【ぼっち・ざ・ろっく!】私の尊厳を探して
後藤ひとり(以下、ぼっちちゃん)は学校というコミュニティで友達を作れず、一人で過ごしてきた子だった。アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』は、そんなぼっちちゃんが「結束バンド」に参加することになり、そこで彼女に”朝が降る”までの過程を描いた作品になる。
この”朝が降る”というワードはアルバム『結束バンド』の最終曲に置かれた――ぼっちちゃんがカバーする――『転がる岩、君に朝が降る』にちなんでいる。またアニメ最終話の題名や脚本も”朝が降る”終わり方を示唆している。しかし、この”朝が降る”とは一体何だったのだろうか。
そのヒントらしきこととして思うのは、ぼっちちゃんの姿に――私も含めて――多くの人が共感を覚えたのは、実際に学生時代を一人で過ごしてきた方々にだけではなく、友達を作って過ごしてきたはずの方々も感じていたことを、ぼっちちゃんを通して、この作品は描いていたからではないかと思う。
私たちが感じていたこと。それは本音を気兼ねなく話せるような仲間=「身内」が見つからない。あるいは、自分を「仲間」だと思ってくれている相手を見つけられない、ではないだろうか。
社会学者の宮台真司は、90年代後半から若者がこのような本音を言い合える関係を作れず連帯ができなくなっていることを指摘している。それ以前にあったオタクの蘊蓄合戦もなくなり、自分の”本当の”趣味も打ち明けない――空気読み――が当たり前になり、当たり障りのないようにキャラを演じるかのようなコミュニケーションが横行するようになった。
対人関係の不得意さから来る強烈な個性を持つぼっちちゃんに対して、彼女の素を知る虹夏や喜多ちゃん達は「(絶対に)面白いのに」と彼女のことを評する一方で、ぼっちちゃんは彼女の学校では決してそのような姿を前面に出さないよう、晒さないように立ち回っていることが伺える。もし私がぼっちちゃんと同級生となったとしても、彼女の、彼女らしさを知ることなく、卒業してしまうだろう。
そんなぼっちちゃんが、この人たちのために頑張りたいと思える人の集まり――結束バンド――と出会う。そして、バンド演奏という特殊な舞台の上で、彼女の”対人関係の不得意さ”が反転し、”ギターヒーロー”として回帰する姿が描かれる。その力を引き出すのが「仲間」であることを示唆しながら。
”朝が降る”とは、ぼっちちゃんが「仲間」を見つけ、自身の尊厳を獲得していくこと、だろう。ここで言う尊厳とは、コミュニケーションに媒介された自己価値の肌触りであり、それはあるべき場所にないものだった。
きっかけは借り物
後藤ひとり――ぼっちちゃん――が中学生時代に手に入れたもの、それは借り物であった。テレビで見た人気バンドの「バンドは陰キャでも輝けるんで」という言葉と彼らの演奏している姿を見て、ぼっちちゃんは父からギターを借り、練習を始める。
ここで彼女が借りたのはギターだけではない。演奏して輝いている姿そのものもぼっちちゃんは借りたのだ。そして、彼女は文化祭でバンド演奏をしてみんなからちやほやされたいと望むようになった。
最終話の2台目のギターとの対比によって、メタファー的に示されることは、父から借りたギターのソリッドカラーはゴールド(金)であり、彼女は妄想の中で、彼女一人が王のように金(1位)の位置に立って(ちやほやされて)いる、いうことだろう。放課後、家でひとり時間を潰しながら感じていた「このままで良いのか」という漠然な不安に対して、この妄想が解答になったのだった。
しかしながら、対人関係の不得意さからか、その一人だけちやほやされる妄想の形からゆえか、彼女は中学でバンドを組むこともなく、高校へ進学する。一方で、ネットでの演奏投稿から”ギターヒーロー”という裏面も獲得していたが、それは決して表に出ることはなかった。
「結束バンド」というホームベース
ぼっちちゃんに転機が訪れるのは高校入学後だった。公園でうちひしがれていたところ、急遽欠員の出た「結束バンド」のサポートギター役を、虹夏にお願いされる。そのまま流れでバンドのメンバーになり、またぼっちちゃんはスタジオでバイトもすることにもなる。
社会哲学者のハーバーマスは、私たちが社会を捉える際の見方を2つに分ける。1つは「システム社会(バトルフィールド)」であり、もう片方は「生活世界(ホームベース)」と呼ばれる。
「システム社会」は行政や経済の視点で(マクロから)ヒトを見たときの視点であり、ヒトを入替可能な部品のように捉える。例えば、自殺問題もこの視点から見ると、ヒトの数の減少であり、(ただの)経済的な損失と捉えられる。また私たちがコンビニや各種チェーン店の店員に接するとき、個人としてのヒトではなく、店員という(中の人が)入替可能なヒト、システムの一部としてのヒトとして捉える。
バイトももちろん「システム社会」の視点で対応を求められるのであり、ぼっちちゃんはその与えられる役割を自分が十分に果たせなさそうだと思い、足踏みをしてしまうのだ。
しかし、虹夏たちは(傍から見て十分には)役割を果たせてなさそうなぼっちちゃんに対して、役割を全うすることを押し付けることはしない。
「結束バンド」はもう1つの見方である「生活世界(ホームベース)」として「後藤ひとり」を迎え入れている。その見方の元では、ヒトはそれぞれ個としてありのまま捉えられる。代替可能なメンバーとしてではなく、「後藤ひとり」は「後藤ひとり」であると認められる。ホームベースの特徴として、同調圧力がほぼないことが挙げられ、「あなた」は「あなた」のままで良いと認められる。
私自身はっとさせられたことがある。アニメ3話を見終わった時点で、正直私はぼっちちゃんの発症に辟易としてしまっていた。しかし、虹夏は決して顔をしかめることなく「いつもこんなもんだよ」と、ぼっちちゃんをぼっちちゃんのまま受け入れている姿を見て、「ああそうか、ぼっちちゃんはもうこういう子なんだ」とストンと腑に落ちて気持ちが楽になったのを覚えている。
また「結束バンド」がホームベースとして「後藤ひとり」を捉えていると端的に感じられるのは作詞の下りだ。作詞を任されたぼっちちゃんは、歌詞はバンドの顔になりうり、色が決まるが故に「大ヒット間違いなしのバンドらしい歌詞」を(勝手に)書き下ろそうとして、リョウに一蹴される。ぼっちらくしないと。
バンド全体の色が決まるのに、リョウはぼっちの個性がそのまま出ることを厭わない。また虹夏や喜多ちゃんも、出来上がったぼっちちゃんらしい歌詞を抵抗なく受け入れていく。
OPでも利用されているアー写(アーティスト写真)は、アニメ第4話の題名「ジャンピングガール(ズ)」と「OPでジャンプするアニメは神アニメ」というネットミームも含めて、この見方の違いを鮮明に描き出している。
いわゆる”きららジャンプ”と呼ばれるもので、一見の印象としては、ぼっちちゃんの顔が沈んでおり、バンドのアー写は本当にこれでいいのか。OPで”きららジャンプの魅せ”として本当にこの一枚で良いのか、と感じてしまわないのだろうか。この感じ方、見方は「システム社会」的な見方なんだ。「OPでジャンプするアニメは~」という言葉に(まんまと)引きずられて、(社会的に)こうあるべきという像に引っ張られてしまっているんだ。
逆に「生活世界(ホームベース)」的な見方としては、このアー写が一番良い。なぜならとてもありのままのぼっちちゃんらしい、彼女ららしいから。「結束バンド」がホームベースであると示す見事な一枚なんだ。
私が今バンドやってる理由
私たちは、私が私として認められる集団にいるとき、心の底から自然と、この人たちを助けたい、支えたいという気持ちが湧いてくる。そのための力が湧いてくる。ただ一人ちやほやされたいと思っていたぼっちちゃんは「結束バンド」というホームベースに囲まれて、彼女ら――「仲間」のために弾きたいという思いを自らの内側から持つようになっていく。
初めから敵なんかいない
またぼっちちゃんは「結束バンド」や廣井を通して、自身が抱える問題点に気づいて行く。
作詞の際、勝手に忖度して自分らしくない歌詞にしたのはぼっちちゃんだった。受け容れてくれるかどうかは相手次第なのに、自分自身を見せる前に(不安で)引っ込んでしまう。まず出さないと受け入れられるかどうかもわからないのに。
廣井の荒療治は効果的だ。無理やり表現者――見せる側――として、ぼっちちゃんを舞台の上に挙げることで、さらけ出す側に追いやったのだ。そして、観客の反応から、必ずしも全員が受け入れてくれない相手(敵)だけではないことにぼっちちゃんに気づかせる。歌詞がそのまま受け入れられたように。
そして、アニメで一番のハイライトであろう『あのバンド』に至る。
ぼっち・ざ・ろっく!
「結束バンド」4人での初めてライブとなる日、台風が直撃し、バンドのコンディションは最悪になる。1曲目は酷い出来に終わり、観客が鼻で笑う様子に、虹夏や喜多ちゃんは苦笑いをして流す。しかし、ぼっちちゃんは流せない。彼女自身の言葉で言えば「真のコミュ障は逃げることもできない」。見に来てくれたファンのため、「結束バンド」のため、ぼっちちゃんは”ギターヒーロー’’を降ろすしかない。己をさらけ出すしかない。
「ロックンロール」とは「岩が転がる」ことであり、岩はビー玉のようには転がらない。それでも、転がろうとして、苦難な事でも前に進もうとする姿が”ロック”と呼ばれる。この状況を流せず、実力で黙らせるという困難な道しかぼっちちゃんには残されていない。ぼっちちゃんの”対人関係の出来なさ”は、バンド演奏という舞台において「仲間」やファンのために、”ギターヒーロー”として回帰する。この困難な道が『ぼっち・ざ・ろっく!』。このタイトルを指し示しているのではないだろうか。
朝が降る
そして、彼女が「仲間」のための行動する結果、彼女に”朝が降る”。ぼっちちゃんは「仲間」に見返される。そして、その見返された視線の先に、(求められている)自分の位置を確かに感じることができる。相手が思ってくれているという感覚が自らのかけがえのなさを感じさせる。私は取替不能な存在だという確信を享受する。
最終話で演奏される『星座になれたら』という楽曲は、この双方向に引き合う磁場をとてもロマンティックに歌い上げている。お互いにお互いを支え合う関係。ホームベースで生まれる、双方が相手を求めるエロス。最終話でとても印象的なのは、今まで俯いて演奏していたぼっちちゃんが(一瞬だけだけど)演奏中に虹夏たちの方を向いたことだった。
最終話の文化祭の場面は早々に終わり、ぼっちちゃんは壊れた父のギターの代わりに、自身で稼いだお金で自分のギターを買いに行く。彼女が惹かれたのはベースのカラーは黒のままであるが、ソリッドカラーがゴールドからシルバーへ変わったギターだった。この色の変化はもはや言うまでもないだろう。鏡の前で父のギターを掲げていた1話から、最終話では自分のギターを掲げるようになる。ぼっちちゃんは借り物から離れ、そして、朝の場面を映して作品は終わる。ひとりはもう一人じゃない。
世界は朝から始まるんだ。
おわりに
このような関係性の構築が90年代後半から若者の中で自然と形成されにくくなったという。逆に言えば、それ以前はあったということでもある。なくなった要因はいくつか挙げられているが(地域がムラ社会的な集まりから多様な価値観を持つ集団に変わった。90年代から日本で文化左翼が急旋回したなど)、単純にそれらを元に戻せば万事解決というわけではなさそうだ。また家族自体がホームベースになりえているのは、どうも現在日本では10~20家族に1家庭程度のようで、このような場所に辿り着けない子が多くいるのだろう。
90年代後半以前の方々からすると、若者世代において必要なものが奪われた感覚だろうが、物心がついたときからそれがなかった当事者世代から見ると、最初からなかったものであり、もはや探すというより(虹夏やリョウのように立ち回って)意図的に自分たちで作っていかないといけない関係なのだろう。そういう意味合いで分断された”ぼっち”な我々も、また別の「ぼっち・ざ・ろっく」な困難な道を進まなければいけない、とも言えるのではないだろうか。
『ぼっち・ざ・ろっく!』が示したのは、ホームベースを作ることができる集まりの1つが、効率的・合理的な目的達成への圧力が比較的少なく、「システム社会」的にヒトを捉えない、”バンド”という集まりだということだろう。この時代における”バンド”ものというジャンルの神髄を見せられた気がする。とはいえ、ホームベースの作成において、集まりの性質以前に、虹夏やリョウの立ち回りが果たした意味合いはとても大きいように思う。やっぱり、こういう日常の機微への嗅覚はきらら作品は強い。
ただ1点だけ思うのは、とてもピーキーな性質ではあるけれども、ぼっちちゃんは素で強烈な個性を持っていた子であって、その点だけをもってしても――個性を持つことを煽られるかのような時代において――彼女は視聴者から眩く見えたのではないだろうか。物語として読まれるために必要なドリブン要素であるがゆえに、物語としてはなくせはしないだろう。ただ虹夏や喜多ちゃんのように、一見は(ぼっちちゃんの才と比べて)何も持ってないかのように見える子でも、人と人の間で輝くタイプの子もいる。この空間を作り上げたのは虹夏であることは間違いないのだから。
星の輝きだけにはない、星座の美しさを目指す営み。人は幸せを「システム社会」と「生活世界(ホームベース)」のどちらに感じやすいかは、言うまでもない。合理化・効率化の先に性愛の幸いはないのだから。
参考:【宮台真司】"他人を見捨てる"「日本社会」なぜ助け合わないのか?