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「マダム・ペランに出会ったこと」

 
この原稿は、作家の辻仁成さんのエッセイ講座の課題「人生最大の失敗」について、書いたものです。

 マダム・ペランとは、私がパリでホームステイしていたときに住んでいた家のマダムの名前だ。彼女の家はパリのど真ん中、八区にあり、留学生相手の下宿屋を一九八〇年くらいからやっていた。彼女は四代続くパリジェンヌで、ブルジョア階級出身。家族は代々、パリの中心に住み、薬局を経営していた。お祖父さんは、明治時代に駐日大使をしていたこともあったそうだ。

 私はこの家族を、東京のフランス語学校の掲示板に張ってあった手書きのビラで知った。「生粋のパリジェンヌの母と娘が、パリの中心でご飯付きの下宿屋をやっている、そしてそこのご飯はとても美味しい」ということで、パリでの滞在先を探していた私は早速、そのビラを書いた日本人に連絡を取った。ビラのイラストの印象から、私は勝手に四十歳くらいのマダムが十代の娘さんと下宿屋をやっているのか、と想像していた。重厚な建物のらせん階段をのぼりドアを開けると、扉の向こうから出て来たマダムが八十歳と知った時は、正直びっくりした。一緒に下宿屋を切り盛りしている娘さんは四十歳だった。

 ブルジョア階級出身で、私が今まで出会った人の中で一番気位の高かったマダムやその娘さんと、フランス語もほとんど話せなかった私が最初から打ち解けられる訳もなく、暮らし始めた一ヶ月間は、結構悲惨だった。一月に渡仏したのだが、毎日外は寒く、太陽はほとんど出なかった。顔はガサガサになり、老婆のような自分の顔にビックリした。下宿先には何人か日本人が居たが、打ち解けることも出来ず、寒い部屋で一人、寝ていることが多かった。その下宿屋は夕飯時だけ皆で食事をするスタイルだったので、部屋で引きこもっていると、ますますマダム達から警戒されるという悪循環だった。
 
 二月からは仕事も始まり、それと同時に、フランス語学校で勉強も始めた。時々太陽も顔をのぞかせるようになり、私の生活は良い方向に少しずつ周り始めた。友人も出来、部屋に閉じ込もっている時間も少なくなった。夕飯時のフランス語での会話にも加われるようになると、マダム達からの信頼も得られるようになった。
 
 ゴールデンウィークには、母と姉夫婦が日本から遊びに来てくれた。マダムはとびきりのおしゃれをして、サロン(応接間)で家族をもてなしてくれた。サロンは文字通り、お客をもてなす部屋で、家族の写真やヨーロッパの調度品が並んでいて、私には小さな美術館のように感じられた。
 
 フランス人にとって、家族を知るというのはとても大事な事のようで、それ以降、私に対する彼らの親しみが増した。急速に距離が縮まり、まるで娘のように可愛がってもらった。「今日はどこに行くの」と聞かれ、「治安の多少悪いエリアに行く」と言うと、「そんなところには行くな、必ずタクシーで帰って来い」と言われた。自分の生まれ育った、印象派の画家たちが住み、題材として取り上げていたサンラザール駅やモンソー公園周辺を心から愛し、移民による治安悪化を日々、嘆いていた。
 
 私はこの家族から、大げさに言うと、古き良きフランス人の暮らしや伝統を学んだ。家族や友人を大切にし、食事の時間を大事にし、質素倹約を心掛ける事。居心地が良すぎて、結局、二年近くこちらにはお世話になった。
 
 仕事のトラブルや海外生活の疲れから、結局、私は日本に帰国することにした。そもそも、日本や東京での窮屈な暮らしが嫌で、フランス生活を選び、そこでの生活を楽しんでいた私は、帰国してからも東京の暮らしに馴染めず、常に東京とパリを比較した。パリに思いが強く残っているうちは、東京の良い点は見えない。パリの友達のSNSを見ては、落ち込む日々が続いた。四十二歳で娘が産まれるまで、十年以上、この状態は続いた。
 
 娘が産まれる数年前にマダムは九十三歳で亡くなった。マダムのおかげで私はフランスやパリを第二の故郷として感じる事が出来た。時にその事は私を強く苦しめる。この人生最大の失敗は逆に、人生最高の幸せかもしれない。

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