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第1回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2017年9月13日)



はじめに

長見:一応ココペリの代表をやっています、長見といいます。今回、案内役と問い合わせ役で、非常に失礼なお答えをしてしまった電話がいくつかありましてね。「来なくていい」とかね、「もう申し込みはいらないって書いてあるでしょう!」という受け答えが何回かあったんで。その、お顔が分からないので、その方に先にお詫びしておきます。こんな人間ですから、あまり礼儀とかなっていないので、すいません。そんなことはいいんですが、今日から光栄なるわが友、わが兄貴(笑)、西川勝さんに連続で、これからケア塾茶山っていうかたちで勉強会をやっていただくと。当面は毎月第2水曜日に7時からで、『星の王子さま』[*1]を1年ぐらいかけてじっくり読んでいきましょう、となっております。ということで、あとはよろしくお願いします。

 [*1] 『星の王子さま』:“Le Petit Prince”、サン=テグジュペリ著、1943年出版。作者自身による絵が使われている。初版以来200以上の国と地域の言葉に翻訳され、日本語訳も多数出版されている。

西川:はい。それではよろしくお願いします、西川です。今ね、1年ぐらいという話がありましたけど、ひと月に1回開催すると1年で12回です。これまで大阪の「ケア塾たまてばこ」[*2]では、13回かけて勉強会をやっています。それから舞鶴の「グレイスヴィルまいづる」という特別養護老人ホームでは、8回していますね。大谷大学でも『星の王子さま』を2年間にわたって読みましたけど、両年度とも15回の講義。ですから、12回というと別に短くもないし長くもないという感じです。

 [*2] ケア塾たまてばこ:大阪市阿倍野区の「ケアプランセンターたまてばこ」が行っている、ケアに関するセミナーや学習会。

 僕自身の構えとしてはですね、かなり突っ込んで、ねちっこく、できるだけじっくりと——まあ大学なんかですと、単位制度に縛られた学生が来ますし、難しいのですけど——読みたいと思ってます。今大阪でやっている「ケア塾たまてばこ」では、鷲田清一先生[*3]という僕の師匠の本『「聴く」ことの力』[*4]をもう延々と、何回やっているのかも分からないようなペースで読んでいます。

 [*3] 鷲田先生:鷲田清一(わしだ きよかず)、1949年京都府生まれ、哲学者。大阪大学名誉教授、せんだいメディアテーク館長。関西大学文学部教授、大阪大学総長、京都市立芸術大学理事長・学長などを歴任した。専攻は臨床哲学・倫理学。現象学・身体論を専門としており、ファッションを研究している。
 [*4] 『「聴く」ことの力』:鷲田清一著、阪急コミュニケーションズ、1999年出版。

 『星の王子さま』は、朗読しても2時間ぐらいで読み終えてしまう分量なんです。でも、今まで勉強会をやってきて、十分に時間をかけて読んだという気持ちになったことがないんですよね。いつも時間が足らない、急ぎすぎたと思っているので、ここではわがままを言って、じっくりと読ませて貰おうかなと。聞く人にとっては迷惑かもしれませんけど(笑)。まあ、ココペリ121も「スピード」や「効率性」ではなくて、違うありかたを目指しているNPOだと思いますし、「ケア」を考えるときに、すぐに分かること、すぐにできるようになることを目指すと、ろくなことがないんです。ほんとうに大切なことが分かるには、やっぱり時間がかかる。時間をかけるだけでもだめですが、まあそういうものとしてお互いがこの場で出会って、いろんな言葉を交わして、それぞれに変わっていく、そういう経験の場になればいいなと思っています。特にそういうことを期待して、ここで勉強会をさせてもらうよう、長見さんにお願いしました。ということなので、これから何回開催するかは分かりません。
 『星の王子さま』をこれから順を追って読んでいきますが、その時々によって僕の話はどんどん脱線するんですね、今までの経験から言うと。普通、勉強会と銘打って参加費も取れば、資料を用意するのが当たり前なんですけど、資料を用意すると、みなさんの顔を見る前に説明するために時間を使ってしまう。僕はやっぱりそういうのがどうしても嫌で。ここで初めてみなさんと会って——「ああ高校生もいてるんだ」みたいなね(笑)——いろんなことを思いながら、この場で自分が感じたことを核に置いて話をしていきたいと思っていますので、資料は特段作りません。
 ただ僕が一方的に話すというよりは、できるだけみんなで話し合うことができればいいかなあと思っています。『星の王子さま』の勉強会を何回もやっていますから、たしかにいろんな解説書も読んでいますし、家には関連する本が——読んでいない本もいっぱいありますけどね——100冊近くあるわけです。そこら辺の図書館よりはちゃんとした品揃えがあると思いますが、あちこちで読んだことを、ここでしゃべられても迷惑な話でね。本に書いてあるんですから。そういう知識の伝達ではなしに、やっぱりこの場でものを考えたいと思ってます。
 ただ、ある程度の情報については「この本に書いてありますから」と言われたって、読むのが大変じゃないですか。そういう意味で、僕がいろいろな本を読んで気になったところは紹介しながら、そんな感じでぼちぼちとやっていきたいなと思います。質問されても何でも知っているというわけではありません。だからみなさんも、もしこの『星の王子さま』の勉強会から、サン=テグジュペリには『星の王子さま』以外の著作もありますから——僕も全部読んでいるわけではありませんけれども——気になったことがあれば調べて議論の中で話してもらったら、ここでみんなが出会って初めてできる話も生まれてくるかなと思うので、よろしくお願いします。

『星の王子さま』とサン=テグジュペリについて

 この勉強会では、平凡社ライブラリーの稲垣直樹[*5]さんの翻訳による『星の王子さま』を使います、と案内しました。今、岩波書店の本を持ってはった人がいますよね、内藤濯(ないとうあろう)[*6]さんという人の翻訳で、ご存知かもしれませんが『星の王子さま』の原題はフランス語で“Le Petit Prince”、英訳では“The Little Prince”といいます。だから「星の」なんて言葉は全然入っていないのですが、これを「星の王子さま」と訳したのが内藤さんです。1954年やったかな、日本では最初に岩波少年文庫として出版されて、その時には小型の本で、挿絵も白黒であまり派手さはなく、それほど売れなかったそうです。現在のA5判の判型になって、挿絵もカラーになり、それで日本でもいきなりどんどん売れ出した、みたいなことが言われてます。

 [*5] 稲垣直樹:いながき なおき、1951年愛知県生まれ、フランス文学者、京都大学名誉教授。ユゴー、サン=テグジュペリが専門。
 [*6] 内藤濯:ないとう あろう、1883〜1977、熊本県生まれ、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。サン=テグジュペリの“Le Petit Prince”を初めて『星の王子さま』と訳したことで知られる。

 瑣末な歴史的エピソードにも思えますが、『星の王子さま』という本にとってこの挿絵、サン=テグジュペリの描いたデッサンの持つ意味はものすごく大きい。だからここからしっかりと読みたいと思います。フランス語はフランス語ができる人が読めます。日本語は日本語ができる人が読める、まあどちらも程度問題ですが。でも挿絵について読んで語るというのは、今まであまりされたことがない試みだと思います。サン=テグジュペリ自身がものすごく力を入れて描いているんですね。出版社とのやり取りの中でも、「この挿絵はここにやってくれ」とか、色見本のこととか、そういうことにものすごくうるさかったらしいです。
 『星の王子さま』の本文は、フランスならば中学生と小学生の高学年ぐらいなら読める簡単なものらしいのですが、サン=テグジュペリ自身は何度も何度も推敲を重ねています。彼自身が書いた手紙の中に、締め切りに追われて編集者に文句を言っている箇所があります。「時間がね、大切だって言うけど、いや、本っていうのは書く人がその中に宿らないと意味がないんだ」とか、「何月何日に締め切りだからって言われたって、そんなものがたくさん、600万部売れたって仕方がない」とか、「100部売れたらいいんだ」みたいな。日本では岩波書店版だけで600万部発行しているそうですから、世界的にはものすごく売れている本なのですけど、でも「そんなん売れたって仕方がない」というようなことを彼は書いています。
 「もし自分の文章がその相手に届いたとしたら、それは私が30回も書き直した1枚なのだ」ということも書いています。それから「またどこかで私からの引用を読む場合、それはいつでも常に変わることなく私が125回は書き直した文章なのだ」と。本人の弁ですが、「125回書き直した」ってすごいですよね。『星の王子さま』が執筆された経過について、サン=テグジュペリの知り合いがいろんな文章に残していて、彼は「ディクタホン[*7]」という、今でいうICレコーダーみたいな録音する機械を使っていました。昔のレコードってこう回る円盤じゃなく……。レコードそのものを知らない? でも分かるでしょ? あの円盤が筒状になっていて音を刻んでいたんです。

 [*7] ディクタホン:主に1920年代から1930年代にかけて、口述筆記の目的で使用された、会話の録音と再生ができる機械のこと。蝋管録音機とも言う。送話口に向かって発声すると、空気の振動によって蝋管に溝が刻まれ、音が記録される仕組みになっている。再生の際には、再生用の針が溝をなぞる際の振動が増幅され、スピーカーから音声が流れる。

 それからサン=テグジュペリはポケットに紙切れをいっぱい入れていて、しょっちゅう思いついた文章をばーっと書いて、デッサンなんかもちょろちょろちょろちょろ描いている。とにかく落ち着きのない男なんです。誰かとレストランに行って食事をしている時でも、しゃべりながら紙ナプキンに絵を描いたりというようなことをする人やったそうなのね。それで飛行機に乗っている時も、操縦席の中で書いたりしていました。それで【こう丸めたやつ】で操縦席がいっぱいになってしまった、みたいな。常に書くこと、読むこと、描くことをやり続けていた人なんです。
 サン=テグジュペリ[*8]はものすごい字がへたくそで、メモ書きは彼にしか読めない。それをばーっと取り出して、『星の王子さま』の文章を考えながら録音する。だいたい夜中にやって、朝方になると秘書がやってきてそれをタイピングしてくれるわけです。それで秘書が帰った後に、また彼がタイプ原稿を読んで、訂正して。さらに読み直して、ちょっとアイデアが思い浮かんだら原稿を入れ替えたりして、またディクタホンの録音を秘書が聞いてタイプして、というようなことを何回も何回も繰り返したんですね。だからそういう意味では語り口調に近い文章なので、フランス語では声に出して読みやすい文章になってるそうです。

 [*8] サン=テグジュペリ:Antoine Marie Jean-Baptiste Roger de Saint-Exupéry、1900〜1944、フランス、リヨン生まれ。作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州―南米間の飛行航路開拓などにも携わった。1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、自分のパイロットとしての体験に基づいた作品を発表した。第二次世界大戦中の1944年、地中海を偵察飛行中に消息を絶った。

翻訳について

 内藤濯さんが『星の王子さま』の「訳者あとがき」で書いているのですが、内藤さんはタイトルを原題からちょっと離れたかたちにして日本に広げた人で、これがすごい影響を持つことになりました。日本ではしばらく翻訳独占権をもつ岩波書店からしか本を出すことができなかったのですが、2005年に権利が切れると「新訳ラッシュ」が起こって、翻訳の良し悪しを考えた時に、一番最初に槍玉に上げられるのが長年王座を保ってきた内藤濯訳、それに対してものすごい批判が出ました。
 僕もそうですが、2005年ですからもう50年近くは内藤訳でしか『星の王子さま』と触れ合う機会がなかったわけで、ものすごく影響を受けていると思います。内藤さんはいわゆるカチッとした翻訳ではなくて、日本語として声に出して美しい文章にすることを心がけたと言っています。「演劇にしたい」というような気持ちも持っていたみたいです。
 稲垣直樹さんも「訳者あとがき」で、やはり翻訳調ではなしに日本語として自然な流れのある文章として読めるようにすることを心がけたと書いています。京都大学の先生で、この人独自の翻訳の仕方もいっぱいあります。著書に『「星の王子さま」物語』[*9]という新書があって、その中で普通は「飼いならす」と訳されている単語を「なじみになる」と訳してるのはなぜなのか、という理由を3ページぐらい延々と書いています。まあそれを読むだけでもすごい人やなと思います。文法上のことなど、訳者としてどんなところに気を使ったかということを書いています。最近になって『翻訳技法実践論』[*10]という分厚い本も出されて、その後ろのほうで「『星の王子さま』を私はなぜこんなふうに訳したのか」ということを延々と論じています。そういう意味では翻訳者としての役割をものすごく自覚している人だと言えます。僕はフランス語を読めませんので、訳者の稲垣さんが自分の翻訳についてきちんと、弁明というか根拠を示すことをやっている人なので、信頼に足るかなと思って平凡社ライブラリー版を選んでます。

 [*9] 『「星の王子さま」物語』:稲垣直樹著、平凡新書、2011年出版。
 [*10] 『翻訳技法実践論:「星の王子さま」をどう訳したか』、稲垣直樹著、平凡社、2016年出版。

 僕はもともと哲学科で鷲田先生という人から教えを受けたりしたのですが、本当に語学ができない男で、だめなんですよ。でもね、先生は許してくれないの(笑)。原書講読の講義で、半年前からね、「ヘーゲルの『法の哲学』[*11]の、ここのページのこの1行の翻訳を西川に当てるから」と言われているのに「できません」とは言えないでしょ。『ターヘル・アナトミア』[*12]じゃないけど「1行ぐらいやったら、何も知らんでも、必死になってやればなんとかできるやろ」みたいな感じで。でもだめなんです。「翻訳は誤解だ」と言われるぐらいに、やはり違う言語を辞書の意義に則して移し替えるだけでは、伝わらない。言語というのは文化とか歴史だとか、様々なものを後ろにいっぱい引きずってるわけです。だから鷲田先生は語源についてよく論じたりしますけど、単純に日本語にぽんぽんぽんぽんと、"apple"を「りんご」と訳せばよいということではなくて、たとえば西洋なら西洋でりんごという果物が持っている意味がいろいろあるんですよね。日本でりんごが持つ意味と違うわけです。

 [*11] ヘーゲル、『法の哲学』:ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilheim Friedrich Hegel、1770〜1830)、ドイツの哲学者、ドイツ観念論を代表する思想家。1821年、生前刊行の四作の最期の著作として『法の哲学(“Grundinien der Philosophie des Rechts”)』を出版した。
 [*12] 『ターヘル・アナトミア』:ドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus、1689〜1745)による解剖学書“Anatomische Tabellen”のことで、1722年にダンツィヒで初版、1732年に再版、その後ラテン語、フランス語、オランダ語に訳された。『解体新書』の最も重要な底本である。『ターヘル・アナトミア』という書名は、杉田玄白の『蘭学事始』で使われている表記である。

 変な話ね、"lip"って唇でしょ? "upper lip"というと上唇じゃない? でも「上唇に髭を生やした」という英語の表現があるらしいです。唇の上に髭は生えません。でも、lipという英語だと、ここ(口のまわり)まで表すんですよね。それから"water"というと「水」と訳してしまうけど、"hot water"を「熱い水」とするのはありえない。日本語では、水は必ず冷たいものなんです。「熱い水」という言い方はなくて「お湯」になりますから、water=水じゃないんですよね。
 言葉というものは簡単に違う文化の言語に移し替えることができない。だから原語を読むことは非常に大切なのでしょうが、でもね、たとえばフランス語の知識があっても、僕はフランスで暮らさないで、辞書で覚えた字義とか文法事項でフランス語から日本語に替えて、日本語でものを考えているんだったら、フランス語を読んだことにならないと思うんですよね。やっぱり言葉は暮らしの中で、それからその人の人生の中で、それから一緒に暮らしているその言葉のコミュニティの中でしか身につけられないものです。だから頭の中で理解して翻案するようなものではないと僕は思うのですが、でもそんなふうにしてフランス語を理解しようと思ったら、僕はもう永遠にたどり着けないわけで。ここではそういうことではなくて、『星の王子さま』を稲垣さんの日本語訳を頼りにしながら考えていきたいなと。翻訳を読むということには「うさん臭さ」があって、だからと言ってちょっとフランス語の単語や文法を勉強して読めばいいというものでもないと思います。
 『星の王子さま』は、恐らく20種類近くの日本語訳があります。それで、元東京大学の先生がですね、『憂い顔の「星の王子さま」』[*13]という分厚い本を出版していて、内藤濯さんも含めて十何種類かの翻訳の「ここが間違ってる」ということを延々と書いている。読んだらすごいですけど、結局、何が言いたいのかといったら「自分で訳すしかない」と(笑)。それで『自分で訳す星の王子さま』[*14]という本も出していて、ご自身は翻訳しないで注釈だけを入れている。まあそう言われればそうなのかな、みんなそれぞれの読み方がありますからね。

 [*13] 『憂い顔の「星の王子さま」』:加藤晴久著、書肆心水、2007年出版。
 [*14] 『自分で訳す星の王子さま』:サン=テグジュペリ著/加藤晴久注釈、三修社、2006年出版。

分からないことが理解の襞を深めてくれる

 僕が『星の王子さま』を日本語の翻訳で読んでもいいと思っているのは、たとえば聖書を古代ヘブライ語の原典で読まないと読んだことにならないのかと。聖書研究者ならそうかもしれませんが、違うのではないかと考えているからです。さきほども言いましたけど、異なる文化の言葉どうしは一対一でカチッと合うようなものではない。でも言葉というのはものすごく弾力性を持つというか、生き物みたいに動きます。そういう意味で、言葉どうしがカチッと合わなくても、人は言葉を通じて異なる文化に生きる人と理解し合える可能性がある。完全に合致した理解は不可能だとしても、言葉のその柔らかさがお互いの理解をどこかで救う。それは言葉を一生懸命勉強したから分かるのではなくて、言葉の勉強よりももうちょっと深いところでの人間相互の理解のあり方というのが、たぶんあるのではないかと思います。まあここらへんの問いはあまり突っ込んで議論すると、どんどんどんどん難しくなります。
 理解には必ず「ディスコミュニケーション」があり、フランス語と日本語では「ズレ」ができるんですけど、ズレができたから無意味なのかと言うとそうではありません。そんなことを言うと、人間どうしのコミュニケーションが不可能になるわけです。日本語でしゃべっている日本語話者どうしの会話でも、ちゃんとお互いの話を理解しているか、発話者が意図したことを聞いた人がそのまま理解しているか、というと決してそんなことはないですよね。時には誤解も生まれます。でもその誤解も含めた上で、人間はコミュニケーションをとる。そういう意味で、原書ではなくても信頼するに足ると思われる——そうではないところもあるかもしれませんが——この稲垣さんの翻訳を頼りにして、またフランス語ができる人から少しずつ教えてもらったりしていけばいいかなと思います。
 「翻訳は誤解だ」という翻訳者の中で言われている格言があります。美しい翻訳というのは忠実な翻訳でもあって、でも「忠実に」というのがほとんど不可能なんですよね。繰り返しになりますが、言葉というものの弾力性というか、そういう柔らかみが人と人とのあいだで、画一的な一致でなくても、ズレを含みながらでも理解を生む。そしてズレがあるからこそ両者の関係はどんどん変わっていきます。「分からない」と言うから、コミュニケーションが続くわけです。「分かった」と言えば、そこでコミュニケーションは終わってしまう。何かを話していて「はい、分かりました」と言われても、そこから二の句を継げないですよね。でも「ここが分からないな」とか「これってこういうことですか?」とか「いやそれは違うんだ」と、分からないことがコミュニケーションをどんどんどんどん進展させていって、言葉の襞というか理解の襞を深めていくことがあります。そういう意味では、言葉というのは、半ば分かり半ば分からないところで人を結びつけると言えるかもしれません。それを使えば瞬間接着剤のようにピシッと両者の理解が合致する、そんな便利な道具ではありません。ということを最初にちょっと言い訳めいて話しておきたいと思います。
 先ほども話したように“Le Petit Prince”を『星の王子さま』と訳してるのが内藤濯さんで、他のほとんどの訳者も『星の王子さま』という題名を踏襲しているのですが、「小さな王子」と訳している人もいます。他の題名としてどういうものがあったか、ちょっと分からないですけど。『星の王子さま』と訳すことについては、まあ、どうなんでしょうね。聞いた話だと「赤ずきんちゃん」と訳されている童話は、原題では"Petit"という語が入っているらしくて、「〜ちゃん」とか「可愛らしい、幼い」という意味になります。「王子ちゃん」とすると日本語的におかしいから、「王子さま」みたいな感じで。「小さい」というのは、背丈やからだが小さいというだけのことだけではありません。
 確かに挿絵を見ますと、「王子さま」は大男ではない。でも幼いというよりは少年っぽい。"Prince"(プリンス)を「王子」としていますが、王子とは文字どおり「王様の息子」のことです。でもこのプリンスの意味は、フランス語では「プランス」になりますが、王様の息子ということだけではないらしい。「大公」とか、『君主論』の君主という意味でもPrince(プランス)という語を使っているそうです。だから、『星の王子さま』の題名にも言語間でズレがあったりする、というようなことも考えながら、この勉強会をやっていきたいと思います。

参加者の自己紹介

 「“Le Petit Prince”をフランス語で読みました」という人もいるかもしれませんし、「内藤濯さんの訳で『星の王子さま』を読みました」とか「別の翻訳で読みました」とか「まだ全然読んでません」とか、簡単にでいいですから、みなさんと『星の王子さま』との関係を、自己紹介も含めてお話ししてもらえたらなと思います。

A:よろしくお願いします、Aです。北区に住んでおります。『星の王子さま』は子どもの頃に気がついたら本棚にあって。姉の本だったかも知れないんですけど、それが内藤さんの訳ですかね。そうですね、大好きっていうことでもなかったんですけど、そこにあるもんだからなんか、それこそ何回も、10回ぐらいは…、以上読んだんじゃないかなあっていう感じの本ですね。そしてまた新訳とか出て結構話題になったんでもう1回見てみたりしたんですけど、そんなになんかよく分かってなくて、「ああ、こういうものかな」っていう感じでいたんですけど、今回改めてなんか見れるかなあと思いまして来させてもらいました。よろしくお願いします。

B:Bと申します、こんばんは。『星の王子さま』は小さな頃に内藤さんの訳があって、本読むのすごい好きだったので大好きな本だったけど、でも大好きは嘘かな、わりと好きな本で。で、ちょっとなんか変な言い方なんですけど、ちゃんと読んだっていうか、大学を受験するのに長文読もうと思って選んだのが『星の王子さま』の英訳で。それが初めて、それはあの、さっき西川さんは外国語で読むのってやっぱり外国のこと分からないからって言われたんだけども、日本語って逆に意味...、もうそこに意味がある意味づいてるので、自分で初めて辞書を引きながら文章を読んで作った時にものすごい新鮮で。速く日本語って読めすぎるから、もう辞書引き引き長文を読んだ時に、「こんな話だ」ってものすごく面白くて、「なんて面白いんだろう」ってものすごく思って。それで、ちなみに大学入ってからフランス語を取ったのはもう『星の王子さま』だったんですけど、それぐらい、なんかすごく好きな本だったんですね。でも西川さんの話を時々聞きながら、自分がこんなふうには全然読んでなかったと思うので、今回のこのシリーズはすごい楽しみにしていて。何せ私にとってはすごく大好きな本で。ちなみになんか、世界に3番目によく売れてる?

西川:っていいますね。

B:ね。なんか、1番は聖書、2番は『資本論』、3番は『星の王子さま』って、本当かなって思うんですけど、ただみんな好きなんだなあって思いました。来られる時は来たいと思いますので。左京区に住んでます。よろしくお願いします。

C:北区に住んでいます。ここまでは自転車で来ました。Cと申します。『星の王子さま』は私はちゃんとあまり読んだことがなくって、そうなんですけど、結構ご縁のある方が『星の王子さま』が大好きな方が何人かいらっしゃって。それでみなさんがどこにそんなに惹かれてるのかっていうのが私自身はあまり分かっていないんですけれども。西川さんはどんな感じで読まれてるのかなっていうのもお聞きしていきたいなと思っています。お願いします。

D:Dといいます、お願いします。堺で「ケア塾たまてばこ」のほうに寄せてもらったりとかしています。初めて叡山電車というものに乗って、すごい、なんか今日は、

西川:観光気分です。

D:うん、なんかお得な感じがしましたね(笑)。この会がないと、きっと生涯乗らなかったかなと思ったりしました。『星の王子さま』は、んー、何回か読もうと思ったんですけど、読みくい文体というか、何回も挫折して、なんかぱーっと見ては終わり、ぱーっと見ては***。4、5年前ぐらいに本気で読んだ時でも、「まあ分かってないな、これは」と思いながら読みました。ずっと上っ面しか読めないので、「この奥にあるものは?」と思いながらも、なかなか自分一人では読み砕くことが難しいので楽しみにしています。まあ来れたら来ます。頑張ります。お願いします。

E:舞鶴からFさんと一緒に来ました、Eと呼ばれております。西川さんのファンなんですよ(笑)。でもほんと、自由律俳句の講座とか、舞鶴では『楽訓』[*15]の講座とかいろいろされていて、それにちょこちょこと顔出させていただいていて。久々になんか哲学めいたことの世界に、ちょっと日常の何分かの一をね、そういった時間を持てるようになって、すごい楽しく過ごさせてもらってるんですけど。『星の王子さま』、実は確か中学の時に、学校の合宿の時になぜかこれを読んで研究するという課題があったんですよ。で、たぶん内藤さんの訳なんですけれど、模造紙にみんなでここから読み取ったことを書いてグループごとに発表するという場面で、私はバラと王子の愛について語った覚えがあって、でもみんなにめっちゃ笑われたんでよすね。何でだったんだろうな、とか思うんです。すごい真剣に答えたつもりだったんですけどね、口を開くたびに笑われた覚えがあって。でも、なぜかこの本は全体的にもの悲しさがあって、なんかすごく王子さまのことを思うとなぜかすごく悲しくなってしまうんですけど、それがいったいなぜなのかってあたりも含めて、もう一度改めて読みたいなと思って。舞鶴からなんで最初と最後しか来れないかもしれませんけど、関わらせていただきたいと思います。よろしくお願いします。

 [*15] 『楽訓』:江戸時代の本草学者、儒学者である貝原益軒(1630〜1714)の著書。考える楽しさとは何かを説いている。

G:Gです。『星の王子さま』を読むのは今回初めてなんで、『星の王子さま』について何も知らないので、いろんなことを知りたいなと思っています。よろしくお願いします。

西川:変なこと吹き込まれたりしてね、僕にね(笑)。はい、どうぞ。

H:Hです。Gさんと同じで高1です。『星の王子さま』は内藤さんの訳を小学校の時と中学校の時に1回ずつ読んだけど、分からないから小学校の時は最初のヘビの話とヒツジの話の時点で面白かったけど、閉じて。中学になってちょっとこう、最後まで読もうという意地があって読んだけど、特に何も覚えていません。けど、やっぱりヘビの話とヒツジの話だけ覚えてます。

西川:ヘビって、大きなヘビのこと? ウワバミ[*16]のやつ?

 [*16] ウワバミ:蟒蛇。大蛇のこと。

H:はい。食べた。

西川:食べたところね。あれや、ウワバミのね、ボアだね。はい、分かりました。

I:Iといいます。大津から来ました。西川先生の自由律俳句の舞鶴で1回と、砂連尾理[*17]さんの関係で、はい。それで今日、何も知らずっていうか、だからさっき私、変な電話したのはたぶん私だと思うんですけど、「誰が対象ですか?」とか、なんか変な電話をしました。

 [*17] 砂連尾理:じゃれお おさむ、1965年生まれ、振付家、ダンサー。立教大学 現代心理学部・映像身体学科 特任教授。近年はソロ活動を展開し、舞台作品だけでなく障がいを持つ人や老人との作品制作やワークショップを手がけたり、ジャンルの越境、文脈を横断する活動を行っている。

長見:Facebookで、ああ、大変失礼しました(笑)。

I:いえいえ、ごめんなさい。えっと『星の王子さま』は私がもの心ついて一番最初に買ってもらった誕生日プレゼントだったんです。はい。で、大人になってからも読んでますし、2、3年前にはたぶん違う作家の、結構有名な方の訳で読んで。誰だか忘れちゃって。

西川:池澤夏樹[*18]さんかな?

 [*18] 池澤夏樹:いけざわ なつき、1945年北海道生まれ、小説家、詩人。翻訳、書評も手がける。2005年に集英社より『星の王子さま』を出版。

I:たぶんそのへんかなと思いますが、読んでいます。
 
西川:いろんな作家がやっていますもんね。

I:はい、はい。そうなんです。こんなところだと全然思わなくって来ているので(笑)。

西川:こんなところですけどね(笑)。ぜひゆっくりしていってください。

I:いい意味で(笑)。よろしくお願いします。

J:Jと申します。私は文字に反応する能力があんまり高くないので、漫画の吹き出しもまともに読んだことないくらい活字が苦手なんですね。今日はサン=テグジュペリの『星の王子さま』を勉強すると、ケア力、介護力が上がると聞いて、それをあの、一縷の望みをかけてというか。

西川:(笑) 上がりますよ、必ず。時間かかるけど。

J:はい(笑)。介護の腕が上がる、上達するようにと思って来ました。よろしくお願いします。

西川:いや、でもこれ僕、『星の王子さま』をケア論として読むっていうのが、僕が本格的にこれを読み始めたきっかけなんですよ。これをサン=テグジュペリの一つの作品とかじゃなくって、ケア論として読めると思ったの。で、それの可能性を感じさせてくれたのが、この稲垣さんの翻訳でしたからね。で、よくよく考えてみると、やっぱりそうだなあと思って。うん、だからそのものです、はい。僕のやろうとしてることはね。

J:はい、分かりました。

K:Kと申します。今日は兵庫県の西宮からやって来ました。サン=テグジュペリの『星の王子さま』ですけど、やっぱり僕の家にも僕が生まれる前から多分あったと思います。それは岩波書店から出てる内藤濯さんの本で、姉がいますから、たぶん姉が両親から、あるいは祖父母から小さい時買ってもらったものがずーっとあったのかなというのが。なので小学校の時も中学校の時も、まあ高校の時なんか読まなかったかもしれませんけれども、大学に入って改めて読んだりっていうことをずっとして来たんですけど、そのたびに読む端から内容が頭に入らないというか(笑)。「『星の王子さま』ってどういう本なの?」って人に時々聞かれることがあるんですけど、なかなか「こういうお話なんだよ」ってことを言えなくて、困るなあというふうには思ってた記憶があります。それから、でも先ほどもどなたかおっしゃってましたけれども、何となくやっぱり寂しさっていうか、王子さまの寂しさみたいなのだけは心に残っていて、話は分かんないけれども何か雰囲気みたいなのだけは心に残ってる、そういう不思議な本でずっとありました。何年か前に何度か西川さんが主催する、この『星の王子さま』を読む読書会に参加をして、そこでも久しぶりに、「ああそっか」ってことをいろいろ考えながら読み直していたのですけれども。またそれからしばらく時間が経って、『星の王子さま』、サン=テグジュペリから離れてたんですけれども、またこうやって今度はこの本を読む機会に戻ってこれて、すごく楽しみにしてます。よろしくお願いします。

L:Lです、よろしくお願いします。阿倍野の「ケア塾たまてばこ」に2回ぐらい行かしてもらって、今日ここがあるって教えてもらって来ました。で、『星の王子さま』は子どもの頃に読んだことはあるんですけど、全く内容を覚えてなくて。買ってちょっとここに来るまでに読もうと思ったんですけれど、ヒツジの絵ぐらいまでしか読めなくて。でもたまてばこの、「ケア塾たまてばこ」がそのケアの、「ケア塾」って付くしね、ケア塾でこれを読むって何でだろっていうのがまだ全然何も分からないので、不思議で、ちょっと楽しみに来ました。よろしくお願いします。今日も間に合いませんでした(笑)。

西川:長見さん何か一言ある?

長見:一言ちゃうで、ちょっとしゃべってもいい?

西川:ああ、いいよ。いいよ、珍しいな(笑)。

長見:珍しいやろ? あの、あまり注目しないでくださいね(笑)。

西川:してない、してない。

長見:しょうがない、しょうがない。まず、まずは子どもん時やけど、もちろん、なんか小学校ぐらいにあったんです、岩波のね。高い本なのね。「何でこんな児童本がこんな高いんだ」、なんか当時の値段では2、3千円したと思いますけどね。あの、僕、今65歳なんでだいぶ昔ですけど。だから結局あんまりね、背表紙しか見てなくて、あんまり中はね、パラパラッと絵見るぐらいで、手元に持つとかってのあんまりなかったですね。それで中学なんかでやっとなんか、図書館かな、それとも兄貴か姉が買ってくれたのかなんかで見たけど、そんときはまあちょっと面白いなぁって思ったんだけどね。あとなんか大学、ちょっとしか行かなかった大学ですけれども、の頃はだからペーパーバックでね、英語のやつがあってね。安いんだよね、「何でこんなに!」って。だから値段ばっかり気になって、この本を見ているとね。

西川:岩波は悪どい商売しやがって(笑)。

長見:悪どいし、「何で英語がこんなに安いんだ?」ってね、「洋書なのに」って思うでしょ? そういうつまらない疑問しか、まあだいたいなかったんだよね。でそのまんま終わりなんだけど。ただまあ文句の中でちょっとだけ覚えてたのがこれ。この本だったら74ページね。

 「酒を飲んでるのさ」と暗い顔で酒飲みは答えました。
 「なんでお酒を飲むの?」と王子さまはたずねました。
 「忘れるためさ」と酒飲みは答えました。
 「なにを忘れるためなの?」と王子さまは重ねてききました。もう酒飲みのことが気の毒になってきていました。

 これなんかもう、ちっちゃい時から自分のことのような感じでね、もちろん酒飲みのほうの立場で。わりと好きなページね、これね。それでね、全然、僕、自分と関係ないと思ったの、もうほんとそう、最初の「レオン・ヴェルト[*19]に」っていうところなんですけどね。このあいだちょっとうちの、ちょっとひねくれたヘルパーとしゃべってたら、「長見さん、あれ、星の王子さまから取ったんでしょ」とかって言われて、「何のことや」ってったら、昔ね、10年ぐらい前、伊勢真一監督のね、『風のかたち』[*20]っていう映画を上映して、あの、小児がんの子どもたちのキャンプとか、そんなの撮ったやつなんですけどね。

 [*19] レオン・ヴェルト:Léon Werth、1879〜1955。サン=テグジュペリの友人のジャーナリスト。サン=テグジュペリよりも22歳年上で、1931年頃知り合い互いに無二の親友となった。当時は第二次世界大戦中で、ヴェルトはヨーロッパにおいてナチス・ドイツの弾圧対象になっていたユダヤ人であった。
 [*20] 伊勢真一監督、『風のかたち』:小児がんと闘う子どもたちと医療関係者、ボランティアの活動を10がかりで記録したドキュメンタリー。2009年。

西川:ああ、細谷さんのやつで?

長見:細谷さんも出てくるし、ついこないだ亡くなられた石本 (浩市) さんも出てくるんですけどね。なかなかこう、伊勢さんの上手なのはたくさんの群像をこう上手にね、短いインタビューでバーッと繋げているんだよね。あそこで、「いや、そうだよ、みんなもともとは子どもだったんだ」ってみんなに言ったら、「これをチラシのあれにしようかとか」って言ってたんだけど、めんどくさくてチラシ作らなかったんだよね(笑)、結局だめだったんだけど。作ってたら、あの、あれだったんで。だからその時に一緒にいてた連中は「もともとみんな子どもだったんだ」ってね、いかにも僕が自分で考えて言ったように聞かされていたけど、違うじゃないかと、ここにあるじゃないか、って言われてね。で、このね、あの、すぐ1ページ目ですから、「レオン・ヴェルトに」ってまえがきみたいなとこの後ろから3行目ぐらいですね。だから

 ……ずっと以前まだ子どもだったころのその人に、この本を捧げることにしましょう。おとなはだれだって最初は子どもだったのですから(でも、そのことを覚えているおとなはほとんどいません)。というわけで、こんなふうに献辞を書きなおすことにします。
 
  少年だったころのレオン・ヴェルトに

っていうんだけどね。レオン・ヴェルトのことなんか全然覚えていないんだけど、それからここをパクったって意識も全然ないんですけど、10年経ってなんかね、そういうふうにケチつけられてね(笑)。なんかの因縁だなあと思ってね、覚えてました。以上です。

西川:はい、ありがとうございます。そちらもどうぞ。

F:Fと申します。舞鶴からやって来ました。『星の王子さま』は、子どもの頃気づいたら本があったみたいな感じで。私の子どもの時のイメージはやっぱりこの絵のイメージというか、星に住んで楽しげに暮らしているイメージなんです。ものすごく面白おかしく、一人でこう火山の世話をしたり、バオバブが生えないように摘んだりとか、こんな星が、自分の星があってさぞかし楽しい生活やな、みたいなイメージの、楽しいほうのイメージで育ったというか。それでこの後あんまりもう『星の王子さま』はね、子ども向けの童話みたいな自分の中でイメージがあったんで読み返すこともほぼなかったと思うんですけど、4年ぐらい前にグレイスヴィルまいづるで『星の王子さま』の読書会があって、新しい岩波以外の本を買って読んだら、「あれれ、こんなに恋の話とかあったっけ」みたいな。もう読み飛ばしていたんですね。やっぱり子どもの頃なんで、難しいところを読み飛ばしてたっていうか。それで、自分一人で読んだ後の感想と、やっぱり『星の王子さま』の読書会が終わった後、いろんな解説なり何なり解釈なり聞いた後、またなんか違うってなって、「ああ、なんか深い本だな」っていうところで止まって。今回またこの読書会を始めるっていうので、たまてばこ学習会の時の文字起こしで音声データを聞き返すと、またこう見え方が違うというか、七変化ぐらいする本だなと思いました。今回もよろしくお願いします。

M:Mと申します。ココペリで働いてます。あと保育士もしているんですけど。でも保育士は、保育士になろうと思ったのがもう30ぐらいで、実際なれたのも30過ぎなんで。特にそんな子どもの本が好きって……、あ、でも今は好きですけど。もともと読書の習慣とか全くない人やったんで、『星の王子さま』も読んだことはなくって。まあ、ね、こういう会、どんなんかなと思って興味だけあって来て。でもあの、本は、文字は読まないんですけど、人間とかには興味はあるかなと思ってるし、心のこととかも興味はあるんで。文字は読まないんですけど。なんで、一応興味を持って来ました。はい。

西川:はい、ありがとうございます。

N:ココペリ121のNと申します。『星の王子さま』、たぶん初めて知ったのは小学生ぐらいの時だったかもしれませんが、あんまり興味を持った記憶がなかったですけど、やっぱりいろんなところで接点は何かあったんですね、今までを振り返ってみると。高校の国語の教科書に載っていて、で、高校の時に入ってた演劇部の先輩で脚本を書いたりとか演出とかしている人が『星の王子さま』がすごく好きで。一番好きなセリフはね、「肝心なことは目に見えない」っていうのを、いろんな自分が今まで読んだものの中で一番好きなセリフだと言ってはりましたね。大学受験終わった時に、暇になったから、終わって会場を出て本屋でふらっと寄って、時間があったから最初なんとなく買ったのが『星の王子さま』だったのも覚えてますね。それも岩波でしたね。それから最近ね、ちょっと前にたまてばこに参加してたので、隔週で。それで、フランス語はちょっと読めないけど英語なら読めるかなと思って、英語を買ってきて読んでたんですけど、英語もものすごく種類ありますね。英語だけでもね、10種類以上ぐらいの翻訳がある。フランス語から英語って文法が近いので、そこまで日本語ほど多様にならないような気がするんだけど、すごくなんか求心力があるみたいです。

西川:題名が“The Little Prince”じゃないやつもある?

N:英語はたぶんないと思うんですけどね。

西川:まあみんなやっぱりリトル……、

N:なんか副題みたいなのが付いてるようなのもあったような気もする。でも翻訳はすごく、ここ5、6年ぐらい前にも新しく出ているものもあるし。で、買ったんですけど、家の中にふとなんかね、『星の王子さま』があったりとかしてね、英語の。買わなくても。

西川:誰のやつ?

N:でもこれが翻訳違うんですよね。僕これがね、一番最初のやつだと思いますね。ウッドっていって、

西川:ああ、そやね、それ一番最初、

N:アメリカで出版されてて、英語もどこも同時に出版されてるんですよ。でこれがでも、裏見返したら僕の母親に、なんか誕生日プレゼントに誰かがあげた……。いや、クリスティ、僕も知らない、オーストラリア人の人なんですかね。なんかすごい、いろんなところでなんか今までを振り返ったら接点があったな、とかとは思いました。翻訳がちょっと面白いんで調べたら、日本語もね、もう今10種類ぐらい以上の、もっとありますね。でちょっと、最近ほんまにいろいろあって、なんかすごくあんまり使う人が少ない語にも訳されていて。ラテン語とかにもなっているし、何かね、うん、スワヒリ語とかの訳もあるね。で、このあいだ英語の新しいやつのつもりで買ったのが、これがですね、ちょっと失敗してしまって、一応英語なんですけど、あの、オーラベッシュ[*21]っていうスターウォーズの世界だけで使うアルファベットで書いてあって(笑)。すごく読みづらい、全然読めない。最初のところにアルファベットとの対応が書いてあって、必死にこれと置き換えないと読めないんですよね(笑)。なんでこんなもので出版したのかよく分からないです。

 [*21] オーラベッシュ:Aurebech、映画“Return of the Jedi”といくつかのスターウォーズ関連の出版物に掲載されている。銀河標準ベーシックと呼ばれる銀河帝国の言葉を書くために、映画の中で使われていた文字。

西川:いやあ、愛してる***、ねえ。面白いな。

N:スターウォーズの世界のキャラクターに読んでほしかったんですかね。まあこういうものもあったりとか、やっぱり今までね、なんか意図してなくてもすごく接点があるとかって、それだけなんか不思議な求心力があるテキストだなあとは思いました。はい。

西川:はい。じゃあ、トリですけどね。 

O:ココペリ121のOと申します。『星の王子さま』は、なんかもう小学校の時に名作とされてて、もう古典中……、読まなきゃいけないみたいな本だったんで、ちょっとあまのじゃくで読みたくなくて、読まなくて。で、それから何度か読む機会があったんですけど、もう初めの話から全くこう、頭に入ってこないっていうか。「これ何も意味分からんな」と思って。わりと本読むの好きで小説も好きなんですけど、全くちょっと理解ができなくて、なのにすごい古典とされてるというか、すごい求心力があるものなのは、いったい何でだろうと思って。今回の機会に読み返して、ちょっと読み返そうとしてきたんですけど、それでもやっぱり分からなくて。でも、ってことは逆になんかあるのかなっていう気がすごいしてます。ってことで楽しみにしてます。

『星の王子さま』の絵について

西川:はい。ありがとうございました。『星の王子さま』との関わりは、まあ、みなさんそれぞれですよね。でも「子どもの頃に読んで、あまりよく分からなかった」という感想がけっこう多い。読むたびに印象が違うのは確かだと思います、ほんとに。僕も4年前に読んだ時と、それから以降人生でいろいろありましたから、最近また読み方が確実に違ってきていると思います。何と言うのか、『星の王子さま』は、読めば読むほど自分の姿が浮かび上がってくるような、そんな不思議な本という気がします。
 それから、何度も何度も読んでいるうちに、けっきょくまた元の場所に戻ってくるみたいなことがあります。前も言いましたけど螺旋的に。「スタートして読み始めて一直線に進んでゴール、それで犯人も捕まりました」というような分かりやすい本ではないんです。「分かんないな」と思いながら頑張って頑張って読み進めていったら、また元の場所である「ここ」に来てしまう。そして「ここのことが最初に読んだ時よりも分かる」というふうに、読み返すうちに、だんだん本の理解が深まる。それこそ人生で何度も何度も四季の巡りを経験するうちに、春とか夏とか秋とかの趣を、自分の人生が60年だったら60回受け取っているわけですから、「秋」という言葉一つ聞いても、自分の人生の中で経験したいろんな光景や気分が湧き出してくる。『星の王子さま』という本は、そういう魅力を持っている本だと思います。
 今日は残り30分しかないので、あとは僕の方でちょっと勝手にしゃべらせてもらおうかなと思います。まずですね、「絵を見ましょう」という話があったじゃないですか。本のカバーの絵と、それから扉の絵。扉のほうにはキャプションが付いてます。この絵をじっくり見てください。見るだけではたぶんだめで、ほんとうは模写したほうがいいです。模写すると見えてくるものがあります。授業でやったことがあるのですが、7ページの「大蛇ボア」の絵を模写してもらうんです。すると、ぱっと見ただけでは分からないことが分かるんです。しっかり絵を見てそれを描き写すと、小さな目があることに気づくんです。

長見:ああ、本当だ。

西川:丁寧に寸分違わず模写しようと思うと、小さな目があることに気づくんですよ。分かります? だから一瞥しただけでは分からないことがあるんですね。「描くコミュニケーション」と題した授業で、お互いの顔をじっと観察してスケッチするということをやったことがあります。上手い下手は関係ない。とにかく必死になって相手の顔を見て描く。こういうことが苦手なら相手の右目だけでいいから、ということを10分も20分もかけてやる。人の顔や目なんて普通、恋人でも10分間じーっと見ることはないです。それで見るだけではなくて、今度は「この形は、あ、違う、こうかな」みたいにして、自分が見てることと描いていることのズレを意識しながら模写をしていくと、何というか目の前に見えてるものが自分の内側に刻み込まれるように入ってくるんです。
 『星の王子さま』の絵、これはサン=テグジュペリその人がものすごい膨大な量のデッサンの中から選び抜いてるものです。だから、単なる飾りものの挿絵ではない。『星の王子さま』の物語は、この絵と文とが一体になった作品であって、「文=誰々作」「挿絵=誰々作」というものではない。通常の『星の王子さま』の解説書は、ほとんど本文のストーリーの説明だけなんです。そして絵はキャラクター商品化されているだけ。これは、著者にしてみたらものすごい不幸な読まれ方だと思います。出版社に絵と文の位置について、こと細かに何度も何度もしつこく嫌がれるぐらい注文をつけていて、サン=テグジュペリの中では文と絵とは密接不可分の、血がつながっているような関係なんです。
 でもそこを僕らはちゃんと読めていない。今のところ解説書や『星の王子さま』に触れた文章で、そういう指摘を読んだことはありません。「何となく寂しげな少年の姿が」とか、絵についてそれぐらいのことは書いてありますけれども、きちんと全部一枚一枚模写するぐらいの迫力で絵の解説すると、たぶん全然違うと思います。僕もね、模写をやってみたいなあ、という気持ちはあるのですが、今回は文章だけを書き写してきました。
 黙読という、大人が普通するようにさらっと読んでしまうことも、僕は『星の王子さま』を読むときに拒否しています。さらっと読むと、読み飛ばしてしまう。そうではなくて、声に出す。声に出すと、分からないところは読むときに詰まるんです。そして声の抑揚がその部位に合ってないような、変な音の高さやリズムになってしまう。だから読み終わった時に「あ、この部分の自分の読み方や理解が間違っていた」ということがすぐ分かるんです。さらにこの音読を人に聞かせて、その人が「うんうん」と分かるように声に出して読まないと、本当のところを理解している、ということにはならないのかもしれません。その上でさらに書き写す、ということを僕はしています。
 なぜ『星の王子さま』をそんなに手間ひまをかけて読まないといけないのか。手間ひまをかけないと見えないことが山ほどあるんです。ゆっくり読む、これは一度ぜひやってもらえるといいかなと思います。大谷大学で授業をした時には学生さんに読んでもらいました。読んでもらうだけで分かるんですよ、どれぐらい理解できているかが。やっぱり理解できていない人は、上っ面の読み方をする。別に演劇的にうまく感情を込めて読もう、ということではありません。でも、どこでポーズを作るのかとか、やっぱりあるんですよ。だから僕も、みなさんの前で読む時には「西川分かってないな」ってバレちゃう(笑)。書く文章だと、肉声ではないからまだ隠しやすい。まあ文体というものはありますが。でも声に出して読むと、ほんとうに自分の理解というものが現れてしまいます。
 さきほども言いましたが、サン=テグジュペリは、ディクタホンに何度も何度も声を吹き込んで、タイプした原稿を訂正して、また声を吹き込んで、と。最終的には必ず「声に出す」ことに落としどころを付けているわけです。稲垣さんもそのことをすごく意識して翻訳しています。だからその本を通常の黙読、つまり黙って文字を目で追うという読み方ではない、音読で——そんなの小学校ですることでしょ、と言うのではなくて——声に出して読んでみることを家に帰ってからでもいいし、誰かを相手にでもいいですから、やってみてほしいと思います。この勉強会でもみなさんに読んでもらいたいですが、とりあえず僕が一人で読んでいこうかなと思います。

普通ならあるものがないということの意味

 さて、『星の王子さま』のカバーの絵を模写するのもいいのですが、絵について文章を書いてみる。物語でなくて散文的なものでいいと思います。まずそこに自分はどんな文章をあてはめるのか。この絵から何を読み取り、考えてみたらどうなるか。たとえば僕は以前、ちらっとメモに書いたことがあるのですが、「ポケットに両手を入れ」と描写しています。王子はポケットに両手を入れていますかね? 入れていないのかな、これ。「ポケットに両手を入れ、遠くを見て何かを待っている様子」と書いてます。僕はそう読んだようです。それで、「赤い蝶ネクタイしていますね」と。
 扉の見開きの絵も見ていて、「遠くを見て何かを待っているというのは、たぶんこの渡り鳥を待っているのだろう」と僕は解釈しているんです。こういうことは、いきなりは分からないですよ。何度も何度も本を読み返してるうちに、物語が絵と同時に浮かび上がってくるんです。扉の絵では、王子の服装が蝶ネクタイではなくてマフラーになっているでしょう。マフラーというかストールかもしれませんけど、これは何なのかということを注意深くじっくりと見ていく。【この時のこれはマフラーかもしれませんけど、もう風にたなびいてないんですよ、とかね。】
 著者のサン=テグジュペリはそこに必ず意味を込めているはずです。だから絵の一つ一つに思いを馳せて、少なくとも飾りものの挿絵のように見ないということが、『星の王子さま』の本来の読み方だと思うんです。この点については参照すべき文献はほんとうに何もありませんし、それこそ自分の想像力のみで読んで考えるしかない。でも勝手な空想ではだめなんです。何度も何度も『星の王子さま』を読むことと、それからこの絵が物語とどういう関係にあるのかをじっくり考えながら見る、ということです。僕の解釈だけを押し付けるつもりはありませんので、みなさんもそこを少し意識しながら一緒に読んでもらえると面白いかなと思います。高校生には高校生のイマジネーションがあるし、60歳には60歳のイマジネーションがありますから。正しいとか正しくないとか、分からないじゃないですか、この絵に何を感じるかということをできるだけ、この場所で忌憚なく話し合うことができるといいですね。
 さて、この間、ふと思いついたからメモを書いたのですが、『星の王子さま』には登場人物がいろいろいますよね。人間であったり、動物であったり、植物であったり、【****】には固有名がない。重要な登場者であるバラでさえ、初めはただの「花」と呼ばれていた。このことの意味は何だろうか。王子も最初から「王子」とは呼ばれていません。でも最近の様々な子ども向けの物語は『ドラえもん』にしたって何にしたってそうですけど、必ず名前があるんですよ。主人公に名前がないって、ないんです。そういう例が何かあればまた聞かせてもらいたいですけど、ありますか? 『オバケのQ太郎』にしても『ウルトラマン』にしても、主人公や重要な登場人物には全部名前があるんです。
 ところがこの『星の王子さま』、これだけ有名で、これだけたくさんの言語に翻訳されて、世界中で愛されていると言われるこの物語には登場人物の固有名がほとんど出てこない。本の中で出てくるのは、まあサン=テグジュペリは著者の名前として出てきますが、その他には「レオン・ヴェルト」という名前だけなんです。あとは一切出てこない。その理由は何なのか、今のところはまだちょっと分かりませんけど、みなさんにも考えてほしいです。何か目の前にある、見えるものについての意味を考えることももちろん大切ですが、そうではなくて、普通ならあるものがないということの意味も考えてみる。『星の王子さま』の中には「いちばん大切なものは目には見えないんだ」という有名なセリフがありますが、それはいったい何なのかということです。僕はこの問いに対して「よう分からん」とメモに書いています(笑)。まあこのことも一つ、これから読んで行く間に考えていきたいと思います。

レオン・ヴェルトについて 

 あと残り20分ぐらいですけど、その唯一固有名が出てくるレオン・ヴェルトについてです。まず読みますね。

  レオン・ヴェルトに

 この本を一人のおとなに捧げましたが、そのことを子どもたちに許してもらえないかと思います。それには、れっきとした理由があるからです。そのおとなは、この世でいちばんの親友だからです。ほかにも理由があります。このおとなはどんなことでも分かる人だから、子どもの本でもちゃんと分かってしまうのです。三つ目の理由があります。このおとなは今フランスに住んでいて、お腹をぺこぺこにすかし、寒さにぶるぶる震えています。そんな人はどうしても慰めてあげなくてはいけないからです。これだけ理由を言っても、まだ許してもらえないのでしたら、ずっと以前まだ子どもだったころのその人に、この本を捧げることにしましょう。おとなは誰だって最初は子どもだったのですから(でも、そのことを覚えているおとなはほとんどいません)。というわけで、こんなふうに献辞を書きなおすことにします。

  少年だったころのレオン・ヴェルトに


 これはですね、『星の王子さま』という物語が本文だとしたら、パラテキストというか周辺のものなんですね。「何年何月に出版されました」っていうようなね、たとえばこの中でも奥付というのがあるのですけど、これは『星の王子さま』という物語の本文じゃないでしょ? でも、この本を形作っている大事なパラテキストなんです。どの出版社から何年に本が出たかというようなね。で、献辞もどちらかというとそういうものなんです。それで、サン=テグジュペリは、この本でレオン・ヴェルトへ献辞を捧げていて、これが印刷されて載りました。だから『星の王子さま』を印刷物として手に取った人は、必ず「ああ、レオン・ヴェルトへ献辞が捧げられてる」ということが分かるんですけど、他の本もですね、まあ抜き刷りっていうか最初の1冊だけタイプ原稿とかっていうのがあるんですけれど、それに「レオン・ヴェルトに捧げる」って、個人的にレオン・ヴェルトに渡す時に「親愛なるレオン・ヴェルトにこの著作を捧げます」みたいなことは書いているんですよ。分かります? 
 だから献辞っていうのがなかったとしても、たとえば僕が自分の本に「Bさんへ」と書いたら、これは献辞なんですよ。だから本来ものすごく個人的な事柄で、中身のストーリーとは関係ない。これをパラテキストっていって、本文の周辺にある情報なんですけれども、これがものすごく重要な役割を果たしているんですね。これは最後のところが非常に有名で、「誰でもおとなは子どもだった」って、当たり前のことといえば当たり前のことなんで、別にこれはサン=テグジュペリの発明じゃないんですけれど。
 ただこれは実は、どういうのかな、まずレオン・ヴェルトがどんな人なのかということをちょっと、そしてサン=テグジュペリがどんな人なのかっていうことも言わないとなかなかね、分かんないですけど。サン=テグジュペリは1900年生まれです。1900年ということは、1901年から20世紀なので、だから1900年っていうのは19世紀末。だから19世紀の人、貴族の生まれで。そういう人なんです。レオン・ヴェルトは1878年生まれ。だからサン=テグジュペリよりも22歳年上。22歳、年が離れています。で、1955年に亡くなっていますから、サン=テグジュペリより後に亡くなっている人なんですけど、この人はフランスのジャーナリストで、小説家、美術評論家ということで、サン=テグジュペリのまあ非常に親しい友人なんです。ここに、

 そのおとなは、この世でいちばんの親友だからです。

って書いてるじゃないですか。単なるお世辞じゃなくって。えーと、これがね(『僕の知っていたサン=テグジュペリ』)、レオン・ヴェルトの本です。日本語に翻訳されているのは唯一これだけで、サン=テグジュペリ関係のレオン・ヴェルトの日記だとか手紙が載っています。あと、いろんな若干の資料めいたものがあったりして。レオン・ヴェルトというのは、この人ですよね。また後で本を回してもいいですけど、一緒に顔が写っている写真はないかな。……ないな。ああ、一緒に写っているのはないですね。この二人が知り合ったのは1931年ですから、サン=テグジュペリが31歳、でレオン・ヴェルトが22歳上やから53歳。31歳と53歳、かなり年が離れていますけど、これが大親友になるというね。面白いですよ、翻訳だからかどうか知らないけど、サン=テグジュペリが手紙をいっぱい書いていて、まるでラブレターみたいな感じですね。まあこんなね、文字と必ずスケッチみたいなものを入れた手紙を出すんです。

親愛なるヴェルト。
通りすがりに君に抱擁を

 抱擁、抱きしめる、ハグをっっていうことです。

(僕は5分だけパリにいる。)
今日の午後、むちゃくちゃ足下の悪い界隈を散歩していたら、この世で最も見事な花火を見かけたよ(僕に向かって撃たれたものだ)。

 鉄砲ですよね。

いくつかのベンチもあったけど座らなかった。それだけだ。
シュザンヌを抱きしめろよ。
                          トニオ

 シュザンヌは、ヴェルトの奥さんなんですけ。
 ものすごい友情があるんですけど、彼はユダヤ人なんですよ。それでジャーナリストとして、まあ第一次世界大戦に関しても非常に平和主義的な、反戦の論陣を張った人ですし、それから当時まだフランスではそれほど問題にされてなかったフランスのアフリカに対する植民地政策に関しても、彼は結構いろいろ批判的なことを書いていて、かなり問題になっているんですね。それで、第二次世界大戦の時にナチスドイツがフランスに攻めて来ます。それでフランスはもうもうあっけなくナチスと、まあ言ってみたら傀儡政権というのがあって、負けちゃうわけですよね。で、ド・ゴール[*22]という人がイギリスに行って、フランスの外から「いや、負けるな! レジスタンス運動をしろ!」とかって言うんですけど、あの、まあちょっとそこらへんね、十分に話をしないと分かりにくいかもしれませんが、そういう時代にサン=テグジュペリはアメリカに亡命しているんです。フランスから逃げちゃっている。で、レオン・ヴェルトはユダヤ人で、逃げていないんですよ。逃げていない。だから身を隠さないと、ユダヤ人ですから。ヴィシー政権[*23] はナチスにもうどんどん協力して、別にドイツだけでユダヤ人を虐殺したわけじゃなくて、フランスにナチスドイツがやって来た時に、フランスからもユダヤ人は大量に連れて行かれて。そういう状況の中で、まだこれ戦時中の1943年ですから、この本がニューヨークで出版されたのは。だからサン=テグジュペリはフランスからアメリカに逃げたというか、脱出したんです。フランスにいなかった。でもそのことがものすごく彼にとっては重荷で、また再びフランスに帰るんですけど、というか戦線復帰するんです。そういう友人を、ユダヤ人の友人をフランスに置いてきたって、命の危険のあるところに置いてきたっていう状況があって、「慰めないといけないから」ということになります。

 [*22] ド・ゴール:Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890〜1970、フランス、リール生まれ。フランスの貴族、陸軍軍人、政治家。第二次世界大戦で本国失陥後、ロンドンにロレーヌ十字の自由フランスを樹立し、レジスタンスと共闘した。1944年にフランス共和国臨時政府で最初の首相となり、1959年には第18代大統領に就任した。
 [*23] ヴィシー政権:第二次世界大戦中における、フランスの政権(1940〜1944)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。

友情について

 でもね、もう一つ考えてください。これからこの本を読んでいきますけど、

 そんな人はどうしても慰めてあげなくてはいけないからです。

って。この本がどうやって慰めになるの? これ結構、悲しい話なんですよ。そんなに簡単に希望が見えるような話じゃないんです、うん。自分の命の危険というか、理不尽なそういう歴史に翻弄されて巻き込まれて、ね。実際に寒さにも飢えにも震えていたレオン・ヴェルトをアメリカから慰める、って渡されたのがこれだとしたら、「じゃあこれのどこがどう慰めになるんだ?」と読み解かないと分からないですね。
 で、22歳も離れているサン=テグジュペリとレオン・ヴェルトですけども、彼らが友情というものをどう考えていたかっていうことをですね、レオン・ヴェルトの言葉をちょっと引用します。これはレオン・ヴェルトが書いているのですけど、1940年、だからこれは、まだ『星の王子さま』が出てない頃です。ちょっと読みます。

 一九四〇年十月十五日
 サン=テグジュペリは僕と二日間過ごした。友情とは「魂の訓練であり、それ以外の成果を持たない」。友情が文学に霊感を吹き込むことはほとんどなかった。このモンテーニュの言葉の中には、何世紀も積み重ねられた書物よりも、多くの友情がある。

 さきほどの言葉はモンテーニュの言葉ですね。

愛はなぜ尋常ならざる特権を持つのだろう。たぶん、愛がほとんど普遍的といっていいから、愛について何か体験したことのない人間など、ほとんどいないからだ。
 友情もまた愛と同じくらい謎めいているが、その謎はもしかすると愛以上かもしれない。

 ここが面白いですね。

欲望を掻き立てる性質や姿かたちなら、多くの人間たちはその定義を与えることができる。愛の館では客の好みを聞くことさえする。だが友情の館は存在しない。

 「愛の館」。でも皮肉で言ってるんですけどね、遊郭っていうかそういうところですけど。

 自我をさらけ出したり、分析の芸当をしてみせることは、まさに青年たちの友情の練習だが、

 自分の気持ちをね、「本当の僕はこうなんだ」とかってさらけ出したり、「あいつはこうだよ」とかって。

まさに青年たちの友情の練習だが、おそらく今日の若者たちはそんな行為など放棄してしまっているだろう

 次です。

 友をあるがままに受け入れるのでなければ、友情はない。その人そのものを受け入れるのでなければ、友情はない。友人たちの一方が肥大化したり、矮小化されたりすれば、また二人が一個の人物になってしまったら、もはや友情ではない

 あの、このレオン・ヴェルトとサン=テグジュペリっていうのは必ずしも意見が一致しているわけじゃないんですよ、いろんな思想的な考えでも。それでサン=テグジュペリが必死になって書いた、遺作になって未完の長編で『城砦』[*24]という本があるんですけど、それについてはかなりレオン・ヴェルトは批判的なことをいっぱい書いていて。「ここからは要らないんじゃないか」とかね、いろんなことを言ってるわけです。でもそれはね、それでいいんです。そういう同一化っていうか仲間意識でわれわれは友情を語っているのではないんだ、ということをいろいろ言っています。
 で、ちょっと時間がないんですけど、あと有名なのは、サン=テグジュペリがですね、『ある人質への手紙』[*25]っていうかたちでレオン・ヴェルトに宛てた、レオン・ヴェルトが脱走というか身を隠すために33日間フランスを逃げ回っていた時のことを小説にしてるんですけど、それの序文をサン=テグジュペリが依頼されて。実際には、本が出版されなかったので序文にならなかったんですけど、『ある人質への手紙』というのが、まあこれぐらいのページ数なんですけど。えっと、これもね、すっごい面白くて……、ちょっと待ってくださいよ。まあちょっとバラバラになりますけど、これね、その、ポルトガルのリスボンからニューヨークに向けて彼が出て行く時の話を書いていて、亡命者というのは帰るところがない。だからレオン・ヴェルトは違いますよ、レオン・ヴェルトはフランスに残っているんですから。でも自分も亡命者なんです。で、リスボンの町も、それから亡命者たちも金を持っている人間。ポルトガルのリスボンも、まだ戦争とは無関係なようなふりをしている町だって。パリはもうドイツに捕らわれてしまっているわけですから。でも、こんな表面的な明るさではなくて、みたいなことをいろいろ書いているんですけど。

 私たちを助けてくれるような友人はすぐ見つかる。

 ま、サン=テグジュペリにとってもそうです。アメリカに行ったらアメリカの人たちがいろいろ、助けてくれる人もいました。

 だが、助けを求められる人間になるためには時間がかかる。

 分かります? 助けてくれるような友人はいくらでも見つかる。でも「助けてくれ」と言われるようになる、ケアで「すいません、看護婦さん」とか「これしてくれませんか、これ助けてくれませんか」って言われるのには、助けを求められる人間になるためには時間がかかるんだ、ってなことが書いていあります。

 [*24] 『城砦』:“Citadelle”、サン=テグジュペリ著、1948年出版、未完(日本語訳:サン=テグジュペリ著作集6~8、山崎庸一郎訳、みすず書房、1985~1986年出版)。
 [*25] 『ある人質への手紙』:“Lettre à un Otage”、1943年出版(日本語訳:『サン=テグジュペリコレクション6 ある人質への手紙』、山崎庸一郎訳、みすず書房、2001年)

きみは旅人にたずねるようにわたしにたずねる

 それで、次のこともそうですけど、

 友人が友情の権利を要求するようになるためには、長いこと親交を結ばなければならない。

みたいなことも書いてあって、後ろのほうですけどね、もっとこう印象的なことがいっぱいあるんですけど、平和というのも、「僕にとっての平和っていうのは抽象的なもんじゃなくって、ヴェルトと川べりでね、川辺のレストランで食事をした、あの時の風景一つ一つをもう一度取り戻すことだ」みたいなことを書いているんです、この中に。「そのときの君の微笑みっていうものをもう一度この世に現すことが私にとっての平和なんだ」みたいなこと書いたりだとか。それから、スペインで、もうなんかいきなりね、銃を突き付けられて、言葉は通じないのに。で、サン=テグジュペリは逮捕されるわけです。どうなるかと、もうほんとうに怖くて怖くて仕方がなくて、自分が煙草を吸いたいと思った時に煙草を吸っている人に「煙草欲しい」って言ったら、相手が急にニコッとした、って、その微笑み一つでガラッと変わったみたいなことをいろいろ書いていて。微笑みというものが持つ、人間の絆の中で持つ意味のことをものすごく美しい文章でいっぱい書いているんですけど、友情もその微笑みとね、結びつけて書いてあります。
 そこのところをちょっと読みますけど。まあちょっと前から読もうかな。えっと、「きみは」、きみはっていうのはこれ、ヴェルトのことを言っているんですけれど、

きみはわたしのうちに、素直に《人間》を見てくれる。きみはわたしのうちに、個人としての信仰と、慣習と、愛とを代表する大使を認め、それに敬意を払ってくれる。

って、難しい言い方ですけど、「敬意を払ってくれる」。

たとえきみと異なっていても、わたしはきみを侵害するどころか、きみを豊かにする。きみは旅人にたずねるようにわたしにたずねるのだ。

 ここ、いい文章だと思います。

きみは旅人にたずねるようにわたしにたずねるのだ。

 だから何でも知っているどうし、っていうんじゃないんですよ、旅人ですから。相手がどこから来てどんな人なのか、どんな経験をしてきたのか、って。知らない人に話しかけるようにして話しかけてくれるって。そして相手が言ったことをそのまま、ありのまま引き受けてくれるということです。だから友情というのは、旅人のようにお互いに尋ね合うことだっていうことなんですね。
 で、

 みんなとおなじように、自分が認知されたいという要求をいだいているこのわたしは、きみのうちでは自分が無垢なものに感じられる。だからきみのほうに赴くのだ。わたしは自分が無垢になれるような場所に行きたいのだ。あるがままのわたしについてきみに教えたものは、わたしのきまり文句でもなければ、私の振る舞いでもない。あるがままのわたしを受け入れてくれたからこそ、必要な場合、それらのきまり文句にたいしても、それらの振る舞いにたいしても、きみは寛大になれたのだ。わたしはいまあるがままにわたしを迎え入れてくれることをきみに感謝している。わたしを裁くような友人ならどうしたらいいというのか? 食卓に友人を迎えたなら、わたしは座につくように懇願するし、もし彼がびっこをひいているなら、舞うように命じたりはしない。
 友よ、息がつける山頂を必要とするように、わたしはきみを必要としている! もういちど、ソーヌ河の岸辺で、建てつけの悪い板張りの小さな旅籠の食卓に、きみとならんで肱をつき、ふたりの水夫を招き、陽の輝きにも似たほほえみの安らぎのなかで、いっしょに祝杯をあげることが必要なのだ。

ということですけど。レオン・ヴェルトとサン=テグジュペリの友情というのはですね、だからいわゆる同士愛ではないんですよ。男女間の愛情でもない。で、こういう友情というのは何なのかといえば、愛情以上にひょっとしたら友情というのは謎が多いものかもしれないって。
 それで、『星の王子さま』は、ケアの物語として読むこともできるんですけど、友情の物語として読むこともできるわけです。パイロットと王子との年齢差はかなりありますけれども、ヴェルトとサン=テグジュペリとの年齢差ぐらいです、恐らく。そんなに年老いたパイロットじゃない。だから下手をすると、ヴェルトとサン=テグジュペリの関係、それからパイロットと王子の関係っていうのは、二重写しになってるかもしれない。そうやって考えていくと、キツネとの話もそうです。友情の物語なのかもしれない。
 この友情ということをどう考えていくのかっていうこと。まあバラとの関係は、たぶん友情じゃないんですね。あの、うん、友情ではないと思いますけど。この友情についても、いろんなことをこれから考えていきたいと思うんです。あの、これは釜ヶ崎という大阪の西成区、あいりん地域と言われているところで活動している本田哲郎[*26]神父さんという人から聞いたことがあるんですけど、まあヨーロッパにはね愛には三つあると。アガペーといって、母から、神から人へというような、全能の者が、まだできていない、できない者に対する愛情。母親が幼子に対するような愛情といってもいいかもしれません。そういう「上から」包み込むような愛情のアガペーと。それからエロスというのは、自分にないものを持っている人に惹かれるっていうね、そういうエロス的な愛情と。もう一つはフィリアっていって、これが「友愛」と訳すんですけど、友なんですね。で、友というのは、自分に愛する力があるから、相手がそれを求めているから、という感じでするアガペーでもないし、お互いが自分にないものを求めて「一緒になりたい」というような、そういう気持ちで強く惹かれるものでもない。「友愛っていったい何なのか?」といったときに、「好きでなくとも大切にすることだ」と本田哲郎さんは言うんですね。目の前にいる人を大切にするということ。「自分に何か力があるからその人のためにしてあげよう」と思うのでもなく、それから「相手が自分にとって非常に大切な人だから、大好きだから、この人がいなかったら自分は生きてる意味がないから」というんで相手に近づくわけでもなく、「ただ目の前にいる人を大切にする」。「それが友愛だ」というんですね。このサン=テグジュペリとレオン・ヴェルトの関係は、本田神父さんが言っているような友愛とまるっきり一緒ではないですけれども、でも同士愛でもないしね。お互いの文筆家としての能力を認め合って競い合うような関係でもないんですよ。で、ヴェルトが年上だから何かいろいろ助言する関係でもなくて、やっぱり友愛的な、友情の関係なんですね。その友情の関係というものを、この『星の王子さま』の中でこれから……王子と飛行士の関係だってね、これ普通なら絶対に友だちにならないような出会い方やし、関係の結び方なんですよ。普通やったら嫌んなる、相手がね。これからどんどん読んでいきますけど、「こんな人と付き合いたくない」と思う、王子であったり、パイロットであったりするわけです。

 [*26] 本田哲郎:ほんだ てつろう、1942年台湾生まれ、カトリック教会の聖職者。1965年上智大学神学部卒業、フランシスコ会に入会する。1989年大阪市西成区あいりん地区の社会福祉法人ふるさとの家施設長、98年退任。91年より大阪釜ヶ崎にて、日雇い労働者にまなびつつ聖書を読み直し、また「釜ヶ崎反失業連絡会」などの活動に取り組んでいる。

「おとな」とは?

 で、「おとなたち」についても、これから出てきますけど、よく言われるのは「純真な王子が大人たちの醜さを暴きだしている、風刺的なところだ」というふうに読まれるんですけど、「ちょっと待ってください」っていう気がする、僕はね。そうじゃなくて、これを王子の成長物語に読み替えることもできるんです。通常は「おとなたちってほんとに変だなあ」というのは、純粋無垢な子どもの、子どもの心を持っている王子が大人の欺瞞を暴くっていうふうに読みますけど、それはたぶんちょっと浅い読み方だと思うんですね。子どもになることが大事じゃないんですよ。この献辞、分かりにくいですけど、やっぱりこれはね、大人に捧げてるんです。レオン・ヴェルトに捧げているんです。友情の関係を持ったのは37歳からですから。だから幼い頃のレオン・ヴェルト、少年だった頃のレオン・ヴェルトというのは、サンテックス[*27]にとっては世界で一番の親友でも何でもない。でも何でここにかえるのか、っていうことです。ここに秘密がある。目の前にいる、自分より22歳上、今50何歳、60歳近くなってフランスのあちこちを、親ナチス派の目から逃れるようにして、飢えと寒さに震えているかもしれない、いつ死ぬかもわからないという、そういう友人のことを思いながら、でも、もう一度「子どもだったころのレオン・ヴェルトに」と言ってるのがどういう意味なのか。単純に「大人対子ども」の二項対立で「子どもの側がえらいです」っていうふうにはなっていないです。ここでやっぱり捻れているでしょ? 「レオン・ヴェルトに」と言いながら、あの、「少年だったころのレオン・ヴェルトに」ってなっているんですけど、最初っから子どもが大事だと思ったら、こうやっているんですよ。「少年だったころのレオン・ヴェルトに」と、一度ひねってある。このひねってあることの意味が何なのか、ということを考えないとだめなんですよ、本当は。子どもが大事だったら、最初から「子どもに捧げる」でいいんですよ。でもそうじゃないということ。これ、そんなに簡単に分からないんですけど、これから惑星間、最初のほうですね、パイロットの昔語りから大人たちの小惑星の旅のところで、大人と子どもっていうかそういう議論がどんどん出て来ますけど、そのあたりで少しずつ、少しずつ、分かってきます。

 [*27] サンテックス:サン=テグジュペリの愛称。

 みたいなことで今日はおしまいにしたいかなと思います。ぜひともみなさん、声に出して読むことと、それから、できれば絵を写すぐらいのつもりで。それをね、今度は僕の課題にもしたいなと思っています。西成で「落書きの会」という集まりがあって、いろんな、何て言うんですかね、円空さんの真似をして円空彫りをしたりだとかね、それからなんか素敵な絵を模写するみたいな会を、別に絵画教室でも何でもないんですけど、そうやってやっている活動の中からいっぱい見えてくるものがあって。「何でこんな子どもみたいなことしなきゃいけないのか」って半分思ったんですけど、「これ円空彫りって言わなくてもいいじゃん」と思っても、それをやることでやっぱり見えてくることがいっぱいあるんですよね。真似するとか書き写すとか、今僕たちはものすごい馬鹿にしているんですよ、ものすごい時間かかるから。時間がかかるから、コピーしちゃうんですよ、すぐね。コピーするどころか、もう検索をかけたら情報はいくらでもあるからっていうことで、自分で書き写したりだとか自分で声に出したりだとかっていうふうに、自分の体に刻み付けるようなことほとんどしていないんですけど、でもそうしない知識というのはやっぱり役に立たないと思いますよ。『星の王子さま』を読む時に、どこか一つでもいいですから、それをしていきたいなと僕は思ってます。で最近は、少なくとも日本語は書き写していきます。絵はまああの、今度までにやってみようかなあ、みたいな。はい、こんな感じでございます。終わり。

おわりに

長見:質問とかいいの?

西川:別にいいですよ。

長見:じゃあどうぞ、ご質問のある方、どうぞ。

西川:ご質問というか、「違うやろ」という意見もあるやろしね。

長見:ご意見も、ご要望も、どうぞ。

西川:もっともっとゆっくりやっていいんなら、このね、『ある人質への手紙』なんかを、すっごいいいシーンがいっぱいあるんで、そういうの丁寧に紹介したりとかするとまあいいかなと思うんやけど、でもあまりにやるとね。でもね、ここはもうさらっと読み流すのが普通なんですよ。で、レオン・ヴェルトについて調べようがなかったんだから、ほんとに。まあこれが出た時点で、知っている人はやるかもしれない、よほどオタクでないとここまで読まないですもんね、サン=テグジュペリの著作集やとかね。
 で、こういうレオン・ヴェルトの本の一部が出版されて邦訳されて、やっと近づくことのできることもいっぱいあるわけで。でもそれを知るとよけいにね、ああって思いますよ。この後、王子が星に帰るっていうあたりもね、このレオン・ヴェルトとサン=テグジュペリの関係だとかをきっちり知らないと、やっぱり読み解けない部分もある。単なるバラとの話だけじゃないんですよ。何でこれを慰めのために書いたのか、忘れちゃだめなんですよ、絶対に。「この人を慰めるためにこの本を捧げる」って言っているんですから。子どもたちを喜ばすために書いているんじゃないんです。「このレオン・ヴェルトを、どうしても慰めなきゃいけないから書いた本だ」って言ってるんです。だからレオン・ヴェルトがどんなことで苦しんでいたのか、その苦しみを癒すものはいったい何なのかって。いまだに僕たちの生きている社会には、世界には、「レオン・ヴェルト」がたくさんいますよ。この世界の中でどうしても慰めなきゃいけない人たちは、たぶんいるんです。でもその秘密っていうか、それがここにあるのか?って、そういうつもりで読めば、また違ったふうに見えてくるかもしれない。大きな意味での、なんかケアって言ったって、そういう医療だとか介護だとかっていうそういう狭い世界の話じゃなくって、人が人と共に生きるっていうこと、微笑みと安らぎの中で、っていうことですよね。みたいなふうにして読んでいくと、どんどんどんどん面白くなってくるかなって、思いますけど。
 あの、これがね、サン=テグジュペリの生涯を一番読みやすくした絵本だと思います。で、評判はいい人なんですよ、ピーター・シス[*28]っていうね。ちょっと眺めてみてください。
 ちょっと煙草吸いに行っていいですか? いったん休憩しようよ。

 [*28] ピーター・シス:Piter Sis、1949年旧チェコスロバキア、ブルノ生まれ。美術を学びアニメ映画の作家となった。現在はニューヨークに住み、絵本作家、イラストレーターとして活躍している。2014年にサン=テグジュペリの生涯を描いた“The Pilot and the Little Prince”を発表(日本語訳:『飛行士と星の王子さま』、原田勝訳、徳間書店、2015年出版)。

(休憩)

西川:……ちゃんと、忠実にやってるんです。だから昔の、岩波少年文庫だともう白黒だし、話にならないの。それで、位置が違っていたりするやつもあるんだよ。そんなことを書誌学的に調べている人いるんだよね。

N:横書きのテキスト前提で書いていますもんね。

西川:そうそう。だから「横書きにしなきゃだめだ」っていう人もいるんだよね。石井何とかっていう人だとかね。だから翻訳者にはそれなりのなんかこだわりがあって、出版社が受け入れたらそうなるし、みたいなね。いろいろあります。だから、出版社とはかなりやりあったよね、サン=テグジュペリってね。

A:あの、「慰める」っていう言葉のこの、海外の人が使う「慰める」と日本人の「慰める」っていうの違いみたいなのも、ちょっとなんか気になってます。

西川:フランス語が分かんないんでね。これやな。これ分かる? 彼は、だから、これでしょう? これでしょう、たぶん。どうなってるんでしょうね? みたいなことをいろいろ考え始めると、すごいこう、やらないといけないけどね。

A:うーん。だから、日本人が日本人に対して「あなたを慰めるために書きました」って、なんか言えるのかなっていうか、なんかそういう感じはする。

西川:活用が分かんないからね、これ。これやね、consoler(コンソレ)、「人を慰める」、で何々でって言うか、「悲しみを癒す」「和らげる」とかっていうふうに訳されているんで、辞書的に見たら、まあこうなんやね、やっぱしね。「何を言っても彼の失敗は慰めきれない」とか、「この知らせで私の悲しみが和らいだ」とか、「時が悲しみを癒してくれる」とか。で「立ち直る」ってこと。「立ち直る」は再帰動詞的に使う時です。だからまあ「慰める」「元気を出す」とかって、そういう意味の言葉でしょうね。

A:ああ、なるほどね。

西川:だから、あのー、まあサン=テグジュペリは友情において、その、レオン・ヴェルトも書いてますけど、サン=テグジュペリは結局最後、行方不明になっちゃうじゃないですか。「でも彼は死んでない」「って思わないとだめだ」みたいなこと書いていたりとかね。あのー、だから、この場合もレオン・ヴェルトの消息についてはちゃんと詳しく分かっていないですよね。分かっていない時に何を慰めに……、『星の王子さま』の物語のどこに慰めがあるのかって、ちょっと分かりにくいっちゃあ分かりにくいんですよ。まあ最後のほうなのか、どうなのか、とかね。

N:西川さん。これ『星の王子さま』に固有人名が出てこないっていうのは、なるほど面白い着眼点だなと思ったんですけど。固有人名は出てこないですけど、固有名詞は、固有概念はいっぱい出てきますね。地名はすごいいっぱい出てきますよね。

西川:ブラジルとか中国とか。

N:地名は詳細に出てくる、一番初めのサハラ砂漠とか、惑星もなんか番号つけてあったりとか、トルコ、アフリカとか。地球に最初に来たところも、緯度による日照時間の説明とかすごい詳細に書いてたりとかね。人物の名前がないのに対して、地名のほうは実在の地名とか地理的な把握とかごく詳細に書いてます。なんかそこらへんもたぶん意識がなんか、あるんでしょうね。

西川:まあ考えたら面白いですよね。「数字嫌いだ」とかっていろんなところに出てくるんですけど、何の事はない、サン=テグジュペリはめっちゃくちゃ数学好きでね。高等数学をパズルのようにして解いて楽しんでいたっていう話もあるし。実験精神が旺盛なやつで、いろんな特許を取ったりだとか、いろんな実験をやったりとかね、結構理系の人なんですよ。当たり前っちゃ当たり前ですけど、パイロットですからね。

N:話のね、知的な***に対してのこともね、地球のね、地理の把握の仕方とかすごい詳細に書いてますもん。この文脈の中でこんなに細かく書かないといけないのかなと思うぐらいね、南極と北極はとか、

西川:ただ、ここらへんもね、いっぱいね、わなが仕掛けられてあって、また今度お話ししましょう(笑)。さらっと読むと、ほおーと思うんやけど、実はわな仕掛けてあるんですよ、いっぱい。

N:ふーん。

(雑談)

西川:トンパ文字[*29]みたいだな。

 [*29] トンパ文字:中国のチベット東部や雲南省北部に住む少数民族の一つナシ族に伝わる、象形文字の一種。

長見:ほんとバカなもん買って、もうほんまに(笑)。

西川:いや、いいじゃないの(笑)。これコンピュータでやったら簡単にできるんじゃないの?

長見:あ、でもなんか挿絵違うね。そんな感じしない?

N:違いますか?

長見:大きさが違うよ。

N:で、その英語自体も新しい翻訳らしくて、後で調べたらちゃんと英語のやつもあるみたいなんですけど、長見さん。

長見:よりによってこういう本を選ぶなって。

西川:いや、いいんじゃない(笑)。いいんじゃない、なかなか。

N:その間4冊買いましたけど、違う、2冊買いましたけど、英語版まだ必要なんですか?

長見:いや、もういいけど(笑)。南田辺に2冊忘れてきちゃった。

N:そうなんですか。今、僕、英語版2冊持ってますけど。

長見:それも回したら?

N:いいですか?

西川:まああの、ほんとにね、『星の王子さま』についていろんな解釈本はあるんですけど、面白いですよ。みんなそれなりに自分の読みをこうね、際立たせるために、「永遠の少年論」とかもあるし、ユング心理学[*30] を使ってね、王子の精神病理的なことを書いたりだとか。それから「モラルハラスメント[*31]の罠にかかった被害者だ」っていう読みをする人もいる、大阪大学の人なんですけど。まあそう言われりゃそうだよなっていう感じがするんやけど。キツネとバラにね、こう何か追い詰められてとうとう自死しちゃったみたいなね。まあそう読めなくもないけどなあ、みたいな。いろんな読み方があるんですよ。

 [*30] ユング心理学:スイスの精神科医・心理療法家であったカール・グスタフ・ユング(1875〜1961)が創始した深層心理学理論で、心理療法理論。
 [*31] モラルハラスメント:フランスの精神科医、マリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した言葉。暴力はふるわず、言葉や態度で嫌がらせをし、いじめること。精神的暴力。精神的虐待。

J:これも借りて帰れるんでしょうか? それとも回収でしょうか?

西川:どうなんでしょうか? 回収ですよね?

J:これは借りれるんでしょうか? 回収でしょうか?

長見:あ、いやいや、だから、持ってない方は、そのまま貸出しっていうかたちで構いませんし。

J:あ、ありがとうございます。

西川:太っ腹ですね。

長見:買っていただけるんだったら、ここで清算します。

J:じゃあちょっとお借りします。

長見:どうぞ。

西川:いやほんっとにね、もしかしたら分かることがいっぱいあるんですよね、これね。うん。
 どうでしたか、高校生の皆さんは。まだ読んでいなかったら何ともあれやろうけどね。ふふ。

長見:ちょっと硬かったんじゃない? ちょっともうストップかけようかなと思った(笑)。もう分かんなかったでしょ? 終わりのほうとか。分かった?

西川:うん、分かんないだろうな。俺もよく分かんないもんな。友情って何でしょうね? 一番考える頃だよ(笑)。「私にとって友情とは」みたいなね。大人の間は結構考えないんじゃないの?、仕事やってる時は。仲間は大事だけど、別に友情はいらないんだよ。仕事辞めちゃうと、「あ、自分には友だちがいなかった」って気づくんだ(笑)。ほんとうに。

長見:いやほんとだって。俺なんかもう、仕事辞めて15年ぐらい友だちなしだったね。やっとこの人ぐらいが(笑)、友だちになったけども。この頃ね、辞めた時までの友だちが復活して、あんなふうになるんだけどね。

西川:そうだよね。だから離れないと友だちになれないよね。

長見:そう、そんな感じね。

西川:離れないと。

K:仕事してると、どんどん友達じゃなくなってきますよね。

西川:友だちじゃなくなってくるよね。そう、そうなんだよね。何なんでしょうね。えーっとあと、あれ誰だっけ、アーレントじゃなくって、シモーヌ・ヴェイユ[*32]か。シモーヌ・ヴェイユが、すごい仲の良かったっていうか師弟関係にあった人とやっぱり離れるんですけど、離れる時に、「私たちは別れるから、これからどんどん距離が生まれてくるでしょう。その距離を友情に編み直す」っていうね、別れの言葉を置いていってる。なんかね、うーん、そうか友情ってのはそういうものか、みたいなね。本当にその相手といるから楽しいだとか、相手のためになんとか、とかではなくて、たぶん恐らくレオン・ヴェルトとサン=テグジュペリの友情も、最後会ってから以降のその二人の思いの中で、友情ってどんどんどんどん固くっていうかね、なってくるんですよね。

 [*32] シモーヌ・ヴェイユ:Simone Weil、1909〜1943、フランス、パリ生まれ、哲学者。第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した。戦後、残されたノートの一部が知人の編集で箴言集として出版されるとベストセラーになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。

 あの、単純にこうなんか……。やっぱりね、サン=テグジュペリってこれだけ友情っていうものを考えてるわりには孤独癖の人で(笑)。高度4,000メートルのその飛行機の中でたった一人になることっていう、で、サハラ砂漠で何年間もたった一人でいてたりとかっていうね、その孤独と、それから友愛とか友情っていうものと、やっぱりねものすごくね、まあ言うてみればこうかけ離れたもののこう、なんかね、つながりみたいなのがね、いろいろ見えてくるんですよ。だから、さらっとこう、「こうこうこうで、王子はこんなことがあって、こんなことがあって、こうなりました」っていうその出来事だけをバーっと並べていくと、「死んじゃったのかよ」みたいなね、「これ、救いのない話やん」ってなるんよね、「子どもに読ませてどうすんの」みたいなことになっちゃうんやけど。ほとんど自死に近いですから、あの、蛇に噛ませてっていうことやから。それこそ「モラルハラスメントで自死に追い込まれた」みたいな読み方もできるんですけれども。
 でも、そういう孤独だとか別れだとかっていう、こう目に見える出来事の、その背後とは言いませんけど、が際立つのはいったい何なのかっていうときに、この友情だとかケアだとか愛だとかっていうものがやっぱり出てくるんだよね。うん。そこをこう、どうやって読むかっていうと、やっぱり別れたことがないと、なかなか読めなかったりするんだよね(笑)。だからそう言う意味では、あの、子どもには読めない部分はいっぱいあって、人生の分しか読めないというところはあると思いますけどね。だから、慰めを必要としてる人には、これ、渇きを癒す泉になるんです。だから、渇きも何も持ってない無垢な子どもが読んでも、「は?」みたいな感じになっちゃうと僕は思うんですよね。だからそう言う意味で、子どもの時読んでもなんか分かんなかったけど、何かだんだん、何か気になってくるって。で、どんどんどんどん、自分ではどうしようもなかったような人生の様々なことを経験していく中で、でも、簡単に大人としてそういうことをこうスパッと諦めきれないみたいな、そういうこう、もんどり打つような気持ちになったときに、『星の王子さま』を読むと、なんかちょっと変わってくるようなね、そんな気がします。
 ケアっていうのもある意味では、誰かの苦しみなり悩みなりっていうものをこう、間においての人と人とのつながりやから、やっぱりね、単純な「いいことしてあげた、良くなった」っていうような話ではないんでね。そこらへんがなんかやっぱりケア論として読むときにも『星の王子さま』って大事じゃないかなって。だから問題解決としてのケア技法が上がるわけでは決してないです(笑)。「解決できない、どうしようもない、慰めなきゃいけない」みたいなね。もう『星の王子さま』から離れていいんじゃないですか?(笑)

長見:何か特にご質問とか。あ、いくらにしたらいいかな。Nさん、いくら、1冊いくら?

(本の値段に関するやり取りなど)

西川:でもこれね、『星の王子さま』じゃなくって、『星の王子さま』って訳してるのの功罪がやっぱりありますよね? 思いません? 『星の王子さま』でずーっときてるから、『星の王子さま』ってなんとなくファンタジックな感じやけど、そんなにファンタジーないもんね。ものすごくこう、やっぱりあの、ヒューマニストっていうか、フランスの伝統的なね、そういうこう、風刺も効いてるし、謎めいてるし詩的やし。そんな簡単に分かるような話じゃないですもんね。このPetitだって何なのかなって。

(再び本の値段や請求等のやり取り)

西川:所有についてまた書いてあるからね、『星の王子さま』ね(笑)。まああの、このテキストだけで読んでいっても、なかなか分からないところがあったりするんで、それはそれでサン=テグジュペリのいろんなエピソードだとか含めながら、それから他の作品にまで手出していくと、どうしようもなくなるような気がするんですけど、『人間の土地』[*33]って本とか、『城砦』は必ず読まなければいけないって言われるけど、読めないですよ、あれ。『星の王子さま』と並行してずっと書いたやつがあるんですけどね。誰か気合の入った人、できたら読んでほしいですけど。

 [*33] 『人間の土地』:“Terre des Hommes”、サン=テグジュペリ著、1939年出版(日本語訳:①堀口大學訳、新潮文庫、1955年出版、②『サン=テグジュペリコレクション3 人間の大地』、山崎庸一郎訳、みすず書房、2000年出版、など)。新潮文庫(1993年の新装改版~2012年の再改版まで)のカバーイラストは宮崎駿。

J:西川先生、ありがとうございました。お先に失礼します。

西川:はい、おつかれさま。
 だからある意味ではさ、サン=テグジュペリの絵をそのまま出さないような出版社っていうのはさ、おかしいよ。出さないほうがマシなぐらいだよ。半分切って出してるもんなんだから。

B:へー。

西川:だってそうでしょ? この絵、「この色合いで、この位置で」って一生懸命考えてんのに、鯛を半身にして、それでなんか一匹だって売ってるような、インチキ商売なわけじゃない?

B:確かに。でもそう見ると色も全然違うんですね。昔のと、ほんとに色が違う。

西川:岩波のはいつ差し替えたのかな、あれ。だいぶ後ですよ。新訳ラッシュが来るちょっと前のでしょ?

B:だからきっと古いほうの、もうちょっとはっきりしたかな、なんか色が違うんですね。

西川:それとかね、あのね、望遠鏡でこうトルコの学者がやってるとこあるじゃないですか、あれなんか星の位置が違ったりとかね。

B:へー、すごい(笑)、

西川:かなりずさんなんですよね。っていうことをまたいちいち調べる人もいるんだなあと思って。まあそれは書物に対する愛というか、何というか。出版という装置が入ることで、やっぱり変わってしまうっていうか。変わってもそれが流通すると、著者の書いたものが力を持つわけですからね。

B:うん、そうですね。

西川:複製の複製で。

J:お先に失礼します。

西川:はいお疲れ様でした。

E:サン=テグジュペリさんが一番望んだ本の大きさってどんななんですか?

西川:それはちょっと覚えてませんねえ。

E:これは小さすぎなんですか。

西川:だってね、もともとね、見ていないんだよ、彼は。タイプ印刷しか持っていない。持たずに、うん、死んじゃった。

E:***が重要ならもう少し大きいほうがいいのかなと思って。

西川:ああ、いっぱい出ていますよ、フランスからね、でかいやつからいろんなもの。まあ少なくともこれ、ポケットに手を入れているかどうかぐらい分かるような大きさにしてほしかったんじゃないの。僕はポケットに手入れていると思うんですけど、どうですか?

B:言われると「そうか」と私は思わず…、そうだったんだって、分からなかったです。大きな本はどうだったのか。でも言われるとそんな気がしますけど。

西川:だってこっちはこんな小さいのでも、指とか見えるじゃないですか。

B:うん、確かに。きっとそうですね。

西川:だからポケットに手を入れてるって。

B:なるほど。

(第1回終了)

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