんかそういうことを思いました。

西川:はい。まあ分からないことを楽しめる人とね、そうじゃない人がいてるからね。

E:はい。そこらへんがちょっと、個人的な感覚かなあと思います。

西川:ね。はい、ありがとうございます。どうですか。なんか、感想とか。

K:大人はこうだ、大人はこうだって、大人を攻撃してはるじゃないですか。でも大人も読むために書いてくれてはって、大人の中の子どもっていうか、そこに向けて書いてあって。私たちが「大人」って言ってるものって何なのだろうと思いました。

西川:
「あなたは大人ですか」って言われたときに、これどうしたらいいでしょうか。「年寄りです」とかって答えたらいいのかな。ここで子どもとか大人っていうのをね、こう対比して書かれてるっていうのは、あちこちの解説書にも書いてあるし、まあ一読したら分かるんですけど。

 おいおい言おうと思ってましたけど、最初から王子は決して子どもじゃないんですよ。決して子どもじゃないっていうことは、だんだん分かってくると思いますけど。こんなね、一所懸命毎日日課のように仕事をやる子どもっていません。

 だからある意味では王子はものすごい大人なんですよ。王子がこういろんな惑星に行って、何の権力も持ってないのに偉そうぶる王様やとかに会って、「おとなたちって本当に変だなあ」とかって馬鹿にしたようになってるんですけど。

 これ、だいたい普通は大人に対する批判として読まれるんですけど、僕はちょっと違ってて。これ、王子馬鹿やと思ってるんですよ。全然分かってない。大事なことが分かってない。分かってないから、「おとなたちって変だなあ」って帰ってしまう。

 でもだんだん分かるようになってくるんですよ、王子も。だからここに出てくる大人たちはみんな、王子に比べて馬鹿のように書かれてるように見えるけれど、実はそうじゃないっていうのが僕の読みなんです。これからおいおい話していこうと思いますけど。

 結構ね、これ複雑なんですよ。話の冒頭は、もう全部終わってこれから王子が帰ろうとする一週間前のところから始まってるんです。それでぐっとこう時間が逆行して、星にたった一人で住んでた時、それからバラがやってきた時、それからこのバラとけんかして出ていった時っていうふうに時間の流れがね、過去から現在、未来っていう、順番には流れてないません。

 いきなりこう、ものすごい最近からぼーんと昔に戻って話始まったりとか、ほいでまた今に戻ったりとかっていうふうに、物語自体がかなり複雑な構成になってるんですね。だから、もう王子は本当に理想的な子ども、そして周りの大人たちは馬鹿な大人っていうふうに読むと、この本全然面白くない。それでもおもろいけどね。

 それでも面白いけど、それ非常に浅ーい読み方だなと思います。「だから子どもの心なくしちゃいけないんだ」とかって馬鹿なこと言ってもしゃあないわけですよ。「十万フランの家!?」とかって思ってしまう自分がいるんやからね。

 ともかく、王子がほんま純真な子どものように見えますけど、違うんです。違うんだっていうことを一応予告しておいて、これから星巡りのところとかね、だいぶん普通の、普通のっていうかよくある解釈とは僕はだいぶ違う読み方をしてます。そのさわりのとこだけちょっとあらかじめ言っとこうかなと思います。


どの視点から描かれた絵か


F:えっと、今日の話はちょっと聞けてなかったんですけど、最近『星の王子さま』をまた読み返したりして思ったことがあります。絵のことなんですけどね。

西川:そうだ。Fくんがきたら絵について聞こうって思ってたんでした。

F:
 分かんないですけど、絵のことをよく見たりとかして考えてたことなんですけど、この絵がそれぞれどういう立場で描いてるかというか、どういう視点を設定して描いてるかっていうことも、いろいろと考えられるなあと思いまして。もしかしたら一個一個の絵によって、視点が違うかも。

 というのは、前の話でも「ヒツジの絵」って言ってるところがだんだん「ヒツジ」になっていくみたいな話がありましたけど。話の中でも結構この絵について言及してるところがあって。だから考えてみれば、この絵って「ヒツジ」じゃなくって「ヒツジの絵」なんですよね。さらにこれがこの本の挿絵だっていう視点から見れば、「ヒツジの絵の絵」です。

西川:ヒツジの絵の絵。

F:
 だって、これは「ヒツジの絵をかいて」って言われて、ヒツジがこういう絵でしたって描いてるわけだから、この本を見てる読者の視点から見れば、これはその絵を表してるんだと思えばまあ、絵の絵っていう。

 だから、王子さまの絵とかもだから結構文章がね、添えてあるんですよね。「なんとかぼくがかいた、こういう絵を見てください」みたいに書いてあったら、それも考えずに言われたから、これも王子さまを表してるというよりは、王子さまの絵を表してる絵みたいな、そういう二重構造がね、なんかある。

 最後のほうもだから「いちばん悲しい光景をよく見てもらおうと思って、もう一度かきました」とか、わりとこう「ぼくがかいた絵です」みたいなことが指定してあることが多くて。

 ということはだから純粋な挿絵じゃなくて、このね、なんかフィクションの中にある絵をさらに明かしてるみたいな構造があるなあと思ってるんです。言葉だったら、時間制とかによって話者っていうのがどの視点にいるかって勝手に決まってしまうんですね。写真もその写真が、見ればどういう角度からカメラがあったかとかってのは分かりますけど、絵は必ずしもそうではないので。

 これ一つ一つどんな立場で描いてるのかと思うとなんかこの星巡りの絵とか、王子さまが星片づけてる絵とかはそういうことが描いてないというか、そういうまあ特に言及がないですよね、「こういう絵をかきました」みたいな。だったらここはもしかしたらもう普通に挿絵としてサン=テグジュペリが描いてるってことなのかもしれないし、とか。

 なんか一つ一つの絵を描くときの構造というのかな、視点みたいなものも読み取ると面白いのかなあとか思ったりだとかね。一番最初もこれ、絵から始まりますよね、「すばらしい絵が目につきました」ってとこから始まってる。

西川:
 まあそれ確かにそうですね。でも、これは読者を巻き込む手法だと思います。今日の話の中で何度も言いましたけど、「みなさんもお分かりでしょう」とかっていうような呼びかけとか、「ぼくがどんなに心を奪われたか、お分かりでしょう」っていうのね。これフランス語やったらvous(ヴ)っていうのが入ってて、「あなたたちには」っていうふうにちゃんと書いてあるんですけど。

 必ず読者に問いかけて、「どうだい、答えろ」みたいな仕掛けがいっぱいある。この絵についてもそうなんですよ。「これはぼくがかいた絵です」って言うと、「ああそうですか、あなたが描いた絵ですか」って言わなきゃしかたがない。そんな説明が何もなかったら、もう普通に「誰が描いた絵でもないわ」みたいな感じで読むんやけれど、これは話者っていうかこの物語の作者が、読者を必ずその応答的関係に引っぱりこむときにやってるやり方なんですね。

F:その「ぼく」っていうのがなかなか曲者で、パイロットのことのような気もするけど、そうじゃないような感じもする言葉もあったりとかしてね。

西川:そうそう。

F:最初は絵もね、これ、「本で見て、こういう絵がありました」って言ってるんだから、これは他のものと違って、このボアが野獣を飲み込んでる絵は「ぼく」が描いた絵じゃないのかもしれませんよね。「すばらしい絵を見つけました、こんな絵でした」って書いてるわけだから。

西川:まあ、「その絵をここにかき写しておきます」やから、彼が描いたんやな。

F:まあ描き写してはいるけど、まあ模写ではあるけど。でもこれなんかはっきりこのキャラクターとしてのパイロットが描いたってことが分かる描写があって、そうなると絵もね、だから単なる挿絵じゃないんです。文章がね、結構ね有機的につながってますもんね。

西川:
 サン=テグジュペリは、アメリカで出版された最初の文章と絵の配置については、サン=テグジュペリが全部細かく指示出しています。それが全部踏襲されているかっていうと、どうもそうじゃないみたいなんです。本によって挿絵の場所違うからね。

 研究者やったら原典を見たいと思うんでしょうね。僕はどうでもいいですけど。サン=テグジュペリ自身はものすごく本の装丁っていうか、挿絵と文章の位置関係やとか、「どちら側にこの絵は置いてくれ」とかものすごく細かく指示したみたいです。だから文章と有機的というか、そりゃもう強烈ですよ。文章書いてる人間と、挿絵画家が描いてるのと、二人で合わせてがちゃーんではないわけだから。

F:わりとそういうのが普段見慣れ過ぎてるから、その絵と文章の関係のあり方とかって読み取るのって新鮮ですね。あんまり他でやってなくて面白いなあって思います。

西川:
 ぜひ読み取ってください。たとえばですけど、24、25ページの天文学者が学会で「小惑星B612」について発表した絵ね。24ページの絵はトルコの衣装来て1909年に発表したとき。25ページの絵は燕尾服着て11年後の1920年に同じ発表をしたときですね。

 これもちょっとじっくり見てください。じっくり見ると面白いですよ。11年経つともう髪の毛は真っ白になってるし。同じ発表したって言うけど、黒板に書いてあるのは同じじゃないし。さらにいえば、サン=テグジュペリは高等数学を解くのが趣味やったらしいから、これもでたらめに書いてあるのかどうかは、僕は数学の素養がないんで分かりませんけれども。

F:なんか、積分の式みたいに見えますかね。

西川:
こういろいろ見れば見るほど面白い。何回も何回も描き直して描き直して、最終決定した絵ばかりだから。物語が先にできて、そのあとに説明的に絵を描いてるんじゃないんですよ。ほとんど同時にやってるんです。
 

おわりに


西川:
 サン=テグジュペリは、本文も何度も何度も書き直してるんですけど、絵ももう山ほどデッサンを描いてるんですよね。そのあたり研究者が一生懸命調べたりしてます。それで草稿のやつ、手書きのやつはフランスの出版社から出てます。写真版で。こんな分厚いの。自分が買ってたのに忘れてました。部屋片づけたらあって、「何これ? 読まれへんのにようこんなん買うたな」みたいな感じでしたけど。

長見:ほんと。ちゃんとこう、

西川:手書きのやつもあるんですよ。

長見:筆記体がある、

西川:下手くそで読めませんけど。でももともとはタイプ原稿だから。タイプに手書きやったりとかね。でもね手書きのやつもいっぱい残ってるんです。だからマニュスクリプトって草稿のやつがいくつもあります。それについていろいろ考えていくといくとサン=テグジュペリ研究者の世界になりますね。そういうこと一生懸命やるのはね。たまには覗いてみるのも面白いかなと。

長見:ぜひ覗かしてくれよ。今度持ってきてよ。

西川:重たいねん。まあまたいつか。はい、今日はありがとうございました。

(第5回終了)


注 釈


[*1]『「一人」のうらに』:『「一人」のうらに: 尾崎放哉の島へ』西川勝著、2013年出版、サウダージブック。
[*2] 『悪魔の詩』:“The Satanic Verses” サルマン・ラシュディ著、1988年出版。日本語訳は五十嵐 一(いがらし ひとし、筑波大学助教授)、新泉社、1990年出版。
[*3] 『ためらいの看護』:西川勝著、岩波書店、2007年出版。
[*4] バシドゥーズ:B612(466410 Bésixdouze)。BésixdouzeはB612のフランス語での読み下し“bé six douze”から来ていて、発音は「ベ・シス・ドゥーズ」に近い。
[*5] 堀江さん:堀江剛(ほりえ つよし)。1961年生まれ、哲学者。大阪大学大学院文学研究科教授。
[*6] 池川清子:いけがわ きよこ。1938年高知県生まれ、神戸市看護大学名誉教授。
[*7] デカルト:René Descartes 1596-1650、フランス生まれ、哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
[*8] 方法的懐疑:デカルトによって提唱された哲学用語。これはデカルトによる哲学の革新の出発点であり、確実なものに到達するまでの手段として行われる懐疑。この世に存在する偏見や謬見、あるいは真実らしくみえているものの不確実であるなど疑う余地が少しでもあるならば、疑う余地として否定していくということである。
[*9] 川本隆史:かわもと たかし。1951年広島県生まれ、倫理学者。東京大学名誉教授、国際基督教大学教授。専門は倫理学、社会哲学。
[*10] 西村ユミ:にしむら ゆみ。首都大学東京大学院人間健康科学研究科教授。専門は成人看護学。
[*11] 現象学:哲学的学問およびそれに付随する方法論を意味する。
[*12] 『モンパルナスの灯』:“Les amants de Montparnasse” フランス映画、1958年。監督はジャック・ベッケル、主演はジェラール・フィリップ。画家アメデオ・モディリアーニの伝記映画。
[*13] 『バーフライ』:“Barfly” アメリカ映画、1987年。監督はバーベット・シュローダー、主演はミッキー・ローク。脚本を作家・詩人のチャールズ・ブコウスキーが手掛けた。
[*14] モディリアーニ:Amedeo Clemente Modigliani 1884-1920、イタリア生まれ、画家、彫刻家。主にパリで制作活動を行い、芸術家の集うモンパルナスで活躍した。
[*15] 青い瞳の女:アメデオ・モディリアーニの作品。青い目と赤褐色の髪から、モデルはジャンヌ・エビュテルヌだと、多くの人が信じている。
[*16] マリー・ローランサン:Marie Laurencin 1883-1956、フランス・パリ生まれ、画家、彫刻家。「この世で一番不幸な女は~」は『鎮静剤』という詩で堀口大學が訳した。
[*17] 堀口大學:ほりぐち だいがく。1892-1981、東京都生まれ、詩人、歌人、翻訳家、フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。
[*18] 久夫先生:中井久夫(なかい ひさお)。1934年奈良県生まれ、精神科医。専門は精神病理学、病跡学。神戸大学名誉教授。2004年より兵庫県こころのケアセンター所長。
[*19] 逆行的構成:これから起きることが本来予期できる類のものではないのに、予期あるいは確信しているとしか見えない言動をとったとの供述が現れることがある。それは体験準拠ではなく、結果が分かっている二次情報によって構成された作話である可能性を疑い、これを逆行的構成分析と呼ぶ。
[*20] 後知恵:何か事が起こったあとでその原因に言及することをいう。事前には予想できなかったことが事後には必然的であったかのように判断する心理的バイアス。
[*21] 久保田テツさん:くぼた てつ。京都府生まれ。大阪大学コミュニケーションデザインセンター(CSCD)特任准教授を経て、2018年より大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション准教授。映像作家および音響作家としても活動中。
[*22] 甲谷さん:甲谷匡賛(こうたに まさあき)。1958年岐阜県生まれ、京都市在住。2002年にALSを発症し、市内の町家で24時間ヘルパーに支えられながら一人暮らしをしている。


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