何でもない日の大切さを忘れてしまわないように
「今日はなんか楽しかったな」
そう思う日がたまにある。
そこに計画された予定はなく、ほとんどが行き当たりばったりの予定。Jなのに。
関東に越してきてサービスや物や体験など、なんでも欲しいものが揃っていて、少し手を伸ばせばそれらは容易に手に入る。
「関東は便利な街だな。」そう思った。
実際そうだしやりたいこと全てが出来るような立地性の良さがある。
しかしそれと同時に計画を立てることが多くなりやりたいことをやらねばという使命感に駆られる感じが少しした。
そこで今まではどうやって過ごして心を満たしていたのだろう、と思い振り返ってみた。
何も特別なことは思い出せなかった。
ただその時を一生懸命に生きているだけだった。
最近の私はあれもこれもやらなければ、という責任感に押しつぶされていた。良くも悪くも。しかし今日友達と合い、談笑し作業しご飯を食べまた談笑し、、その日を一生懸命に生きた。
家に着くと1人の寂しさこそあるが、今日は満足した1日だったなと思えた。
最近友達と遊ぶにも予定を必ず立ててそれ通りに動くことが多かった。それはそれで充実していて楽しいのだが、今日のような行き当たりばったりの日の方が精神的にも満足しているような気がする。
ああ、この気持ちが関東に来て薄れていっていたんだなと感じた。気を張らず等身大の私のままで今日を生きる。そんな当たり前のことが心の隅に追いやられていた。
緊張の連続が続く日々は私には少し合っていないと感じた。もちろんやらなければいけないという日もあるが(ここはJの本領を発揮することで)計画性をもって(ギリギリに終わるように計画してしまう)やってきた。それがこの夏出来なかったことが悔しく、でもこれが私の今の不甲斐なさなのだと痛感した。
なぜそうなってしまったのだろうと思い続け、ある程度解決したところで今日やっと全てが晴れた。
今更と言うべきかはもう過去の話になるので置いておくが、ようやく自分自身の在り方を探し出すことが出来た。
現代ではこのような電子媒体が多く普及し人と会わなくても連絡がとれてしまうようになった。
しかし、人と会うことはそれ以上に効果のある特効薬だと思った。
科学的根拠や言語化してそれを説明するのはとても難しいけれど、私はやっぱり人に直接会いたい。
何回か携帯等がない時代に生まれてみたかったと思うくらいにはアナログな時代が好きかもしれない。
今では絶滅しかけている年賀状の交換
学校や遊びから帰る寂しさ
休み時間に廊下や教室の後ろでたむろして談笑する
電車や新幹線に乗って景色を見てぶらり旅をする
友達と他愛の無い話ばかりする
自分のやりたいことに熱中する
失敗も沢山する
金木犀の香りで秋の訪れ、そして冬の気配を感じる
何気なく過ごした日々が今の私にとっては記憶に強く残っている。そこに携帯を触っていた記憶は入る余地すら無い。
人生は皆同じ時間ずつ過ぎていく。
記録より記憶に残るような日々を。
ナンバーワンよりオンリーワンに。
胸を張って孫に自慢できる人生を。
「私は生きていく」