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第16回ケア塾茶山 『星の王子さまを読む』(2018年12月12日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表)


はじめに

A:今日は地理学者でしたっけ?

西川:そうです。まあぼちぼち山場になりますね。

西川:今まで、一日でまあ一章というかずつ進んでいけたけど、これからはちょっと無理かもしれませんね。今日、CDかけるやつあるかな?

C:ありますよ。

西川:
 最初ゆるーく始めましょか。僕も出てくる前に聴いてきたCD聴きましょう。10分ぐらいしかないんで、ちょうどいいかもしれない。気にせずに聴いてみてください。これは最近出た『美智子さまと星の王子さま』という今年の11月に出たばかりの本と関連があります。星の王子さま関連でも一番新しい本かな(2018年12月当時)。美智子さんが内藤濯の短歌にメロディーつけたやつを、鮫島有美子っていう歌手が歌っています。ちょっとナレーションも入ってますね。

B:内藤濯の娘さんが解説文で書いてましたね。

西川:聴いてみてください。

[CDをかけながら、雑談]

西川:
 内藤濯が、最初に『星の王子さま』”Le Petit Prince”(ル・プティ・プランス)を日本語訳したんですけど、最初は岩波少年文庫から出版しました。色も何にもついてなかった。子ども向けの本と思われていて、その頃はそれほど売れてなかったんですけど、愛蔵版でカラーになったとたんにいろんな人が読み始めて売れるようになりました。

 これを内藤濯が美智子さんに献上したわけです。美智子さんはすごく喜んだそうです。この間も一度聴いてもらいましたが、フランスでジェラール・フィリップが吹き込んだ『星の王子さま』の朗読劇のLPを美智子さんが内藤濯に送ったりして。もちろん、皇室とのやり取りなんで、女官さんが来てみたいな感じだったみたいですけど。

 そうやってるうちに「星の王子さまの会」というのを内藤濯がやり始めます。結構有名な人たちがいろいろ入って、そこに美智子さんもお忍びでやって来る。そうなると、やっぱりみんな美智子さんに会いたいから、余計な人もたくさん来るようになって、内藤濯が怒って「もうやめ」となってしまったらしいです。

 ちょうどその頃『星の王子とわたし』という随筆をまとめた本が出版されます。これに内藤濯が短歌を作ってるんです。

いずこかに かすむ宵なり ほのぼのと 星の王子の 影とかたちと

 うまいかどうかわかりませんけど(笑)、彼は端書きで「誰かが歌にしてくれたらな」と書いていたわけです。それを読んだ美智子さんが自分でピアノ弾いて自分で歌ったテープを内藤濯のところに送ります。プリンセスミチコっていうバラの花と一緒に。内藤濯はそのころ80歳くらいですね。

 とにかく美智子さんと内藤濯との間にはそういう交流がありました。最近、内藤濯の息子とかがいろいろ本を書いたりとかして、そういう話が有名になってきたんです。まあそれだけのことなんですけど、最近出た本だし、話題にしてみました。値段はするんですけど、美智子さんのファンだったら買うかな。

E:うーん、そうですね。それだけ美智子さんは『星の王子さま』が好きだったんですね。

B:最近、皇室関係の本が元号が変わるタイミングでいっぱい出てますね。


6番目の星、地理学者

西川:
 さて、今日は16回目ということで。もう星めぐりも大づめで、六番目の星になりました。

 六番目の星は、それまでの星より十倍も大きな星でした。老人が住んでいて、その老人はとてつもなく大きな本を書いていました。

「おや、探検家が一人やって来たぞ!」と、老人は、王子さまを見るなり、大声を出しました。
 王子さまは机の上に腰をおろして、一息つきました。王子さまはもう、それほど長旅をしてきたのです。
 「どこから来たのかね?」と老人は王子さまにききました。
 「この分厚い本はなんですか?」と王子さまはたずねました。「ここでなにをしているんですか?」
 「わしは地理学者じゃよ」と老人は答えました。
 「地理学者っていうのはなんですか?」
 「いろいろな海とか、河とか、町とか、山とか、砂漠とかが、どこにあるかを知っている学者じゃよ」
 「なんだか、おもしろそうだな」と王子さまは言いました。「やっと、ほんとうの仕事というものにお目にかかったわけだ」そう言うなり、王子さまは自分のまわりに目をやって、地理学者の惑星をざっと見渡しました。こんなにりっぱな惑星を、王子さまはついぞ見たためしがありませんでした。

 いろいろ回ってきて、六番目に「十倍も大きな星」ということですね。また老人が出てきます。老人が出てきたのは最初の王様と、どちらかと言うと飲んべえもですね。

 ここは挨拶がありません。「おとなたちって変だな」とずっと言い続けてたのが、このあいだの点灯夫ではどちらかというと「親友にしてもいい」というぐらい、若干感じが変わってきたわけです。この六番目の地理学者も、変っちゃ変なんですけど、王子は別にほとんど批判していませんね。それどころか相手に相談して地球に旅立つことになるんです。ちょっとそこらへんを考えながら読んでいきましょう。

 しかし、「王子さまは机の上に腰をおろして、一息つきました」っていうのも、すごいと思いません? 最初の頃は、王様のとこ行くときには「座っていいですか」みたいに結構緊張してたのにね。もういろいろ大人見てるうちに結構図太くなったというかね、なんかそんな感じしますよね。いきなり本書いてる机の上に腰をおろすって、なんと無礼なやつやと思いますけど(笑)。まあその理由は「それほど長旅をしてきたのです」ってさらっと書いてありますけど。

 「どこから来たのかね?」っていう問いに「この分厚い本はなんですか?」って。もうまったくのディスコミュニケションです。最初はまだ、何て言うか、「おや、探検家が一人やってきたぞ!」みたいな感じで、「これから聞いたろう」と思っているわけです。最初もういきなり「どこから来たのかね?」と老人が聞いているんですけど、それに対して王子さまも向こうのペースに全然飲み込まれずに反対に質問するという(笑)。まあ、どっちもどっちですよね。普通の礼儀から外れたような出会い方ですね。

 あとは「地理学者っていうのはなんですか?」に対して「どこにあるかを知っている学者じゃよ」と返してます。この「知ってる」っていう言葉です。今日は中心に考えたいのはこのことなんです。あとでもうちょっと出てきますから、続けて読みます。

 「なかなか美しいですね、あなたの惑星は。この惑星には大洋がいくつもあるんですか?」
 「それは、わしには分からんな」と地理学者が答えました。

 さっき「どこにあるかを知っている学者じゃ」とか言っておいて「それは、わしには分からんな」って。”I could not tell you.”って英語の訳ではなってました。

 「はあ?(王子さまはがっかりしました。)で、山はあるんですか?」
 「わしには分からんな」と地理学者が答えました。
 「町とか、河とか、砂漠とかはどうですか?」
 「そういったことも、わしには分からんのじゃよ」と地理学者は答えました。
 「でも、地理学者なんでしょ、あなたは」
 「そのとおりだ」と地理学者が言いました。
 「だがな、わしは探検家ではないんじゃ。探検家がほんとうに足りなくてなあ。町や河や山や海や大洋や砂漠がどこにいくつあるか、調査報告をするのは、地理学者ではないんじゃよ。あちこち見て回るには、地理学者は偉すぎるわけじゃ。地理学者は自分の書斎の外へは出ない。その代わり、探検家たちに書斎に来てもらう。探検家たちにいろいろと質問をして、探検家たちの体験談を筆記する。探検家たちのうちに、体験談を地理学者がおもしろいと思う者がいたら、地理学者はその探検家が信用のおける人間かどうか調べてもらうのじゃよ」
 「なんで、そんなことをするんですか?」
 「嘘をつくような探検家がいたりすると、地理学の本に大問題が起こってくるからのう。それにじゃ、酒を飲みすぎる探検家も困りものじゃ」
 「それはまた、どうしてですか?」と王子さまはききました。
 「酔っぱらいの目には、景色が二重になって見えるからのう。そうなると、一つしか山がないところに、二つの山があると地理学者が書きとめてしまうじゃろ?」
 「ぼくは会ったことがありますよ」と王子さまは言いました。「そんな、探検家には向かない人にね」
 「そうじゃろう。だからこそ、探検家が信用がおけるということになったら、今度はその探検家の発見が正しいかどうか、調べるんじゃよ」
 「見にいくんですか?」
 「いいや。それは面倒が多すぎる。そうじゃなくて、証拠を持ってきなさいと探検家に要求するんじゃ。かりにじゃよ、大きな山を発見したということならばな。大きな石をいくつも持ってくるように探検家に言うんじゃよ」
と、地理学者は、にわかに色めきたちました。

 「知ってるのが地理学者や」と言いながら「そりゃわしには分からんな」って言うってところ。「知る」と「分かる」の違いが気になりますよね。フランス語を調べてみたんですけど、どっちもそんなに言葉の意味として明確な区別があるようには思えませんでした。

 「知ってる」「分かってる」という日本語にしても、あまりそんなに区別がありません。「知っている」が単に情報を対象にしていて、「分かる」は「納得」とか「腑に落ちると」か、そういう体験に基づくというような意味にも思えますけど、そんなに区別もハッキリはしてない。文脈的な使い分けだと思います。

「知る」と「分かる」

西川:
 ここの話、どう思いますか?普通は、実践的なところから離れた机上の論理みたいに批判してると読むのが一般的な読み方です。「証拠品持って来い」と、大きな山の証拠が大きな石とか。「そんなん論理的にでもおかしいやろ」とは思うんですけど。

 たとえば、「それは、わしには分からんな」っていうやつ。これなんで「分からん」と言っていると思います?

 背景から考えられることは、自分の星には地理学者が一人いるだけで探検家がいない。だから自分の星についての調査報告を聞けないっていうことです。地理学者自身も見に行かない。だから要するに情報も体験もないわけです。だから「わしには分からんな」と言っているわけです。

 遠いところの話であれば、探検家からの報告を聞いて、それが信用できるかどうかを慎重に調べて、「大丈夫や」と思ったら、「あそこの星にはどんなものがあって」と「それは知ってる」と言っているわけです。

 だから、自分が体験している/してないという意味で、地理学者はここで言ってないはずです。自分が体験してないことって言うんやったら、他の探検者からの報告聞いても「知らない」で一緒ですから。そうじゃなくて、要するに「自分の星には探検家がいないから」ということになってるんです。

 これ考えてみたら、僕たちが「知ってる」と思うこと、たとえば地球が太陽の周りを回っているとか、天動説とか、だいたいこれみんな知ってますよ。「分かってるか?」言うたら「分かってる」っていいますよね。自分が実際に回ってるところを見てるとか、地球が丸いということだって、「これ地球の写真や」と言いますけど、これ自分が撮ってきた写真じゃないわけですよね。自分が大気圏外にいて宇宙空間から地球を見て、丸いっていう姿を見たわけじゃないです。もうそういうことで言うと、僕たちの知識はほとんどこの地理学者を馬鹿にできないようなレベルのものしか、おそらくないんじゃないですか?

 僕たちは「人は必ず死ぬ」と知っています。だってみんなそう言うし、学校でも習ったし。「人は死なない」なんて言うたら、「ええ?」みたいな感じで見られますよね。でも「本当に分かってるか?」って言われると困りますね。「うーん、確かに自分のお父ちゃんは死んだ」とか、「お母さんは死んだ」「あそこの人は死んだとみんなが言うた。それで実際に焼いた」「動けへんようになった」と、要するに「死んだ」というふうに社会が認知してから、そのまあ死者というか遺体に対してなされる様々な事柄が、まあだいたい一緒なわけです。その中で死というものを体験するんですけど、「自分も死ぬんだ」ということを知っていると言えるのでしょうか? 分かっていると言えるのでしょうか? だんたん、ちょっと怪しくなってきません?
 
 このあいだ12月9日に、依頼されて、三重県の障害者施設のスタッフの人に話をしに行きました。ほとんどノープラン。というかテーマもわからない。向こうもね、理事長が「西川さんを呼べ」と言っただけだったみたいで、研修担当の人とか「何聞いてええかわかれへん」と言ってましたね(笑)。

 いろいろ本は読んでくれたみたいで、「『分からないっていうことを大事にしろ』って西川さんあちこちに書いてはるけど、分からないことを大事にすることについて話してほしい」といわれました。

 その内容はここで簡単には言えないけど、たとえば、ある意味で「これ知ってるから大丈夫や」とか「もうお互いわかってるから」と、自分のケアの行為とか、そういうものにある程度根拠を持っていると思っているわけです。自信を持ってやってるわけですよね。

 知っていることが多ければ多いほど、自分のことを相手にわかってもらえる。だから相手のことは自分が分かってる。単に知ってるっていうんじゃなくて、何て言うか、感情的にも分かってるという、共感の喜びみたいなもんが増えたらケアは良くなっていくと、みんな普通そう思ってるわけですよ。

 だから分からない人のケアって怖くてしょうがない。ある意味で、身体的な原因で昏睡状態の患者さんの看護はできるけど、精神科的な問題で混迷状態の、ほとんど昏睡とよく似てるんですけども、その看護はまったくできないとか。知的障害者とかそういう人たちの応答はできるけど、まあ精神障害の人は無理とか。「知ってなかったらできへん」と思っているわけです。

 要するに、自分が仕事のプロとして、ある程度自信を持ってやってることは、みんな知ってる、ないしはわかってることが背景にあるから、やってるいけるわけです。看護教育も、ほとんどの専門職になるときには、普通の人にはわからないことをよりわかるように、普通の人なら知らないことを知ってるようになることが、すなわち能力をつけることだと言われているわけです。

 だからこの地理学者は地理学者として、立派になろうと思ったら、立派になって分厚い本を完成させようと思ったら、色んな探検家から話を聞くことがどうしたって必要なんです。「そんな学問って人から聞くだけでいいの?」って言う人いますけど、学問って基本そうなんです。地理学者なんて、自分が全部見ようと思って、南のほうにどんどんどんどん行ったら、南のほうはわかりますよ。でも自分が行ったところしかわからない。要するに人間の一人の行動とか体験できることは、ほんとに極めて限られたことで、世界全体を相手にしようとするような学問は成り立つわけがない。

 「フィールドワークが大切」と言われている人類学者でも、フレーザーって『金枝篇』[*1]という有名な本を書いた人がいますが、あの人なんかは「安楽椅子の人類学者」と言われていたんです。それに対して「異文化にフィールドワーク行って、そこに住み込んで参与観察をして何年もかけてっていうのが人類学の在り方や!」みたいな情熱を持った人たちがいますけど、それでは「ポリネシア文化の中の一つの島の、そのまた一つの種族のところに三年間かいて」「そしてわかったこと」みたいに、めちゃくちゃ細かくなってくるわけです。

 ただ細かくするだけじゃなくて、民族誌とかいろいろ書いて、そこから見えてくる異文化の特徴みたいなことを抽出していく。だから、これはただフィールドワークじゃなくて、やっぱり考え、思考なんです。その人がそれを特異な文化として認めるためには、他の文化についてのものすごい文献学的な知識なかったらできません。そこしか知らんかったら、もうそこの住民と一緒なんですから。自文化については書けないんですよ。よく知ってるから、よく分かってるから書けるかというと書けないんです。他のことを知らないと比較できない。

[*1] 『金枝篇』:イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書。

 「考える」って「かむかう」って言うんですけど、本居宣長なんかが言ってますけど、「これとこれとを比較する」ということです。だから一つの生活世界、一つの体験っていうか意味体験の中で安全に生きてたらもう、そんな自分のことは考えられません。他に比較するものがないからです。

 そういう意味では他者の見聞っていうものを聞いて、「自分は実際には体験していないけれども」というかたちで、情報を自分の中に知識として取り入れるっていうことも、学問的な関わりとしてはやっぱりどうしても必要なわけです。自分の自文化なり何か対象っていうものを何かと比較対照しようと思ったときには、自分の経験だけでは得られるものはあまりに少ないということだと思います。

 でもそれっておそろしいと言えばおそろしい。どんなに信用ができると言ったって、せいぜいわれわれがやってることは、この地理学者が「大きな山を見たからには、大きな石を持ってきなさい」っていうのとかわりがないのかもしれない。「そんな証拠の出し方があるか」と思いますよね? でも僕たちは「新しい薬ができました! それをココペリが発明しました!」って言ってもたぶん誰も信用できない(笑)。

 でも「東京大学の何とかかんとか」って言うたら、「そうかー」ってなりますよね。「新聞に全部載ってる」って、「そうかー」って。『平凡パンチ』[*2]とかスポーツ紙とか何かに「ココペリが!」とかってポーンッて出ても、誰も信用しないわけです。あ、今、平凡パンチないか(笑)。まあ、要するに「ココペリ茶山が世紀の新薬を発明!」とか言っても、誰も信用しない。

 要するに「大きな石を持ってきたやつの言うことは信用するけれど」というのとほとんど変わらないんじゃないかと思うわけです。 社会的な権威っていうことだけですから。自分が論理的にちゃんとそれを理解できるだけの知識がなかったり。

[*2] 『平凡パンチ』:マガジンハウスが発行していた男性向け週刊誌

 だからこの場合、地理学者は実際はそんな遠いところまでは行かないわけです。そして「わしはえらいから」と思っているわけですよ。なんでえらいかと言ったら、そうやって自分の経験だけに閉じこもるんじゃなくて、いろんな人たちの話を聞いて、ということです。


地理学

西川:
 地理学は、昔、人文地理っていうかたちで、単なる「山がどこにある」とかだけじゃなくて、その地域、地方地方でどんな文化があるのかを研究するという、今の人類学みたいなものの前身で人文地理学みたいなのがあったんです。

 イマヌエル・カント[*3]は人文地理の授業をずーっとやってきた人です。じゃあ、彼がものすごい旅行家かといったら、まったくです。ケーニヒスベルクというドイツの生まれた町からほとんど出ない。毎日、判で押したような生活をしてる。お茶の時間にはいろんな人をお客さんに呼んで話を聞いて、それを書き留める。もうこの地理学者とまったく同じことやってるわけです。

 だから哲学に関してカントは自分で一生懸命考えてぼちぼちやるんですけど、人文地理みたいに世界のさまざまなところにどんなものがあるとかどんな文化があるということになったら、自分が見に行くことは不可能なわけですよね。そうすると、そういう他者の見聞に頼らざるを得ないみたいなところあるんです。でも、われわれも基本そうやってるんです。

[*3] イマヌエル・カント:ドイツの哲学者

 というか、今は更にそっちのほうが圧倒的なわけです。iPhoneが言ったら信用するんですからね。今日も出町柳からここまで歩いてきたんですけど、いつも迷いながらです。だから今までコースはいつもバラバラですよ。でも今日はiPhoneマップの徒歩で行くやつ見たら、いつもと全然違うコースを歩かされましたね。すぐにこうなんか叡山電車の横の側道に入る。これ、たぶん最短距離ですね。いつもだいたい40分ぐらいかかってるんです。でも、今回は出町柳から3、40分はかかった。今日は20何分で着きました。「こいつ、すご」と思いました(笑)。

E:それ、普通の道でした?

西川:うん、普通の道。線路を超えたりまた戻ったりって、ちょっとジグザグになるんですけど。

E:へー、すごい。なんか道らしくない道を通らされたりとか、そんな感じ?(笑)

西川:まあ、徒歩やからね。

B:車やと確かに、車が通れないことを想定してなかったりとか。過去見たことがありますよ。「ナビの案内は間違ってます。ここは行き止まりなんで入ってこないでください」って書いてある道。

西川:
 そんな風に考えていくと、そんなに簡単にね、戯画化しているっていうか、「地理学者ダメで」みたいなね。だからここで別に、そんなにめちゃ批判はしてないですよ。ただその地理学についてのやつは、最初のところにあったじゃないですか。「確かにね、地理の勉強は役にたちましたよ」っていうやつね。9ページ。

地理の勉強はとてもぼくの役にたちましたよ。なにしろ、おかげさまで、一目見ただけで、アメリカのアリゾナ州と中国の違いが分かるようになったのですからね。

真っ暗闇で、どこを飛んでいるか分からなくなってしまったりしたら、なかなか役にたつものですよ、地理という代物は。

 これは皮肉です。でも、世界地図を見た場合、一目見ただけでアメリカのアリゾナ州と中国の違いが分かるようになる。世界地図は学問の世界で必要とされているものです。

 日常生活では、中国とアリゾナ州の区別で迷うことはほとんどないわけですよ。中国あたり歩いていたら、アリゾナを歩いて迷うなんてことがあるわけないはない。だから実生活のうえでは役に立たないわけです。でも、世界地図を初めて見たときに、中国とアリゾナ州がどう違うのか分かるためには地理学の勉強が必要になってくるわけです。

 だから、どちらが優位というか、どちらが劣ってるとかっていう話に、簡単にはたぶんならない。でも、自分たちが、仕事でも何でもいいですけど、まあ人生は難しいかもしれんけど、「仕事のうえでどういうことを知ることが大切なのか、どういうことを分かることが大切なのか」ということももちろん大切なんですけど、「知ってるから大丈夫」とか「分かってるから大丈夫」と思うことのほうが圧倒的に危ない。大事なもう片いっぽうのことを忘れてしまうから。

 現場中心主義になると、世界地図を見てもまったくわからないわけですよ。「そんなん机上の空論やろ」と言って、めっちゃくちゃ狭い世界で生きるしかないわけですね。そうではなく、バーッとこう広がってみると、今度は自分の足元が見えなくなってしまう。

 どちらにしても、本当は「もっと知りたい、今、分からない」っていうことの探求の途上で出会った情報であったり、納得であったりするわけです。だから手に入れたものがゴールになってしまった途端に、もう次に行かないわけです。次には歩み始めないっていうことが一番の落とし穴なわけですよね。

 「知ってるけれども、これほんとかな?」と常に(要するに誤謬可能性って言うんですけど)「間違っているかもしれない」ということを念頭におきながら、いろんな知識をもう一度再吟味するだとかが大事です。 「分かっている」ということも、「これひょっとしたら」、ドクサ[*4]っていうか思い込み、「間違った根拠による思い込みかもしれない」と思って、もう一度、自分の感情とかの根っこにあるものを冷静な目で見直してみる。自分を見つめ直してみる。そう思っている自分を見つめ直してみる。

 知識の場合には「この知識はほんとうに正しいかどうか」ということを、だから違う人たちの論理とか推論と比較対照しながら、やっぱもう一度再吟味するっていうことが必要なわけです。要するに「知ってる」とか「分かった」って思うことが、要するに思考においては自殺行為なんです。停止してしまうから。

[*4] ドクサ:doxa、古希: δόξα 本来ギリシア語で「考え」を意味する語であり、後に様々な意味で解釈された。クセノパネスをはじめパルメニデスやプラトン等の古代ギリシア哲学者は哲学用語として使用し、またロラン・バルト等は文化批評用語としてこの語を用いた。 日本語では、臆見(おっけん)、思惑(おもわく)、思いなし等と訳され、「思い込み」という意味で理解される場合が多い。


知性とアイデンティティの危機

西川:
 人間相手のというかケアみたいなところでは、相手を人間扱いしないだとか、自分のやり方が定型化してしまって、まるでマニュアルというか、もう決まったとおりのことしかできないみたいなケアになってしまって、人間性が薄れていくっていうことになるんじゃないかと思ってしまう。

 ただ、職業教育の中では「分からないことの大切さ」ということはあまり言われません。「分からないことの大切さ」というより「感性を大事にしましょう」とか言われるわけです。「知性だけではだめですよ」「感性を持たなきゃ」と言うけど、感性って何なのでしょうか? 

 あのね、やっぱり知的探求のない感性なんてないわけですよ。知的探求に常に突き動かされてると、やっぱり不安でもあるんですよ。不安やし、ためらうし。でも分かったときの喜びもすさまじいわけで。

 ただ、人に教えられたことならば、それが誰であれというか、このあいだの点灯夫と一緒です。一生懸命やってます。その人は悪いことしようと思ってません。看護学校で習ったとおりのことを患者に対してやる。介護保険制度で決められたことをそのまんま、要するに相談者に対して「あなたの受けれるサービスはこうです」と言うわけです。

 何も悪いことやってるつもりはない。でも何の工夫もない。このあいだの点灯夫と一緒なんですよ。人のために一生懸命やっているつもりでいても、「いったい誰がどんなことで出した命令なのか?」とは思わない。その命令が不都合になってるかもしれないのに、ただ忠実にそのことを守るだけという、そういう姿にやっぱりついついなりがちなわけですよ。そこをこう崩していく。いや、「知ってる」ことに関してはもういっぺん吟味しなきゃいけないって。「分かってる」って思うことに関しては、そのわかってる自分についてもう一度見直してみる。

 でも、それはいわゆる自分のアイデンティティーを常に危機に陥れるということです。「私は何々です」「私は看護師です」「私はケアワーカーです」「私はカウンセラーです」とか、「私は何々です」「私は法律家です」とか、「私は教師です」とかっていうふうに、「何々です」って言い切って終わってしまいがちです。「もう一度」ということがないかぎり、なにか奇妙なことになってしまう。

 ここで地理学者も含めて、普通にこの『星の王子さま』の星めぐりのところを読むのは、今まで何べんも言ってますけど、批判の対象としての「大人」がおおげさに戯画化されてるっていうふうに読むのが一般的です。でも、それだけだとこれあんまり大した本じゃないんです。そうでなくて、それをもう一度こう自分の側に引き寄せて考え直してみるっていうことがやっぱりどうしても必要なんじゃないかなって思いますけど。

 そう考えると、ほんとうにおそろしいと思いません? 「自分が知ってること」って思ってること、「自分が知ってること」というか、「あいつも知ってる、こいつも知ってる」のがいわゆる常識ですよ。常識っておそろしいと言えばすごくおそろしいものです。自分で一度も考えたことがないっていうか。一度も自分は分かった試しがないのに、みんなが「知ってる」って言うてたら、自分も「知ってる」って言わなきゃ、おそろしいんですよ。

 常識はずれの人間なんて、社会から排除されます。うん。「地球が太陽の周り回ってるんや」というのは、みんな知ってるわけです。だから、それを言えなくなっちゃう。それを、「いや、本当のとこ僕は知らんけどなあ」みたいなこと言うたら、「だいぶん変わったやつやね」みたいになりますよね。「哲学やってます」言うたら「ああそう」ぐらいに言ってくれるかもしれんけど、まあでも「薬飲んだほうがええかもしれん」とかって言うやつも出てくるかもしれん(笑)。


先行知と後知恵

西川:
 どこが大事なのかっていうのを、僕、ずいぶん考えているんです。「知る」に関して、このあいだ話したのは、「あらかじめ知る」っていう先行知、プロメテウス[*5]っていうんですけど、ギリシャ語では「プロト」は「あらかじめ」ですけど、プロメテウスっていう神話の中に出てくる人がいます。そして、エピメテウス[*6]というのが後知恵なんです。

[*5] プロメテウス:ギリシア神話に登場する男神。名前はギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意。

[*6] エピメテウス:ギリシャ神話の男神。プロメテウスの弟。名前は"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、兄のプロメテウスと対比的な命名をされている。

 今いわゆる科学的看護論とかでは、「こうこうこういう患者さんになんでこういうケアをするのか?」と言ったら、「こういうケアをしたら患者さんがこういうふうに変わるからです」となります。今まだ歩けない人に「リハビリが必要や」、「この人のリハビリはこんなふうにしたら、だいたい何か月後には歩けるようになるだろう」という見込みを持ってやるわけです。

 先のことが分かるから、今やってることに意味がある。これが「エビデンスのある看護・治療」です。「先のことが分かってる」。つまり、因果関係です。物理法則、因果関係。何か原因があったら、必ず必然的な法則で、ある一定の結果が出てくる。自然法則はみんなそうなんです。手離したら物が落ちる。これだいたいみんな分かっているわけです。その理由として万有引力が出てきます。

 だから鉄砲でポンッて撃ったらそれがどこに落ちるかも計算したらわかります。これは全部すべて因果関係の法則から「今まだない」ことを予測する知なんです。あらかじめ知る知。これが圧倒的に今の社会を便利にしました。

 でも一方で後知恵というのもあるわけです。必要なときには決して手に入らない知恵。王子さまがバラとの関係について「あのときバラの言うことになんかに耳を貸してはいけなかったんだ」って言いますよね。これ後知恵です。「後で分かってる」。そのときこれが分かってたら、バラとの別れはなかった。だから人生で今すぐ役に立った知恵じゃないんですよ。

 でも、人間にとってほとんどの大切なことは、後知恵のかたちでしか手に入れることができないのかもしれない。そう考えると、人間はそういう大切な知から、非常にかけ離れた存在になります。そりゃ神様は全部知ってますよ。過去のことも、現在のことも、未来のことも、すべてを知ってるから後知恵はありません。「全知全能」というのはそういうことです。人間はそこからは遠い。だから、先のことを分かろうとするために人間は科学的な認識の方法を身につけるわけです。

 野山を駆けずり回り狩猟採集生活をおくっていた人間が、定住生活を始めて農耕社会に移行するときに何が必要だったのでしょうか。まずは星の動きに規則性があることを知ることです。あの星が出ると雪がちらつき始める。冬になる。あの星が出はじめるともうじき花が咲く。要するに季節の移り変わりを夜空の星の姿で分かるようになる。

 天文学の知識が暦を作り、季節の移り変わりを知り、これからあとどれだけ経ったら雪が降ってくからそれまでに食料をためておかなければいけない、という計画性が生まれてくる。計画性を立てられるということは農業の一番の要ですよね。

 いつどんな獲物と出会えるか分からないものすごい不安定な生活から、定住して季節に合わせて農耕するようになる。それは、上述した「先行知」があって、初めて可能になるんです。だから、人間の文明・文化のほとんどは先行知が基本になってくるわけです。ただそれだけではやっぱり人間って生きていけないわけです。

 たとえば、先行知の最も味気ないところは「人は必ず死ぬ」ということです。最後まで生きてみたわけでもないのに「生きたからには必ず死ぬ」という確信がある。これがもう必然の法則だとなれば「私たちも必ず死ぬ」となる。この結論に対して、にもかかわらず僕たちは生きなくてはならない。だとすると、その意味はどこにあるんでしょうか。

 そうなってきて初めてここで後知恵が役に立ってくる。「生きてみないと分からないことがある」。生きなければ決して分からない。そのときには分からない。必要なときには分からない。それは確かにつらいことだけども、必ず後になってそのつらさから身につく知恵があるということを人間は徐々に知っていくわけです。

 後知恵は社会の生活を便利にしたりとか豊かにしたりとかという意味での力にはならないかもしれません。けれども、後知恵というのは人生に対する見方を変えます。だから「どうせ人間は年取って、できたことができなくなって、そして死ぬんや」みたいなこう先取りの知恵じゃなくって、生きてみないと分からない知恵っていうのはいったい何なのか? だって、後知恵ですから、自分で絶対手に入れられることはできません。いったい自分の人生、これから先どういう後知恵が自分を待ち受けているのか、みたいに考えることはできないでしょうか

 明日のことは分からないから明日生きることができます。全部分かってしまったら、人ってやっぱりものすごい苦しいですよ。分かっているままの人生しかないわけですから。結局は死ぬわけだから、今の自分を否定する結論が先に待ってるということが分かっている。それだけで人生を見たら、もう人生なんて絶望する以外何物もない。

 そんなふうに考えていくと、「知」についてもそういう先行知と後知恵みたいなのを自分の中でどうわきまえていけばいいのか? 介護の中で「どうしたらこの人ともっとうまく関係ができるんでしょう?」って。これは先行知を求めているわけです。「どうしたらうまくいくんでしょう?」って。

 今のやり方はまずいのは分かってる。「まずいんでしょ?」「じゃあどうしたら良くなるんですか?」というのは先行知を求めてるんです。でも本来は、失敗したこと、できなかったこと、そこから汲みあげる後知恵をまずはしっかりと見つけなくてはいけない。失敗してみて初めて分かったことがあるはずなんです。できると思っていたのにできなかったこと。

 あのときには「なんて自分勝手な、嫌なバラなんだ」と思っていたわけですよね。でも「彼女の言うことなんか、言葉になんか耳を傾けちゃいけなかったんだ」って、王子は別れてから徐々に後知恵として、自分の身にものすごくしみてくるわけです。だからこう、「成功するためにどうのこうの」じゃなくって、自分の失敗だとか、悩みながら、一生懸命努力しながらもやっぱりどうしてもできなかったっていうところから後知恵をどう見つけていくのかがすごく大切なのかもしれない。

 みたいなことを「知る」と「分かる」のところからいろいろ考えてみました。

地理学者が大事にしていること

西川:

 と、地理学者は、にわかに色めきたちました。
「それにしても、おまえじゃが、おまえは遠くから来たのだな。おまえは探検家じゃ。おまえの惑星について、わしにいろいろと話を聞かせてくれんかな」
 そう言って、記録台帳を広げてから、地理学者は鉛筆を削りました。探検家たちの話をまず鉛筆で筆記する。そして、探検家が証拠を持ってくるのを待って初めて、今度はインクで記録するのです。
「それで?」と地理学者はきいてきました。
「はあ、ぼくの星は」と王子さまは答えました。「そんなにおもしろい星じゃありませんよ。ちっぽけな星なんです。火山が三つあります。二つは煙を噴いていて、もう一つは噴いていません。けれども、いつ噴火するか、先のことは分かりませんから」
「先のことは分からない」と地理学者は応じました。
「ぼくの星には、花も一輪咲いていますよ」
「花については、われわれ地理学者は記録にはとどめないのじゃ」と地理学者は言いました。
「どうしてなんですか? いちばんきれいなのに」
「それは、なあ。花というのは、はかないものだからじゃよ」
「『はかない』というのは、どういう意味ですか?」
「地理学の本というのはなあ」と地理学者が答えました。「どんな本と比べても、比べものにならないくらい、しっかりした本なんじゃよ。地理学は決して古くなることはない。山が場所を変えるなんてことは、まず起こらないじゃろ。大洋の水が干からびてしまうこともまずない。永遠に変わらない物事を、わしら地理学者は記録するのじゃ」
「でも、煙を噴かなくなった火山が、もう一度噴火することだってあるでしょ」と王子さまは相手の言葉をさえぎりました。「『はかない』というのはどういう意味なんですか?」
「火山が煙を噴いていようがいまいが、そんなことは、わしらにはどうだっていい」と地理学者が言いました。「わしらにとって大事なのは、山そのものじゃ。山は変わらない」
「だけど、『はかない』ってどういう意味なんですか?」と王子さまはもう一度ききました。一度質問したが最後、王子さまは決してその質問を諦めたことがありませんでした。
「ああ、それはじゃな。『近いうちに消えてなくなる恐れがある』という意味じゃ」
「ぼくの花は、近いうちに消えてなくなる恐れがあるんですか?」
「もちろん、じゃよ」
「ぼくの花ははかない」と王子さまはつぶやきました。「世界じゅうを相手に自分の身を守るのに、花には四つのトゲしかないのだから! それなのに、ぼくはぼくの星に、花を独りぼっちで置いてきてしまったんだ」
 このとき初めて、王子さまは自分の星を離れたことを後悔しました。

 この今読んでる「先のことは分からない」というところ。まあここはそれこそ「後にならんと分からん」という後知恵の話です。「後にならないと分からないことっていうのがあるんだ」みたいなことです。でも地理学者が必要としているものは、先行知でもなければ後知恵でもないんですよね。

 先行知にしても後知恵にしてもそうですけど、先行知というのは「今あるAが、次どのように変わるのか?」ということです。後知恵というのは、たとえば「Aという事柄の意味が、後になってみると変わってしまう」ということなんです。

 「世界が闇だ」と思っていたものが「闇だったから、あの小っちゃな希望が見えたんだ」って。ほんの小っちゃな希望のものというのは、ものすごい明るいところでは目立たない。忘れ去られてしまう。小っちゃな人の小っちゃな希望というのは、希望に溢れたようなバブルの時代にはかき消されてしまうわけです。

 そうではなくて、もう何の望みもないと思ったときにこそ、ほんの小っちゃな望み、「子どもたちが先にガス室入るよりは、自分が先に入ろう」とかね。「子どもたちに一瞬でいいから怖い思いをさせずに」と思ってニコッと笑って入っていく神父のやり方なんて、ほんとに小っちゃなことですよ。

 だから、ものすごく平和な時代に「ケーキを先にお食べ」と言っているのとはわけが違うわけです。ものすごい幸せな時代にちょっとぐらい、自分のほうが先にちょっとつらい思いをして、後から来る人に先に喜びを与えようなんてことは目立たないけれども、ああいうナチスのガス室に送り込まれるそのさなかに、その小さいことをするとその意味はものすごく大きくなるわけです。だから意味のあり方っていうのがあらかじめ分かるんじゃなくって、まあ後で分かるということもいっぱいあるわけです。

 先行知にしても後知恵にしても、変化するもの、その変化の道筋を先に知るのか、後になってから分かるのかということですけど。地理学者が大事にしていることは「古くなることはない」と言ってますよね。だから、変わらないことをやる。過去にも行かないし、要するに永遠不変のものを対象にしているんだ。だから生命は相手にしないわけです。それたとえ火山であっても、火山活動、「活動」であれば、それはどうでもいいということなんです。


はかなさ

西川:
 『人間の土地』だったかな? 『人間の土地』の中で、サン=テグジュペリがギヨメという先輩、年下やけど先輩の飛行機パイロットから、地図の講義を受けるんです。地図に書いてあるだけじゃなくって「ここの羊には気をつけろ」みたいなね(笑)。「ここは平坦で不時着できるように見えるけど、実はここに羊がいるんや」「飛行機降りようとしたら、羊がやって来てひっくり返ってしまうぜ」って。

 地図には生きていないものが書かれてあるわけですけど、ギヨメがサン=テグジュペリにした講義は、そこで生きているものも書かれている。川にしてもそうなんです。川にしても、ここが普段は川がないように見えてるけど、それがあるから、これだけ広い平原が不時着時にはまったく役に立たないものになる、みたいなかたちで授業をするわけです。

 当然、地理学者も「花」については書かないわけです。「どうしてなんですか? いちばんきれいなのに」「はかないものだからじゃよ」と。「はかない(儚い)」っていうのは日本の、漢字じゃなくて和字。漢字にはない言葉を日本人が漢字のように作ったやつです。「山」って書いて「上下」って書いて「峠」っていうんですよね?

B:国字とも言いますか?

西川:
 国字か。うん。ああいうのと同じで、「儚い(はかない)」は「人」に「夢」と書きますけど、あれも国字なんです。別に中国の漢字にあるわけじゃないです。もともとは「はかない」っていうのは、計算の「計」って書いたそうです。

 「はかがいく」とか、「はかばかしくない」とかってよく言いますよね。「はかばかしく事が進む」といったら、計算通りにうまくいくっていうことなんです。「はかない」というのは思惑通りに進まないっていうか、予測できるようにはいかないとかっていうことで、まあつかの間のこととか一瞬の出来事とか。

 「はかなくすると」には死ぬという意味もあります。優しい言いかたでね。だから死ぬってことがそういうことなんですよ、「はかない」ってことですから。それを人へんに夢って書くのがね、国字で、なかなか美しい字だなと僕は思いますけどね。
 
 まあ、ここではその意味を「近いうちに消えてなくなる恐れがある」としているわけです。ここで初めて「はかない」と言いながら、「近いうちに消えてなくなる」「この世から消えてなくなる」とあります。だからほんとに死のイメージですよ。「はかない」ということは「死すべきさだめ」というか「いつ死ぬのか分からない」。ここで初めて死の問題が前面に出てきます。

 今まで、孤独であったり愚かであったり、人間存在の愚かさであったり、それからまあ言ってみたら、今まで出てきたようなさまざまな人間の愚かさとか、たった一人でいる孤立だとかは書かれていたわけですけど、ここで「はかなさ」っていう言葉から見えてくる「やがてこの世から消えてなくなるんだ」、要するに死のことが前面に出てきます。それを知って初めて王子は自分の星を離れたことを後悔したわけです。

「世界じゅうを相手に自分の身を守るのに、花には四つのトゲしかないのだから! それなのに、ぼくはぼくの星に、花を独りぼっちで置いてきてしまったんだ」

 そんなに弱く、はかない、近いうちに消えてなくなる恐れのあるものを自分は放置して置いてきた、立ち去ったっていうことを後悔するわけです。「帰る」という気持ちの一番最初はここです。だから、後悔したあとどうなるのか、ということです。



放ってきたらいけなかった

西川:
 この本はレオン・ヴェルトに向けて捧げられているわけですけれど、このサン=テグジュペリもフランスにレオン・ヴェルトを残して、フランスからアメリカに亡命してるわけです。フランスはド・ゴール派[*7]、反ド・ゴール派に分かれていて、それだけじゃなくて、国内全体がものすごくこういがみあうような状況だった。

 「フランスの中でいててもダメや」とアメリカに行って参戦を促すわけです。もう一度、フランスの威信と言うんですか、それを取り戻そうとしてアメリカに行くわけです。レオン・ヴェルトはユダヤ人。それでどんどん、ポーランドにしても、フランスでも、ユダヤ人はナチスの侵攻によってガス室に送られていくような状況の中。フランス人全体が人質にされてるような感じですね。

[*7] ド・ゴール派:シャルル・ド・ゴールはフランスの陸軍軍人、政治家。フランス第18代大統領。

 サン=テグジュペリは『ある人質への手紙』をレオン・ヴェルトにおくってます。レオン・ヴェルトを一人フランスに置いてきたことを、ニューヨークで書いている本なんです。ニューヨークで。このメッセージはほとんど『星の王子さま』と同じだと思います。

 一番最初に「『そんな人はどうしても慰めてあげなくてはいけないんです』って書いてあるけど、これのどこが慰めになんねん?」「どこが慰めになんの?」「そんな勇気づけるような話ってどこにある?」と思いますよね。最後、王子はヘビに噛まれて、みたいな感じだし。ねえ。「どこにあるの?」と思うけれど。

 でも、だからこそレオン・ヴェルトは読んだら、このあと王子がバラのもとに帰ると決意するところにグッとくると思います。そして、実際に彼はやっぱり戦線に復帰するわけです。それでその時にもう「こんな体、重いから」ということで王子もヘビに噛まれるわけですけども。サン=テグジュペリもほとんど同じように、命をこう「死ぬっていうことはもうどうでもいい」みたいなかたちでフランスに戻るわけです。

 この本は「レオン・ヴェルトに」と捧げてあるけれど、実はあとでサン=テグジュペリが「いや、コンスエロに捧げるべきやった」とコンスエロに言ったとか、いろんな伝記書かれてます。内容的にはやっぱ徹底してやっぱりレオン・ヴェルト、フランスに残してきた友人に向けての最後の友情の証の本と読めるように僕は思います。

けれども、王子さまは気を取り直して、
 「これから、どこの星に行ったらよいと思いますか?」とたずねました。

 ここがすごいんですよ。これは初めてなんです大人に相談してるなんていうのは‼

 「地球という惑星がよいじゃろう」と地理学者は王子さまに答えました。「なかなかの評判じゃからなあ、その惑星は……」
 そこで、王子さまはその星をあとにしました、自分の星に残してきた花に思いをはせながら。

 もうすでに「気を取り直して」ということですけど、後悔して、後悔して動かないんじゃなくて、次動くために。後悔したときに「次、自分は何をするべきか?」「どこに行くべきか?」と。新たな行動を起こそうとしているわけです。そのときに地理学者に相談しているんですね。そして地球に向かう。ここから「自分の星に残してきた花に思いをよせながら」というのは、ずーっと続いていきます。

 「あんなきれいなバラと別れたのが」ではないです。分かります?(笑) 「別れてみたら、やっぱり僕はバラのことが好きだった!」とかじゃないです。「好きだったのに別れてしもた、しくじった!」じゃないです。そういう未練を「もう一度取り戻す」、そういう意味で「帰る」っていう話ではないんです。

 そうではなくて「放ってきた」という自分の振る舞いが、この後で出てくる「ずっと責任を持ち続けるべきだ」「自分は何をするべきだったんか」へとつながっていきます。放ってきたらいけなかったんです

 でも、ここでは王子は「じゃあ何をするのか?」についてはまだ分かってないんですよ。まだ分かっていない。ただ「独りぼっちに置いてきたっていうことはとんでもないことだった」ということはわかったんです。「近いうちになくなるあの花を、自分が独りっきりにして出てきてしまった」っていうことですから。


再びの美輪明宏

西川:
 恋愛ものみたいに考えて、「幼い頃には分からなかったそのバラの魅力について反省して、もう一度バラとよりを戻すために」とかそんなふうに読んでもこれはやっぱり全然ダメなんです。そうではなくて「バラの魅力に気づかなかった」みたいなところも一瞬書いてありますけど、それよりは「自分は何をするべきだったのか」ということですよね。「何をするべきだったのか」って。

 「なんてキレイでしょう」というような最初の王子がバラの魅力に心を奪われてしまうところが49ページにあります。

 あまり慎み深い性格ではないな、と王子さまはピンときました。けれども、すっかり花に心を奪われてしまいました。

 ここは恋、恋愛なんです。でも、地理学者のあたりから、星巡りの最後に、バラを思う気持ちっていうのは恋ではなくなってきてる。そこらへんは難しい話ですけどね。「恋と愛はどう違うのか」というのは。

B:前回言っていた美輪明宏ですね。

西川:
 そうそう。時間に約束通り来なかったら「なんで来えへんのや!」って、恋愛しているときは相手に怒る。でもそうじゃなかったら、「何かあったんやろうか?」って相手を気づかう。やっぱり恋愛には、まあ心奪われてるというか、自他の対立がないんです。一気にもう一体化しようとするわけ。だから、相手が自分の思い通りになってくれなかったら、これは失恋になってしまう。

 でも愛は、自分と相手が違っていいんですよ。違っていいというか、その違いをこそ認めて、違う中でどう生きるのかということを自分の課題にする。相手に与えるんじゃなくてね。相手に「こうなってほしい」だとか、「ちょっとこっちを見てほしい」だとか、恋してる人間の心ってみんなそうです。「相手がもっと自分に寄ってきてくれたら」と思ってるわけです。

 そうではなくて、愛の場合には「今までじゃあない自分のあり方っていうものをどうするべきなのか? 自分が愛するっていうことはどういうことなのか?」と思っているわけです。恋する場合には「できることなら相手も同じように自分のことを恋してほしい」と思ってしまう。相手を変えようと思うわけですね。そこらへんが、王子がこれからどんどん変わっていくところです。

はい。1時間近くしゃべりましたね。今日はこれぐらいでいったん切りましょう。

臨床哲学プレイヤー

西川:
 鷲田先生が岩波新書で『哲学の使い方』という本を書かれています。いわゆる臨床哲学の立場で、「哲学っていうものはどんなふうにして使われやなあかんのか」というような議論しているんです。今読みかけてる最中です。昔はぱらぱらっと読んで「あんまりたいした本ちゃう」と思って本棚に入れなおしてたんです(笑)。最近またちょっと気になって読み始めたら、もうなんかいちいち全部身にこたえるんです。「自分は何をしてんのかな?」って。

 僕、昔は自分のことを「臨床哲学のファン」とか「臨床哲学のアマチュア」とかっていってました。要するに「臨床哲学を好きです」って。愛知者[*8]みたいなことです。「好きです」って言ってたり。アマチュアもそうですよね。こう喜びを持って哲学をする人間ですから。「プロフェッショナルでもないし、あれやけれども」と言ってたんだけど。

[*8] 愛知者:古代ギリシヤ語のphilosophia は "philein"(愛する)と"sophia"(知恵、知識)の合成語で、「知を愛すること(愛知)」という意味。もともとは「知的好奇心が強い」といった意味だったが、哲学(フィロソフィー  英: philosophy )と呼ばれる学問分野、または活動をあらわすようになった。

 やっぱ臨床哲学も一つの活動なわけで、最近は、ちょっとめちゃくちゃかっこよく言おうと思ったときには「臨床哲学のアクティビスト、活動家になりたいです」とか言ってました。でも、これもなんか主義主張があっての活動家みたいな気がして。僕はもうちょっと緩やかなのがよいんです。

 臨床哲学ってやっぱり言ってみたら、実利を求めるものではないですよね。実利じゃないです。ゲームといえばゲームかもしれない。ひとかどのものになろうと思ったら、臨床哲学なんかするより何かの哲学研究やったほうがずっとええと思います。絶対そうです。臨床哲学だけやっていて、それが商売になることはたぶんない。なったとしても、それは一時の流行りに乗ってるだけだと思うんです。

 だから、「臨床哲学のプレイヤー」。プレイヤーは誰とやったっていいわけですよ。そういうかたちで、何て言うかな、単純に、いろんなさっき言ったような学識だけを集めるわけでもなければ、かといって「私の人生訓」じゃない、みたいなことができないのか、と思って。「私の哲学」みたいな、ものすごい小っちゃいところに閉じこもるわけでもなし。いったい誰が相手になるかわからないけど、まあいわゆる臨床哲学のプレイの方法をとる。

 これは古来のソクラテスの方法です。臨床哲学は「対話という方法を取ろう」と。全然新しいこと言ってないですよ。先祖返りをやっているわけですから。それもアゴラ[*9]のような社会の広場の中で、もしくはそこにも出てこなかった社会のベッドサイドに自分が出向いて行くことで始めようとしているわけですから。だから実際に自分で出かけて行く、行こうとするわけですよ。

[*9] アゴラ:古代ギリシア社会で、市民の政治、経済にまたがる生活の中心をなした広場。市民総会や公開裁判の慣行を早くから有したギリシアのポリス(都市国家)社会に特有の公共施設。もともとは民の集会を意味したが、集会の開かれる場所にも転用された。

 もちろん、行った先では、そんな世界を相手にしているわけじゃないと分かっているわけですけど、でも一人の人、もしくは自分が見知らぬ人と出会う中で何が起きるのか?って。やっぱりこれは先行知じゃないんですよ。後でしか分からないことを臨床哲学の場合には求めている。

人 類学にしても、さまざまなフィールドワークのやり方というのはやっぱり「こういう方法論で入ったら、社会のどこぞの側面が見える」とかって、僕は結構方法論ハッキリしてると思います。菅原先生[*10]も、会話分析とかものすごく丹念にやってやいるんですけど、とにかくものすごくハッキリしているんです。

[*10] 菅原先生:菅原和孝(すがわら かずよし、1949年- ) 日本の人類学者。 京都大学名誉教授。

 臨床哲学は相手によってやり方いくらでも変えます。自分の方法を、言ってみたらころころ変えるわけですよ。釜ヶ崎行ったら釜ヶ崎流になるし、舞鶴行ったら舞鶴のグレイスヴィル流になるし。相手とプレイができるように。

 何が臨床哲学というゲームなのか? まあそれはあんまり言ってもしかたがないですよね。「玉はボールで打ってな」みたいことをいっても、何にも野球を言ったことにはなりません。実際にやらないと、その喜びだとか大切さというのが分かれらないというところがあると思うんですけど。まあそんなことを、最近ちらちらと考えています。鷲田先生の本はもっと格調高く書かれてあるんですけど。


地理学者の本には何が書かれていたのか

B:地理学者が最初は何を読んでいるのかなと思ってたんですけど、これ、読んでいると書いてないですよね。一番最初から「とても大きな本を書いてました」って書いてました。あともなんか「鉛筆を削りました」とか言って、書くためにこれ広げてるんですよね。で、いないわけじゃなくて、「探検家が足りなくってなあ」みたいなことも言ってますけど。これ何書いてあったんですかね? 地理学者の本て。

西川:聞いたことです。調査報告について書いているんです。

B:どれだけの内容があったのか? たまたまお王子さまが聞いたことは書いてないことだったけど、場合によっては、質問によっては答えてくれたんですかね。書いてあること読んで。

西川:うん。

B:他の人出てきてないけど、この星は他にも人がいたんでしょうね。その探検家が。

西川:さあ、わかりませんね(笑)。この男はいたら聞いてるんじゃない?

B:「机の上に腰をおろした」というわりには、いっぱいに広げてるし、この人とこの本だけでいっぱいだし、座れそうにないなとかって絵を見てて思ったんですけど。そこで考えたら、星めぐりのあいだって、出てくる人の絵は描いてるけど、王子さまの絵ってはじめから描いてないんですよね。だからこれ、王子から見てるなんか主観的なものを絵にしてるのかもしれないなと思いましたね。「王子さまにはこう見えた」的に。

西川:まあここらへんはちょっと物語の書き方としてもどうなっているのかよくわからないですね。聞いたことを書いたともなってないし。

B:そうですね。あとの方で、「なかなかきみの話はすばらしいね」みたいなことを王子さまにパイロットが話しかけたりとかするから、僕は、王子さまがパイロットになんかいろいろと話をしたような場面がきっとあったんだと思います。

西川:なるほど。


「知る」と信頼

西川:遅れてきた人がいますね。誰か「西川はこんなふうに読んでました」って要約してもらってもいいですか。違う意見を言ってもらってもいいですよ。

C:
 地理学者が出てくるんです。六番目の星です。で、王子さまが地理学者にいろいろ質問をしていくんですけど、地理学者は「いろんな海とか、河とか、町とか、山とか、砂漠とかが、どこにあるかを知っている学者じゃよ」と地理学者のことをこういうふうに答えて、王子さまがそれに対していろいろ聞くけども、実際には地理学者はそこに行ったことがないんです。冒険家という人が代わりに行って、その話を聞いて書きとめるという作業をしてるんです。

 それに対して、西川さんが「知ってるというのはどういうことだろう?」みたいな話をしたと。これ、だけどあれですね、人の話を聞いて自分で説明するのってすっごく難しいですね(笑)。

西川:それは「言ってるやつが分からんように言ってる」か「聞いたやつが分かれへん」のかどちらかですね。

C:
 「知ってるっていうのはどういうことなんだろう?」。たとえば自分が知ってるということは、まあ本で読んだり、たとえば常識やったり。けど、実際に自分でほんとに知ってることっていうの、すごい少ないんじゃないかという話をしていたと思います。

 僕がそれを聞いてちょっと思ったことは、確かにそういう哲学というか、つまりあげ足をとって言ったら、「自分が知ってるってことっていうのは実際にまったくないと、ゼロと言ってもいいんじゃないか?」という気がちょっとしたんです。

 たとえばバチッて叩かれたら痛いとか、そういう感覚は知ってるという感覚に近いと思うんですけど、それすらもどう表現していいのか? たとえば自分が思ったことですら証明できるのだろうかと。何と言えばいいでしょう。僕とは違うもう一人人間がいたとして、叩かれたときに、変な話「気持ちいい」という人もいるわけじゃないですか。そういうことを証明するとか知ってるとかっていうのが、話を聞いているとあやふやな気がしてきて。どうして説明したらいいんだろうかと。

西川:いやあ、ほんま、たとえば「痛い!」と言ってるとしますね。「痛いん?」と声掛けますよね。「そんなん、なんでわかんの?」って。「いや、痛いって言ってるから」「え、人言うてること、そのまま信じんの?」という話です。

C:そういうレベルですよ。

西川:
 ここまでしかさっきは説明しなかったね。でも、「知ってる」とはどういうことかと言ったら、そこには、信用が、信頼があるんです。常識に関しては、ものすごく僕、否定的な言い方しましたけど「こう言えば相手もこう思ってくれる」っていう、言葉を介した人間関係の信頼があるんですよ。これが崩れたら言葉はまったく役に立たなくなるし、自分が分かってると思っていたことが全部分からなくなる。

 たとえば、みんなが一人に対して嘘ついたらものすごい自信なくなるわけです。「今日のてっちり、おいしいね」ってみんなが言う。「おでんちゃうの?」とぼくは思うわけです。「いや、てっちりやん」「おでん? アホちゃう、お前」「てっちりやん!」とかみんなが言ってくるわけです。それも真顔でやられたら、それがずーっと続いたら、もう自分の知ってることと違うことを周りがみんな言うようになったら、自分の「分かってる」はもう全然手応えなくなってしまいます、ほんとに。

 だから自分が知ってて、言葉を使って人とコミュニケーションできるというのは、「彼もこう思ってるだろう」ということでやっているわけですよ。

 東京で「たぬき蕎麦ください」って言うたら、天かすが入った蕎麦が出てくる。そう思い込んでて、東京しか知らんかった人が大阪に来て「たぬき蕎麦ってあるか?」と言ったら、なんかきつね蕎麦というか、揚げが入った蕎麦が出てきたみたいな。「え?」とか思うわけよ。自分の知ってることと現実とがずれるから。

 だからやっぱりある意味、信用とか共有しているという自分の社会で生きてきた経験の中での積み重ねなんです。「自分が知ってる」とかじゃない。「理性が知ってる」とかじゃない。体が、習慣がそういうものとして、中に深ーく深く沈み込んでいるから、自信っていうかな、安心して言葉を使えるわけです。

 でも普通、「信じる」、相手を信頼するということと、それから「知る」ということ、知性的なこととは別のことだと通常は思っているでしょう?相手を「信じる」ことは意思ですよね。でも「知る」というのはそういう意思の話ではなくて知性の働きだと普通は思っているわけです。ところが、その意思を、相手を信ずる意思を抜きにした「知」は本来成り立ちがたいんです。

C:んー。ってことは、地理学者は信頼のもとにこの地図を書いてるってことになるんですか?

西川:うん、一応ね。信頼できる人間のことをインクで書いています。それが彼の地理学の基になっているわけだから。

B:誰も信頼できなくなったら、学者やってられなくなりますね。

西川:そう。だから「知る」っていうことの一番の根っこには、他者に対する信頼があるというふうにも、ここは読みとれます。

B:この前、誰にも信じてもらえない天文学者の話とかも出てきましたね。これはこれで逆の方向の発表する側のほうとして周りに信頼関係が得られないと、やっぱり学者になれないっていう例ですね。

西川:やっぱり信用してるんでしょう。最後に王子も「どこに行けばいいでしょうか?」ときくし、「地球が評判いいよ」と地理学者が言ったら、「はい」って行くわけです(笑)。今まで「おとなって変だなあ」って「ほんとに変だなあ」と言っていた人間が、前の点灯夫のときには「ちょっと友だちになってもええかな」と言っているし、この地理学者に関しては別に尊敬はたぶんしていないだろうけど、でも信用しようとはしてますね。


疑いの射程

B:あと「知」について、先行知っていう先取りしてやるような知と、後付けの、失敗したりすることによって得る「知」との違いという話もありました。

西川:それ、もうちょっと詳しく(笑)。

B:
 えーと、狩猟生活をしてたりだとか狩りの生活から、採集生活とかつまり文明的な生活に移行しようとするときに必要になってくるのが「計画を立てる」ことです。農業とかは計画が基本的にならないと成り立たないし、毎年決まったように季節のめぐりがあるだとかそういうことも、計画が立てられなきゃいけないので、先取りして得られた知って大事なわけですね。

 そのあとの発展していく文明の中で、必要なものも、前提としてなるのも先行知。でも実際には「やってみないとわからないこと」もすごく大事で。ここで「先のことは分からない」という話も出ましたね。

西川:
 「先のことも分かる」という考えで、火山の活動を研究してる人たちもいるんです。うん。だから自然科学は基本「あらかじめ分かるはずだ」と思っているわけです。要するに因果必然。必然性の世界だと思ってたら、先行知ですべては説明できるはずです。でも「必然性だけでこの世の中できてない」「偶然があるんだ」って考えたら、「先のことは分からない」ってなります。だから「先のことは分からない」と本気で考えたのが九鬼周造[*11]なんです。うん。「偶然性っていうものを、この世界の中でどう考えるか?」って。

[*11] 九鬼周造:くき しゅうぞう 1888 - 1941年。哲学者。日本文化を分析した著書『「いき」の構造』で知られる。

 偶然性を単なる「人間の知がまだそこまで届いてないだけや」と理解する人たちがほとんどですよ。だって「いつ火山が爆発するか」だって、その火山の活動をちゃんと調査して理屈が分かったら予測できるはずだって思っています。今、たとえば宇宙が137億年前にビックバンで出て、その宇宙はこれからどうなるかって、ものすごい規模で科学者は考えようとしてる。「宇宙もまた消滅する」みたいに。うん。だからそれ「先のことは分かる」とほんとは思ってるわけです。科学の必然性の論理で世界は貫かれていると考えればそうなるんです。でしょ?「先のこと分からん」と思てたら、何も研究できませんからね。

B:うん。それで哲学の分野ではよくそれを「自由意思っていうものを人間から奪うんじゃないか」みたいな議論に繋げますね。

西川:そうそうそう。

B:あと「自由意思がないんだとしたら、それはもう倫理的な責任だって問えないんじゃないか」とかね、そっちの方向に持って行ったりとか、まあよくします。

西川:うん。

B:
 それはさっきの話には出てこなかったので、要約ではないんですけどね。はい。でもたとえばケアの現場でも、「この人についてはこうすればいい」みたいなことが、全部最初っから分かっていようとするというのかな、理解しようとする、先行知を求めようとしても、基本的に何もできなくなってしまうというかな。やってみて失敗することによってとか、成功することによって分かるというのかな、「後付けの知」というものがある、というような。

西川:
 「後付け」じゃないです。「後知恵」です。後からわいてくる知恵だから。後知恵。後知恵って必ず浮かんでくるもんでもないです。ぼーっとしてるやつには浮かんでくるものではありません。浮かんできても、つかみそこねます。前ばっかり見てるからです。振り返るっていう動作がない限り、後知恵は見つかりません。

 「失敗した!どうしたらええんやろ?」って前ばかり見てる人間には、そこに後知恵の花が咲いててももう目に入らないんです。「何があったんやろ?」って、もういっぺん、その自分の見たくない失敗とかそれをもういっぺん見る。振り返って見る。

 反省って、なんかあまり好きな言葉じゃないけど、それがないと後知恵は絶対に目に入らない。でも「われわれは失敗をこうバネにして、さらに前に行くんだ」みたいな感じで、前に行くことにだけなんか価値があるかのように言ってしまうから、そこらへんが難しい。でも「何も勉強せんでええんですか?」って言われたら、どう答えます?

C:「いや、そんなことはないだろう」って普通に答えちゃいます(笑)。

西川:
 だから、大事なのは「分からんようになるまで勉強しなさい」っていうことですよ。どんどんどんどん勉強したら、しまいに分からないようになる。中途半端でやめるから分かったつもりになってまう。どんどんどんどん勉強したら分からなくなる。それこそしまいには、人が言ったことを勉強するんじゃなくって、そこで残されてる問題を自分で研究しようと思ったら、分からんことだらけなんです。だから「分からないことが何なのか」については、「今、分かっているとされていることが何なのか」をまず知らないといけないわけです。

C:西川さんの説明を聞いて説明するのでさえこんなに難しいから、そういう自分のひとつの問題を解決するためにちょっと考えるだけで大変な気がしますね。

B:さっきCさんが言ってたような問題って、まあ哲学史の本やと「懐疑論」とかそこらへんのところとつながってくると思うんですよ。

C:懐疑論?

B:疑うってことですかね。だから「知」というものの成立要件を問う。デカルトが一番典型的ですけど。はっきり確立したものだと思っても、そもそも全部夢じゃないかとか。あるいはそもそも全部誰か、まあ悪霊って言うんですけど、悪霊が想定して思い込ませてるだけじゃないかとか。そこまで疑ってしまったら、もうほぼ否定できないようなものってのはないと。っていうところまでもっていくわけですけどね。まあそっから先のことは置いといても。

西川:いや、置いたら駄目なんです。そこをこそ考えなくてはいけないんです。でないとデカルトに負けっぱなしになってしまいますよ。

B:うんうんうん、そうなんです。カントはこのあとにわりとこれに対抗すること言ってます。さっき経験的なことから、痛みとかの話も言ってましたけど、カントの哲学では一応知識を分析的なことと総合的なこととに分けるのと、あとア・プリオリ[*12]とア・ポステリオリという区別があったりしましてですね。

[*12] ア・プリオリ:ラテン語で「より先なるものから」の意。中世スコラ哲学では、因果系列の原因あるいは原理から始める認識方法をいい、カント以後の近代認識論では、経験に依存せず、それに先立っていることをさす。「より後なるものから」という意のラテン語であるア・ポステリオリと対を成す。

西川:もうちょっと自分の言葉にしなきゃいけないですね(笑)。

B:そうですね。

西川:
 ただね、たとえばさっき言っていたように、「知る」ということ、「知ってる」ということに自信が持てて、安心できるのは、その信用とか共有できた経験だって言ったでしょ? 信じる意思とか、それから共有してきたという経験、つまり実践というものと知性とを普通分けて考えるんです。デカルトの哲学はきれいに分ける考えです。心身二元論[*13]ですね。

 「でもそうじゃないんだ」っていうことです。「知性の根っこには信ずる意思っていうもの、ともに生きてきた実践っていうものがあるんや」というふうに。彼の問題の立て方、答えに関しては、彼は立派な哲学者だから、立てた問いに対してギリギリの答えを出してるわけですよ。でも立てた問題の立て方がおかしい。そういう身体とかと離れたところから知性というものを考えるからおかしくなるんです。でも、われわれ近代人もだいたいほとんどがデカルト主義者なんです。だからデカルトを読んでも、そう簡単に批判できないんです。

[*13] 心身二元論:精神と身体が、それぞれ独立的に実在するもの(実体)であるという説。

B:そう、だから自分が意識してないところで、やっぱりデカルト主義者になっちゃってるところがあるので、それこそ何か自分の「知」の系譜的なものに批判的になっていかないと。

西川:あのねえ、このあいだも言いましたけど、サン=テグジュペリとレオン・ヴェルトは無二の親友ですけれど、二人ともが書いてんのは、「われわれ二人ともパスカリアン[*14]なんだ」って。「パスカルの思想において二人の考えは一致してる」って。それで、パスカルというのはもうデカルトの最大の対立者です。

B:パスカルもデカルトもどっちも数学者でもあるんですけどね。

西川:パスカルが「無用にして不確実なデカルト」と『パンセ』[*15]の中に書いてます。要するに「デカルトっていうのは幾何学の精神だけで繊細の精神がない、まったくない」ってパスカルは徹底してやっつけています。そのパスカルの思想を背景にしてる考え方ですね。

[*14] パスカリアン:フランスの哲学者ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623 - 1662年)の思想を支持する人々。

[*15]『パンセ』:パスカルの死後に遺族などが編纂し刊行した遺稿集。「人間は考える葦である」などの多数の有名な文句がある。

B:批判をそれだけわざわざ書くのも、やっぱりデカルトを当然意識しているからで、何にも相手にしてなかったら書かないですもんね。

西川:前も言いましたけど、このパスカルの『パンセ』の断章が透けて見えるような中身が『星の王子さま』にはいっぱいあるんです。だから今日のこういう「知ってる」っていうあたりだって、『パンセ』をしっかり読んでたら必ずよく似たやつが出てくるという気はしますけどね。別にそういうのはマニアックな人がやったらいいと思うので、僕はわざわざしませんけど。

B:あと身体と、言語も歴史的にそうですよね。言語もかなり共有性があります。人と普段しゃべってて、その歴史があって、今も言葉を使えちゃってるからこそ、デカルトが言ってるようなこと、懐疑論、懐疑だって立てられるんだから。そもそもそこまで「疑う」って言ったって、ほんとに疑ってたら「疑う」って言葉すら使えなくなるだろうから。まあ、ほんとにすべてのことを疑うなんてことはできない、みたいなかたちで、確かウィトゲンシュタイン[*16]はデカルトを批判したりとかしてますね。

[*16] ウィトゲンシュタイン:Ludwig Josef Johann Wittgenstein(ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン)1889 - 1951年 ドイツの哲学者。分析哲学者。主著『論理哲学論考』『哲学探究』。

西川:いやいや、デカルトも「すべては疑えない」と言ってますよ。「疑ってみようとしても、考える私っていうのは疑えない」と言ってます。

B:でも、そのプロセスの中でずっと言語はまったく疑いの範疇に入ってないって話ですよね

西川:彼は方法論的懐疑。もうちょっと哲学史やり直したほうがいいよ。デカルトは全部疑えるとは言っていません。

B:方法論ね。あくまでも方法だからって、

西川:まあまあ、そこは、もうマニアックな話になったからやめましょう(笑)


はかなさと尋ねたこと

A:王子が、ここで初めて「はかない」ということを聞いて、「あ、バラははかないんだ」「終わってしまうものだ」と知って、それでその後はバラに対する責任みたいなものをずっと考え始める。「ああ」と思って。つまり、王子の中には死ぬものとして相手がいなかったんやなあって。

西川:うん。そうやね。

A:それを思うと、なんか王子が夕日ばっかり見る、夕日を何百回見るのとかいうのも、王子はなんかある種こう投げ出された永遠みたいなところで、なんか苦しんでいるような存在にも思えました。

西川:
 「はかない」っていうことを知らずに、たった一人ぼっちで生きてた人間。子どもも「はかない」ということ分からない。命のエネルギーだけで生きてるようなところがある。で、毎日毎日「バオバブかもしれない」と思ったら根を引き抜いたりとか。

 死火山というか休火山というか、火山としては火を噴かなくなった火山だっていうこと、そういう死に類似した事柄を目にはしているんですけど、でも「はかない」という意味は分かっていなかったわけです。でも、「はかない」という意味が分かったからといって、「火山っていうのもな、はかないものなんだよ、活火山というものは」と言っても、たぶん「はかない火山置いてきた」とはなりませんよね。

 まあ、恋をしたというか心を奪われたというか、愛した、相手と一体になりたいとまで思いを寄せたものが「はかなかった」ということで、はかなさの意味はおそらくはガラッと変わるんですよ。

 死については、要するに「人は死ぬんだ」ということはある程度になれば分かります。でもその「人の存在が死によって、はかなくなる」というすごい意味が分かるのは、自分がすごく愛してる人が死にそうになったときです。そう思いませんか?

 だから自分の愛してる人がみんな元気なときに「人って死ぬもんや」「お母ちゃんも死ぬもんや」「お母ちゃん大好きやけど、お母ちゃんも死ぬもんや」と思っても、やっぱり「はかなさ」は分からないんじゃないでしょうか? でも「お母ちゃんも死ぬんや」と実感したとたんに、ぐっと変わるかもしれません。そしてそれが今度「自分も」と変わっていくわけです。

 はかなさ一般ということについて、たとえ知っていたとしても、自分の責任を考えるきっかけになったりだとかはおそらくしない。だからこの花が、王子が心奪われたあの花がはかないものだと知ったことに、すごい意味があるんだと思います。

G:ここは今までよりも会話がある感じがしました。ちょっと今までの王子に血が通ったような。とても感覚的ですけど(笑)。

西川:うーん、何て言うんですかね。少なくとも一番目から六番目まではそんなたいした思いなしにたまたまたどり着いてるわけです。出て行くときには、それなりの覚悟があったけど。59ページですか。

なにか役に立ってあげられることはないか、なにか勉強になることはないか。そう思って、王子さまは手始めに、そうした小惑星を訪ねて回ることにしました。

 花とのいざこざがあって、とにかく自分の星を出て行こう思って。でもそのときにこういう漠然とした気持ちを持って、それで、たまたま王様、たまたま誰々って回ってきて、たまたま地理学者のところに来たわけですよ。

 でも、地球の場合は違います。地理学者からすすめられたからというのは表面的で、重要なのは「どこに行ったらよいと思いますか?」と聞いたことです。「次はどこに行ったらいいのか?」って聞いたんです。だから、地球にいくのは、今までの六つの星とは違う。

 王子の、何て言うか、意思みたいなものが入っているわけです。その意思決定をするときに、この地理学者の助言を求めたわけです。今までの大人に対する扱いとはまったく違うわけです。点灯夫とこの地理学者に対しては批判的なことはほとんど言ってないです。うん。でも、まあまあ批判するべき内容みたいなのを僕たちは読み取れるわけですけれどもね。

 さて、「地球という惑星がよいじゃろう」と地理学者が言ったのは何なんでしょうねえ。「なかなかなの評判じゃからなあ」ということだけど、「ほんまかいな」って感じですか?

B:「なかなかの評判」ってどういう意味でしょうね、これね。悪い意味にも取れますよね。

西川:「なかなかの評判」ってなあ。より複雑っていうことなんでしょうけどね。

A:地理学者は自分の意見じゃなくて、人の話を、聞いたことを伝えてるから。

西川:そうだね。「いろいろ評判あるよ」ってね。おもしろいと思ったことしか書いてないし。

A:王子も「ああ、そう思った人がいるんだ」と、そこは信用できたんじゃないかなあ。

西川:
 いやあ、ほんとにサン=テグジュペリって、話の進め方が緻密でしょう? さーっと読んだら分からないけど、地球に入るちょっと前に、ほかの星とは違うかたちで地球を訪れるようになったっていうことを、きちっと、だけどさらりと書いてあるんですよ。今日、「知」というものは、本来は信用が根っこにあるんじゃないか、みたいな、ちょっと哲学的な話をしましたけど、でもここに全部書かれてあるです。ほんとにすごいですよ。

 『サン=テグジュペリ著作集』の中に『手帳』というのがあって、彼が手帳に書いたメモ書きとかがあります。数学とかね、哲学とかいろんなことがメモ風に書いてあるんですけど、めちゃくちゃ難しいです。ものすごい学識がある人ですよね。だから簡単そうに見えてる後ろにいったいどれだけのものがあるのかなあって思います。

 僕たちは文化が違うし、なかなか分からないとこもいっぱいありますけど、すごいなあと思いますよ。だから稲垣さんがこの本の後ろに書いていますが、ほんとにこれを解釈というか読み解こうとしたら、膨大な量の様々なものを知らないとやれないわけです。

 本来は、ほんのちょびっとずつしかまだつまんでないんですけど、少なくとも分からないものがいっぱいある、ものすごく氷山の一角じゃないけど、ほんのちょびっとだけにわれわれは触れているんだ、みたいな気持ちで読めるといいですよね。そうすると、何度も何度も読み返す、じっくり読むということの意味が出てくるんじゃないかなと思いますけど。


置き去りにする

西川:ところで、独りぼっちで誰かを置いてきた経験がみなさんにはありますか?

C:子どもの留守番とか。

西川:その時どうでした? 「人を殴った」とかじゃなくて「置き去りにした」ということが、自分にとってものすごい後悔になる経験というのは、みなさんどうでしょう?

C:たとえば、道でちっちゃい生まれたての猫を拾ってしまったとかですかね?

西川:拾ったら置き去りにしてない。

C:拾ったけど「家で飼ってはいけません」と言われてもう一度置いてくるとか。

西川:
 それもちょっとつらいけどね。路上に倒れこんでいる人を見かけて置き去りにするとか。まあそれはまだ「縁がないから」とも言えるけれど。自分の愛する子どもを中国大陸に置き去りにして逃げ帰ってこなければ仕方がなかった人たちもいるだろうし。そういう追い詰められた状況での置き去りは、まあ幸いにして僕にはないれけど。

 王子が考えていることは、サン=テグジュペリ自身がニューヨークに行ってからずっと感じていたことなんです。結構、抑鬱気分になりまくってるわけです。階段から落ちて、ちょっと体を痛めるんです。それで痛みがあって親友の医者に診てもらうんですけど「そんなたいしたことない」って言うんだけど、「いや、そんなはずはない!」って言って、もうものすごい心気症的になってしまう。しまいにはその痛みを腸の癌だと思い込んでみたいな、ものすごく不信の塊になってきます。だから、ものすごく病気を過大に自分が抱え込むような時期があったみたいです。

 自分がもう一度米軍のP38という戦闘機に乗れるときになってから、二十歳ぐらいの米軍兵と一緒になって、「心は二十歳さ!」みたいな感じで一気にまた元気になる。で、元気になって、5回しか搭乗を許されてないのに、7回、8回、9回か行って、結局帰って来なくなっちゃうっていう話なんです。

 その一番の根っこにあるのは「置き去りにしてきた」ということですよ。祖国に友人を置き去りにしてきたという後悔が強烈なんです。だからそれを「何とかして」「命に代えてでも」と。でも、彼はもう歳が歳だったから、もうパイロット乗りには向いてないって、みんなから反対されるわけです。そこを無理やり乗るんですよね。だからそれは半分自殺行為に近い。

 そんなことをやってるサン=テグジュペリの人生と重ね合わせてみると、ここの置き去りにした後悔と自責の念っていうのは、ものすごく強烈なものとしてサン=テグジュペリ自身が実際に感じてたことなんですよね。でも、「置き去りにしてきた」って、普通「そもそもなんで? 関係ないやん」「なんでバラに責任とらなあかんの?」ってなると思いませんか? 「別にバラとの間にそんな契約結んだわけでもないし」って。

 道端に倒れてる人を見かけても置き去りにして歩ていく。彼と私の間には見かけただけでは何の責任も生じません。だから「置き去りにした」とは思わないですむわけです。「私にはこの人と関わることよりも、私を待っている誰それさんのところに行くほうが大事な責任がある」と思うから、簡単に見捨てられることができる。

 でも、この「置き去りにした」と思うか思わないかは、自分が出会った人との間でどのような責任を自分が引き取ろうとしてるかによって変わってくるんですよ。サン=テグジュペリなんかの場合は、ちょっと見かけただけで責任が生ずるとは言ってない。「なじみの関係になったものには最後まで責任があるんだ」っていう言い方をしてるんですね。

レヴィナス[*17]とかになってくるとちょっと違う。もっと突き詰めて考えたら、なじみになるもならないも、「出会った」ときに、自分が感じるとかうんぬんじゃなくって「向こうから迫られてくるもんや」「課せられてくるもんや」「巻き込まれてしまうもんや」と。「私が責任取りまっしょ」みたいなかたちで決意するものではないんです。そういう倫理学もあります。

 そうすると、「契約してるから」「今日が僕の担当やから、この相手には責任がある」とかだけじゃないんです。責任というのもいろいろなんですよ。

[*17] レヴィナス:Emmanuel Lévinas(エマニュエル・レヴィナス)1906 - 1995年) フランスの哲学者。現代哲学における「他者論」の代表的人物だとされる 。

 たとえば、勤務交代のときに「こいつに任せられるか?」って思ってしまうような看護師もいるわけです。でも勤務交代で帰らなくてはいけません。そんなとき、ほとんど「置き去り」に近いような気持ちになるときがあります。「あ、こいつやったら絶対くくりよんな」って思うわけです。自分が一生懸命、保護衣着せないように一生懸命話やってたのに、次新しいやつが来て勤務交代。「もうそんなん医者に指示もろてこい」とかって、「くくろうとしている」とか思いますよね。

 申し送りしても、次からもこいつの勤務帯になったら、自分は帰らなくちゃいけません。やっぱり置き去りにしているという気持ちは湧いてきます。それこそ「敵中に置き去りにする」みたいな感じです。

 でも、「どこで責任感じるか?」とか「何を置き去りにしたと自分はとらえるのか?」とか、「それ自分が感じるものなのか? それとも向こうからの訴えに否応なしに巻き込まれてしまうのか?」「だから、責任を感じるのは自分の良心が優れているからなのか?」とか「いや、そうではないのか?」とか、いろいろ考えていくともっと話は複雑になってくるかもしれませんね。

B:
 置き去りっていうのとはちょっと違うのかもしれんけど、なんか絶交に近いようなことをした友だちがいました。それがなんかしょっちゅう僕に電話かけてくるんです。で、あんまり意味のある話、しないわけですよ、しょうがないことばかり言ってて。で、しかも基本怒ってるし。

 で、なんか僕のこと言っても、僕の悪口ばっかり言うし。「さびしかった」とかって時々言うけど。で、小学校と中学校一緒だったんで付き合いがあったわけですけどね、その時はだからよくしゃべってたけど、そのあとは学校違ってるんで。僕、別にね、話したくないというか、僕から用事あって話すことないし、かけて連絡することないし、僕のほうで一緒にこうね、誘って遊びに行ったりとかも別にしないというか、したくならないんですよ。

 でも、向こうはしょっちゅう電話かけてきて。もうなんかけんかばっかしてる感じだったし、とかって僕は思ってですね、で、実はけっこうそれが僕の中で負担になっていたような気がしたので。で、最終的にもう連絡取らなくなったら、もう向こうも連絡してこなくなりましたけど。

西川:置き去りにしてきたと思う?

B:何となくね、

西川:(笑)

B:
 そう思ってしまうところが、最初から友だちと思ってなくて、なんか僕がすごくえらそうなね。で、それを「置き去りにしてしまった」と思うような気がするのが、なんか「もっと大事にしないといけなかったのかな」とか思うのが、すごくなんか上から目線で彼のこと見てたんだろうな、とかって思いますね。

 そうでなくてもっと僕は「自分がそんなに強くなかったんだ」というふうに思うべきだと、今はなんか思って。やっぱそこを、彼をずっと引き受けて生活考えられることができるほど、自分もそんな強くなかったというかな。そんなことしてると、ほんまに他のことできなくなるんですよ。やっぱり器用な人間じゃないのでね。何かをやるには何かをやっぱり捨てなければならないことがあって。

 今はちょっと生活の安定のために、ちょっとその彼との付き合いを捨てたみたいな、すごく利己的な選択をしてしまったと思って。そういう意味で、まあ悪いことをしてるかなとも思いますが。だからと言ってこれからまた連絡を取ったりする気にならないですけど。今はもう、なんかそのあとに生活リズムを突き詰めてしまってると、またなんかガラガラッて自分の生活が崩れてしまうようなこう恐怖があって。

西川:
 ねえ。いやいや、「けんかした」「けんかして別れた」と思ったら、置き去りにした感は薄らぐはずですよ。「だってあいつがこんなこと言ったし」「腹立つし」「あいつも俺にあんな、こんなこと言った」ってなる。

 「けんかした」と思ってるあいだは「置き去りにした」っていう気持ちにならない。でも、心が落ち着いてきたときに、ですよね。「あれ、あんなことで怒るんじゃなかった」みたいなね。うん。カッカきてる間はまだ置き去りにした感にはだいぶ遠いかもね(笑)。


天使とけだもの

C:
 もう七年ぐらい通っている利用者さんがあって。最近、「もし大地震が起きたら、自分が介助にそこに入ってたらどうしようかな」って思うことがあるんです。もちろん家には子どももいるんで。けど介助に、もしその場所に入ったら、次の人も来る可能性も少ないし、電気が止まったりしたらアンビューとか安全確保しなあかんし。

 「自分ははたして置き去りにできるのか?」みたいな。架空の話ですけどね。「そのときになってみないと分からないな」っていう今は結論なんですけど。できれば置き去りにしたいんですけど、逆に言えば。できるかな…。

西川:できるかな?「したとして、あとの人生を俺は耐えれるかな?」ってなりますね。

C:そういうの思いますね。

西川:
 僕が精神科辞めたとき、「精神科の患者さんを置き去りにしてきた」という気持ちはほんとうに強かったです。「二度と入らへん」と思ったから。実際、二度と入れないです。病院辞めたらもう二度と入ることはできません。あれだけいろんなことを相談され、あれだけいろんなことを言い、あれだけいろんなことをけんかしたから。

 でも退職届出して鍵返したら、「患者さんと二度と会えない」っていうか。「彼らが望んだんじゃない、俺が逃げてきた」っていう感じがもうすごくありました。

C:合わす顔がないってことですか?

西川:
 いやいや、実際に辞めるだけの理由はあったわけです。「もうその病院には行きたくない」って。だから僕の人生のうえではそこを立ち去らざるをえなかったんだけど。でも、患者さんはそれに何の介入もできないわけでしょう?「いっさい介入できない患者さんを置き去りにしてきた」っていう気持ちはすごくありました。

 そしてなぜか「もう精神科には二度と勤めない」と思いましたね。なぜでしょうか? だって辞めたら閉鎖病棟の患者さんとは会えないんですよ。まあ今はそうでもないんかな。でも今も基本は会えないでしょう。

B:
 ほんとは、八百屋さんとか魚屋さんとかでも、お金、商品渡して会った人も、もういっぺん会いたいと思ってもけっこう難しかったりすると思うんですよね。実は一回しか会えない出会いをしてると思うんだけど、ああいう商売に対しては、あんまりそういう喪失感ってないですよね。

 なんかそこらへんがなんかこう「はかなくない」というのかな。かけがえがない、一人だけしかないっていう人間と商売してる感覚じゃないんじゃないかっていうのかな。ちょっとやっぱり精神科とか看護やってる人と、魚渡したり野菜渡したりしてるんじゃ、相手を人間としてるときの、人間と扱い、見方が違うんじゃないかなって気がします。

西川:
 いや、精神病院はもう基本的に鍵のかかってる世界だからですよ。それだけのことです。刑務所の刑務官でも同じだと思います。要するに社会的に隔離されてるところに、資格でもって特異的に入れられてたわけです。うん。だから別に僕が優しいから、精神病院の閉鎖病棟の中の患者さんの話を親身になって聞けたわけじゃないんです。

 分かります? そういう役割として入ったから、できただけです。だからその役割切れた途端にもうできなくなっちゃう。だから何て言うのかな、「役割だからつまんない」と言っても、その役割除けたらできないことがあるわけです。介護もそうなんですよ。役割だからできることがあるんですよ。命を預けるアンビュー[*18]を「あなたにお願いします」っていう目で見つめられるし、それがなくても「僕がせなあかん」という役割があるわけです。

[*18]アンビュー:アンビューバッグ。患者の口と鼻から、マスクを使って他動的に換気を行うための医療機器。 人工呼吸法の主流として、救急現場の第一線で幅広く用いられている。デンマークのアンビュー社の製品が知られているため、アンビューバッグと呼ばれる。

 でもそれを手離したら、何て言うかな、役割逃げただけのことになるんですけど、同時に、その役割を通して初めて許された世界とのつながりが切れてしまう。僕は切ってきたわけですけど、何とも言えないすごいつらーい思いもあります。つらいと言うか、何て言ったらいいかな?

 僕は「看護師なんていうのは、勉強して資格取ったから看護師になれるんじゃないよ」「患者さんから『看護師さん』って言われたときに初めて看護師になるんや」ってもう口酸っぱくあちこちで言ってます。

 でも、みんなそうじゃない。看護学校行って看護の資格取る。それでみんなにえらいと思われるような、人間関係とかで自分の力をつけたら、いい看護師になれると思っているわけです。

 最初からそこが違う。相手から呼ばれて初めて看護師になるんです。

 何て言うのかな。「俺の人生に関係ないわ、この病院辞めるだけや」というのは簡単です。「ここの病院辞めたって、俺は看護師やし」「看護師辞めたって俺は俺やし」「そんなもんは単なる僕自身の属性の一つにしかすぎない」とかね。そうなったとき、「僕は僕だ」という確かなものが自分の中にあると思えているあいだは幸せだけど、その精神病院の鍵を渡すことで、僕の人生の十何年間がゴソッと消えてなくなるんです。もう帰れない人生になってしまうというかね。

 離婚にしてもそうですよ。僕何回も離婚してますけど、つらいときには「離婚した相手のこと忘れよう」と「忘れたほうがいい」と思うんだけど、忘れたら、相手のこと忘れたら、相手と一緒に喜んだり泣いたり怒ったりしてた自分の人生まで消してしまうことになる。そうやって考えたら、ぞっとします。自分がまるっきりなくなってまうんですから。

 だからそういう意味で、自分の属性とか、自分にとっては本質と関わっていないと思って、切り捨てることができると思ったところにこそ、自分の何かがあるって気づくんです。だから介護の仕事をやめて、アンビューをやめて、もう「息子のことを。子どものとこへ!」という感覚はもちろんある。「これは仕事やったんやから」と思うでしょう? ところが、それで自分のめちゃくちゃ生身をビシーッ!とされてしまう。だから合理的な判断はたぶん間違うんです。

C:ただね、もし子どもの側に何かあった場合、僕アンビューをし続けて、その時もその時で引き裂かれるもんがあるわけですよ。

西川:そうですね。子どもが死んでまうっていう思い。

C:はい、「助けに行けなかった」っていう。

西川:
 その時に初めて、「ああ、僕は人のために何かできると思ったけど、実はできない。翼の折れたエンジェルね」みたいな感じですね(笑)。だからケアとか「より良く生きたい」と思う時には、「より良く生きたい」という希望がいつの間にか欲望になって、いつの間にかなにか間違った信念になってしまって、「何でもできる」と思ってしまうんです。

そうなってくると「天使になろうとするやつほど、けだものに近くなる」というパスカルの言葉に近づくんですよ。「あっちも助けたい、こっちも助けたい」、まるで天使のように、神のようになりたいと思ったら、そこでどっちも中途半端になって、「ああ、もうー」みたいな。で、しまいには自分の頭ガンガンガーン叩くみたいなね。

 やっぱりそれはいけないですよね(笑)。だから人間にはできる「分」というのがある。だからやっぱりどう諦めるか、そしてどう諦めつつも絶望しないか、ということになる。

それを思ったとき、僕は九鬼周造の『「いき」の構造』を考えます。遊女にまで身を落としながら「意気地(いきじ)」と「媚態」と「諦め」の三つを兼ね備えた価値観というのが「いき」なんです。

 「金だけで買われているわけじゃない」という意気地がある。でも、やっぱり相手との色恋の仕事だから、「奥さんなんかよりもあなたのこと愛してるわよ」というぐらいの魅力を持たなくちゃいけない。魅力的な人を好きになるってことも大事な世界。でも金だけで買われてないわよという理想も持っている。

 もう一つは「でも結婚はできないわ」ということ。でも「結婚できないから一緒に心中しましょう」なんていう野暮なことはしない。あくまでも「あなたを受け容れる。でもあなたに命を捧げるのはあなたの奥さん以上よ」みたいなね。

 なんかこういうほんとは成り立ち難いものを三つ巴の緊張関係の中でやっていくのが、苦界に沈んだ遊女が唯一生き残るためのその美的な価値観やったって九鬼周造は言うわけです。九鬼周造のお母さんは芸者だから。うん。

 さて、僕は職業としてケアは、本来、親愛圏、親密圏、つまり親兄弟姉妹、そういう人たちの中でやられたものが、いつの間にか職業として、社会的運業の中にあると思います。今まで縁もゆかりもなかった人間が下のお世話をし、死に水を取りみたいなことするわけですから。

 でもその時に「金のためだけや」と思ったら、これまた慚無い[*19]。されるほうも慚無い。だから「そうじゃない、金のためだけじゃない」っていう意気地も持たなくちゃいけない。「相手のためにしてあげたい」という媚態も持たないといけない。でも「お金もらってる」ところで諦めも持たないといけいない。

 つまり、理想を捨てない意気地を持って「家族にもなれないし、神様にもなれない」という諦めも持たなくちゃいけない。なおかつ相手のことを思うという媚態も持って。

 僕はだから職業としてのケアっていうのは、『「いき」の構造』をしっかり読む必要があるんちゃうかな、って前からずいぶん言ってんです。でも、そうすると「そういう売春婦と看護婦とを一緒に論ずるような議論っていうのは許せなーい」みたいな感じになる。分かるでしょ? 徹底してやられます。「私は知的専門職です」みたいな感じです。

[*19] 慚無い(ざんない):関西で使われる言葉。 「無慚(むざん)」に返り点を付けて読んだ語。「見るに忍びない」といった意味。

 ぼくは職業としてケアをするときに悩むとこはそこだと思います。でないと、患者との間で転移現象、逆転移現象で、それこそもう「ほんとにその人のことを」って、患者と結婚する看護師はほんとうにいっぱいいるんです。いつの間にかそうなっちゃう。

 でもそれは「野暮」なんですよ。客と一緒に心中を迫るような遊女のようなものです。「いき」じゃないんですよ。もっとこう凛としてっていうかな。まあ、九鬼周造を鵜呑みにしてるようなところもある話になりますけど。


いきなケアと野暮なケア

C:「いき」ということを考えたことないんですけど、やっぱり、いわゆる利用者さん、僕はヘルパー。仲良くなりそうになったときに現場を離れるように、ちょっとシフトを組むのでもそうですけど。

西川:あんまりドライすぎてもダメです。

C:そう、難しいとこですね。

西川:あんまりドライすぎてもダメだし、ウェットでも、べちゃべちゃくっついてもダメ。だからここをどうするか。いいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかじゃなくって、それが美しいか美しくないかって、「いき」か「野暮」なのかっていうところで、ケアを見る見方があってもいいんじゃないでしょうか?僕なんかは前からずっと「いきなケアしましょう」って言っていますね。

C:長見さんは「キャスティングや」と。「そこにこの役者をいれて、その映画が輝くか? お互いが輝くのか? そこらへんを考えてキャスティングをしろ」って言いますね。だからそこらへんもちょっと似てるのかもしれないです。

西川:
 うん。ただね、何て言うのかな、まあそれもあるだろうけど。

 あのねえ、本物のプロはどんな役でもやらなくちゃいけない。どんな役でも、殿様から女衒[*20]までしなくちゃいけないわけで。ケアワーカーはキャラクターで生きてたらいけません。「優しいキャラでいきます」では、それはたぶん媚態だけでいってるタイプなんです。意気地も諦めもそこにはない。

 まあそこらへんが、言ってみたら本当の意味での知性っていうか、人間関係能力みたいなものが必要とされるわけです。それは、人との付き合いの中で練り上げるしかない。勉強したりとか自分で考えたりとか孤独な作業で絶対身につかないものです。

[*20] 女衒(ぜげん):女性を遊郭など、売春労働に斡旋することを業とした仲介業者。

 だから、いわゆる問題とされるような利用者や苦手な人とかと、うまくいくための教育を職員研修でやろうというのが、今大流行ですけど、この部分は後知恵なんです。「そりゃ事前研修では無理でしょう」って思います。それよりも失敗したやつがすぐに絶望して辞めるような職場環境を何とかしたほうがいいと思います。

 ケアの現場では失敗することがどうしても必要なんです。でも失敗した人間がすぐに追い出されるか逃げ出したくなるようなところになっているんじゃないないのか。ぼくは、ケアする人がちゃんときちんとケアしながら、傷だらけになりながら、やっぱり後知恵をたっぷり身につけたなんか渋いやつを作ったほうがいいんじゃないかって思います。

 最初から金ピカの「どこそこ大学の何とかかんとか」って、もうこんなのはやめたほうがいい。それはメッキです。でも長見さんはそういう意味で失敗しても居(お)れる場所を作ってますね(笑)。

C:そうですね、すごいですよ。

西川:長見さんは達人です。いわゆる先行知をつぎ込みつぎ込みするのが、だいたいのリーダーの教育方針であるところが多いんです。「分かるまでもうほっとかなしゃあないやろ」みたいにはなかなかできない。でも「分かれへん」といって簡単に手放すとか追い出すとかしない職場環境を作っている。彼自身がその辺をすごく大事だと思ってるんじゃないでしょうか?

C:うん、そうだと思います。コーディネーター間でもすごいって話してます。「これできるか?」「絶妙やなあ」って。そういうことを長見さんはされてると思います。

西川:そうそう。僕も尊敬してます。すごいよね。

C:そうですね。

西川:うん。よく「リーダーっていうのは、自分よりできる部下をたくさん持ってるやつや」とかいいますよね。違いますよ。「誰よりもできない部下を持っている」のが大事なんです。長見さんみたいにね(笑)。

C:まあ、そんな感じします(笑)。そんなこと言っていいのかな。

西川:
 それがいつの間にかすごい力になるっていうことを、後知恵的に知っていたんでしょう。だからそれを大事にする。後知恵も、生きて生きて生き続ければ出番は出てくるんですよ。

 先行知というのは、何て言うかな、痛い目をせずに最短距離を一番楽して行こうというような、経済性、効率性を考えたときに重要視されます。でも、「そんなに急いでどこに行く」じゃないけど、一回の人生ですから、寄り道しながらあちこち見るのも、最短距離で誕生から死まで突っ走るのも同じ一回です。だからよくよく考えたら、別にそんな効率よく生きる必要はないような気はしますね。

 いやあ、この辺でやめときましょう。長見さん讃歌で終わったらおもしろくない(笑)。

一同:(笑)


サン=テグジュペリのようにはいかない

A:
 「知る」っていうところで、地理学者が、自分で調べようとしても、知ってる範囲でしかしゃべれないっていう件がありましたね。これに関連して、甲野善紀[*22]さんという武術家がいて、探求の仕方がすごいおもしろいなと思っているんです。

 たとえば、この人は「払えない手」っていうのを発明しています。柔道をやる人とかは相手の手をどう払ってバランスを崩してそこからやるという格闘技らしいんですけど、甲野さんは「払えない手」っていう体術を身につけていて、柔道の人はまあ驚くらしいです。いぶかしくて、もうそれ以上やらなくなるそううです。

[*22] 甲野善紀(こうの よしのり):1949年- 武術を主とした身体技法の研究家。東京出身。

西川:「払えない」っていうのはどういう意味ですか?

A:甲野さんの手は「浮き」っていう独特の体術を作れるので、このまま動かないっていうかバランスが崩れない。だから、それだと崩しから入る柔道がそもそも成り立たないということらしいです。

西川:なるほどね。

A:柔道は払ってやるもんなのに、甲野さんがそんなことしたら柔道そのものが成り立たないじゃないかっていうことで、武術家というか、柔道やってる人とかからは評価されずに、「何なんだ、お前」みたいな感じらしいです(笑)。剣道も甲野さんの術でやると、剣道の前提自体を壊しちゃうから、いぶかしくて変なやつでしかない。そういうのがなんかすごく、地理学者の話とかに関連しているような気がして。

西川:甲野さんは、植島先生[*23]と仲いいんです。

[*23] 植島先生:植島啓司(うえしま けいじ) 宗教人類学者。

A:そうなんですね。

西川:
 まだ僕はお会いしたことはないですけど、植島先生はけっこう一緒にいろんなことを活動したりとかしていますね。きちんと読んだことないんですけど、普通だと「言語化できない」って、あっさり「体で覚えてもらうしかない」みたいなことになるわけです。でも「もっと腰を!」って言われたときに、やっぱ「腰を」っていうのは、幾世代にもつながるまあものすごいキーワードになったりするわけですよ。いわゆる論理的ではないけど象徴的にコツ言語とかいったり。甲野さんは、そういうのとプラスさらに分かりやすい言葉を駆使してる人だって、植島先生からは何度も聞きましたよ。

 だから「新しい酒は新しい革袋に」じゃないけど、新しい思想っていうものは新しい言葉っていうか、新しい言葉の使い方にしないと、いけないわけです。

A:うんうんうん。

西川:まあ、だからできるだけ、この『星の王子さま』も、新しい言葉でね、新しいスタイルでいきたいですね。

C:そういうふうに読み解きたい?

西川:
 読み解きたいというか、感動を語ってみたいかな。サン=テグジュペリをそのままなぞっても仕方がない。もう大昔の人だし。

 でも、僕がサン=テグジュペリのように死んだらかっこよすぎるよねえ。

C:電話も通じないところに行くの、いいんじゃないですか?変な話、誰にも、人にも知られずに生涯を終える。

西川:へ?

C:生涯をそのまま終えるっていうのはどうでしょう(笑)。

西川:僕?

C:はい。

西川:ありがとうございます(笑)。

一同:(笑)

西川:
 いや、でも、つながりを求めるって言うけど、僕はめっちゃ甘えたで。なんかねえ、けっこうやっぱりしょうもないところがあるんですね。うん。なんか朝方とか、お酒飲んで寝るときとかに「おーい」とか言うでしょ。でも向こうは眠たいから返事せんでしょ。「俺の言葉に返事してくれへん!」とかって、ぶちぶちぶちぶち言い出すわけです(笑)。

 「どうせいなくていいんやったらもう」とか「ほんっとに冷たいやつや!」とかって。ぶちぶち。もうなんか、やっぱり自分の呼びかけに応じてくれなかったら、どんどんどんどん腹が立ってくるわけです。ほんとうに何度離婚したらこれおさまんのかなと思うんですけど。なんか、そこらへんをもうちょっとこうキュッと締められるといいんですけどね。

一同:(笑)

西川:誰か人がいると甘えたくなってしまうんです。

C:飛行機乗りには向いていないかもしれない。

西川:そう。でも一人のときは一人のときで平気なんです。一人のときは孤独じゃない。誰かいるのに相手してくれないというのがもう何よりつらい。

C:ああ、それはわかります。

西川:でも、一緒にいるからといって、僕のことばかり相手にできるわけはないでしょう?

C:うん、そうです。

西川:それは理解できるけど、納得できなかったりするわけですよ。まあ赤ちゃんと一緒です。

C:そうですね。僕も今それ浮かびました。


【】

西川:女は妻になって母になる。女から恋人になって、妻になって、母になる。要するに男が相手してもらえるのは恋人のときは一番かもしれないけど、恋人、妻の時にはね、一番上やけど、子どもができた途端にもう絶対三番手になる。

C:そうですよ。三番手ぐらいです。もう犬とかおったら犬の次ぐらいですよ(笑)。

西川:いやあ、ほんとそれは経験上、経験値はあるんだと思うんです。でも、なかなか振り返らなかったせいで、後知恵として身につかなかったとこなんでしょうね。

一同:(笑)

西川:最近ようやく「やっぱりそうやろなあ」みたいに思うようになりました。でもこの後知恵を見つけたときに、新しい生き方に踏み込まないといけない。だって後知恵って必要な時にはないわけだから。後知恵が入ったからってすぐに役に立つわけじゃないですけど。でも今、手元に知恵がないからといって絶望しないようにする感じですかねえ。「どうしたらええんかなあ?」って。

C:いやいや、しかし三番手になったからって家出て行ってもねぇ。「いやいやあれ俺の家やんけ」「俺どこ行くんやろう?」ってなりそうですね。

西川:僕、それ何回もしたんです。結論をいうと、出て行ったら「俺の家」じゃなくなります。

一同:(笑)

C:わかりやすいですね。

西川:女の人、やっぱり根があるような気がします。

E:子どもが生活にいるからですかね。

西川:
 子どものことだけじゃないですよ。生活というか、根のはり方が違うような気がするんです。うん。だから、僕も「女的な生き方」っていうか、僕が馬鹿にしてしてこなかったこと(ジェンダー的に女性的な生き方とでもいうんでしょうか)をやり始めると、僕もだんだん根はるんですよ。

 今、だいたいごはんは全部僕が炊くんです。おかずも僕がほとんど作ってます。弁当のおかずも僕が作っているんですよ。河内長野の引越しからもう1年半。まだ1年半ですけどね。でも61年のうち1年半でこんなこと初めてですよ。

 今まで誰にもしたことない。なんかお金でもの買ってプレゼントしたことはあるけど、朝の4時に起きて米炊いてなんてこと一回もなかった。でも最初のうちはね、ただプレゼント的にやってたんです。そうしているうちに、今の妻はそれが習慣になってしまって、起きなくなったんですよ。

E:(笑)

西川:そうするとプレゼントでしてあげてたことが、ずっとしないと成り立たなくなるわけです。女の人もひょっとしたらそうかもしれない。最初はなんか「料理作ってあげたら喜んでくれるから」「ちょっと女らしく作ってみようかな」みたいな感じかな。そのうち男ができないということが分かってきて、「え、いつの間にか自分がせなあかんみたいなことに」自然になっていくのかもしれない。それと同じことがね、今、逆転現象で起きてて。でもそれはそれで、なんかね、いいですよ。

E:いいですか?

西川:
 いつもだったら帰ってきて「嫁さんいてんのにメシないんか!」とかけっこう怒ってました。怒ってんだすよ。でもそんなことは今、思わないですよ。「お、これとこれとこれがある」って。それで「あ、彼女はこの素材では料理を思いつかなかったんやな」って思うわけです。「俺ならできる」と。そうすると僕のほうが力がある。生きていく力がある。それでだんだん、子どもが僕が作ったほうを先に食べるようになったんです。「ははは、まいったか」みたいなもんです。

C:「何のこっちゃ」って感じですね。

一同:(笑)

西川:いやいや(笑)、やっぱり食べるっていうこととか、根をはる生き方っていうのは、身体の欲求とかに直結したことをやっぱりやるっていうこととかすごい大事だと思いますよ。

E:
 なんか子どもって、生まれたばかりのときって何も知識ないじゃないですか。さっきの話に戻るんですけど、生まれたときは別に死ぬこととか知らないし、死ぬってことを知ってから生きることの意味考えるとか、って話があったじゃないですか。

 子どもって生まれたときって分かんないよなって思って。だから言いたい放題言うし、怖いものなしで生きていけるよなって思ってて。子どもっていいなと思うときもあるし。でも今は私も長いこと生きてきて、まだまだ先があるけどだんだん死に近づいているとは思って。昔は考えられなかったけど、やっぱり「まあいつまででもある命ではないな」ぐらいは思うし。だから何ですかね、なんかやっぱ考え方は変わってきてるなと思って。

西川:いやいや、まだみなさん、自分が死に近づいてると思うでしょう? これがもうちょっとしたら死が向こうから近づいてくるようになります。これはだいぶ違います。それこそときどき、もう待ち伏せされてる(笑)。

E:そういうのは経験しないと分かんないなって思って。だから、男の人とかは子どもっぽいなって思ったんですけど(笑)、

西川:そんなに一概に言ったらいけませんけど、まあほぼ統計学的に真実ですね(笑)


おわりに

A:
 やっぱり何かが起こらないと、認識は変わらなくって。僕がなんか今年の三月の終わりぐらいに常野雄次郎[*22]さんっていう、まあ活動家っていうかそういう、僕より二つ歳の若い人がいて。で、その人を知って一週間後ぐらいにその人が本当に死んだんです。自分より若い人が、知って一週間で死んだなっていうのが、なんかすごいこう自分の中を変えていって。なんか感じ方が変わっていったんですね。それまではなんか同じことを知ってても、同じことにしても、変わらなかったものがなんか変わっていって。今までなんかずーっとやってたことがつまらなくなったりとか、なんかそういう変化が。

[*22] 常野雄次郎(つねの ゆうじろう):1977 - 2018年 著書に『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』

西川:
 自分が知ってるやつ、仲よかったやつが全員死んだら、ほんとうに世の中ずいぶん変わります。自分の死は絶対経験できないから、人間にとって死なんてことは理解不可能だっていう言い方があります。でもね、人間、そんなわけじゃないですよ。大事にしたものが片っ端から死んでいくと、自分が死んでなくっても嫌ってほど分かるんですよ。

 自分がよしんば死んだとしても、愛する人の死を耐えるという経験がない死はけっこう薄っぺらい死だろう、みたいな気はしますよね。うん。「本当の死の意味は自分が死ぬということだ」。ハイデガー [*24] 的にはそうなるんですよ。つまり実存主義。でもああいう、あくまでも自分の体験っていうか、自分自身の問題として、自分の体から血の出るような問題を考えることだけが哲学だって言っちゃうと、ほんとうになんか狭ーい世界になっちゃう。

[*24] ハイデガー:Martin Heidegger(マルティン・ハイデッガー) 1889 - 1976年 ドイツの哲学者。

 今日の話じゃないですが、人の問題っていうか、地球の裏側の問題というか、人間とはまるで似ても似つかないようなダンゴ虫やとかの命にまで思いをはせれるって、そこに何か一脈通ずるものを感じるっていうほうが、言ってみたら、本当は深刻かもしれない。

 宇宙論の話とか最近僕、読むの好きでね。読んでたら「膨張宇宙」っていう考え方があって。まあこれを信じて読むとしたら、「この宇宙にも終わりがある」ってことになります。「へー!」みたいな感じですよ。もうなんか「意味がわからん!」みたいな感じですよ。うん、意味がわからん。

 『教養のための天文学講義』って、文系の大学生のたぶん一般教養の天文学の本を眺めたら、半径8センチで地球を大きさにすると、大気も水も0.1ミリの幅でしかないそうですね。空ってずっとあると思ってますよね? 海もものすごい深い海と思ってますよね? でも8センチで書いたら0.1ミリ。「普通の印刷やったら、この線より細いです」って書いてあるんです。

 めちゃくちゃ薄い大気と水との間で、大気と水がなくて生きられない「人」がいる。そんなふうにして、人生とか哲学とかまったく関係ないと思ってるような天文学の知見が、こう読みようによったら全然違ったように見えてきますよね。もうそれがすごいおもしろい。

B:あんまりね、あんまり天文学的な知見をそのまんまこれに当てはめたりするのは、また野暮な話で。

西川:
 当てはめてるのは、あなただけ(笑)。いや、でもやっぱり天文学とかに変換する何かが絶対にあるし、それがすごく大事だと思います。今度、釜ヶ崎芸術大学で尾久土[*25]さんっていう和歌山大学の天文学者が講座するんですよ。久々に行こうと思って。12月28日かな。みなさんも良かったらどうですか?

僕一度「宇宙とケア!」というテーマでで対談したことあるんです。今回もきっとおもしろいと思いますよ。夏祭りのとき、夏には三角公園で天体観測会をやったりとかするし。年末で、ココルーム[*25]の庭から見るのかな。ココルームはみなさん知らないと思うけど。いっぺん行ってみるといいですよ。

[*25] 尾久土正己(おきゅうど まさみ):1961年- 日本の天文学者。

[*26] ココルーム:特定非営利活動法人 こえとことばとこころの部屋(ココルーム) http://cocoroom.org/

僕一番おすすめのはココルームと、それからクリエイティブサポートレッツ[*27] はぜひ一度、見学行ったらいいと思う。

[*27]クリエイティブサポートレッツ:特定非営利活動法人クリエイティブサポートレッツ。http://cslets.net/

(第16回終了)

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