古文の敬語の導入で注意していること
はじめに
先日、Twitter上で「古典文法指導の勉強会」に参加し、僭越ながら「敬語の指導」というテーマで自分の実践を報告をする機会をいただきました。せっかくなので、その内容をnoteにも残しておこうと思いました。以下が、報告をまとめたものです。
古典文法を指導するとき、どうしても「ややこしい」(生徒の言葉を借りれば「難しい」)という印象がつきまといます。その原因は様々ですが、この記事で焦点を当てたいのは、教える側からすれば「当たり前」になっている「暗黙知」が、初学者にとっては大きな壁となっているという点です。その「暗黙知」を言語化し整理することで、指導における「ややこしさ」を改善しようというのが提案です。今回は、敬語の導入を例に、「暗黙知」の言語化と整理を試みます。
報告の概要
結論から言えば、敬語において先に述べた「ややこしさ」は、①対象が古文であること、②敬意の方向と動作の主客関係を混同することに起因すると言えます。
敬語の難しさの原因をこのように仮定するとき、導入時における敬語の指導は、①口語から入り、②(仕組みだけでなく)解き方の手順を教えることが肝要であるというのが、私のお話の概要です。
考え方の前提として
本題とは関係ありませんが、お話をする前提として、指導における教室毎の個別性と類似性に触れておきたいと思います。
当然のことですが、古典文法をどこまで教えるかは、学校、教室、または教員による生徒観、指導観によって異なります。そのことを踏まえず、「私の学校では…」「私の持っているクラスでは…」といった、個別的具体的経験に基づいた議論をしてしまうと、それらは往々にして平行線を辿ってしまいます。
ところが、どのような生徒観、指導観を持っていたとしても、実際の指導においては、類似するつまづきというのが看取できます。
教員にとって「指導が(授業が)上手くいったかどうか」の感覚ではなく、生徒のつまづきを契機として指導の改善を図る、という方針のもとにお話を続けましょう。
敬語における生徒の「つまづき」
話題を敬語に戻します。敬語における生徒の「つまづき」には、
① 訳せない。
② 敬意の方向が特定できない。
③ (平叙語と合わせて)語彙が蓄えられない。(①と通底)
④ 文法事項を独立してインプットし、読解に援用できない。
などがあります。④は文法指導以外の議論が必要になりますので、今回は省きます。①と②について、指導上の改善にはどういった方法が考えられるでしょうか。
その① 訳せない
先程私は、敬語における「ややこしさ」の原因の一つに①古文であることをあげました。取りも直さず、対象とする文章が古文で書かれているということです。
平常の授業で行われていると考えられるのは、極端に言えば、古文で書かれた文章を現代語に改めながら理解していく作業です。
その文の中に敬語が含まれているということになりますと、「古文を(現代語にあらためて)読む」ということに加えて、 そもそも言葉を敬語に言い換える思考が必要になります。仮に生徒が、そもそも現代語の敬語を習得ができていないとすると、事は複雑になります。ここに更に「敬意の方向を特定せよ」ということになると、生徒からしてみれば、「敬語」という単元の学習に伴う多くの障壁があるように見えるわけで、なぜできないのかも含めて「わからない」「面白くない」という事態に陥ると言えるわけです。こうした生徒に、「中学でやったでしょう」と一言で切り捨てるのは、気の毒です。
そこで、導入において作業を単純化することにします。いきなり「古文を読む」思考と同時に敬語を扱うのではなく、スライド(下)に示したような例題を用いて、まずは口語で敬語に触れることにしました。平叙語を、敬語に改め、その種類を答えさせます。
解説の段階では、①と②の違いから、尊敬語と謙譲語の確認をします。③は、名詞にも敬称があることを、④では敬語が重ねて用いられることを確認できます。
口語での導入は、古文を読むための思考負荷が省かれている分、生徒は敬語という概念に集中して学習することができます。
解説の後で、今後古文を訳出するときに現代語の語彙として必要になる最低限の敬語表現を提示しておきます。古文の敬語と現代語の敬語が同時にわからず、生徒がパンクすることを予防する狙いがあります。
最後に、敬語の定義を生徒に伝えます。敬語でない語に対応する別の言語形式であることを、教室に合わせた表現で伝えます。
このように、「敬語でのつまづき」と、「古文でのつまづき」を分類・整理して段階的に指導しましょうというのが、私の提案です。
その② 敬意の方向
次に、古文の敬語が難しいのかの二点目「敬意の方向が特定できない」です。それは、「敬意の方向を、動作の主体/客体の関係と混同するから」です。
次のスライドに示すのは、ある便覧の敬語の解説ページ(を基に、えにぐまが作成したもの)です。世の中の多くの「文法書」「便覧」といった副教材が、次のような図解を採用しています。
おなじみの図解です。
こちらは、最高敬語と二方向への敬意です。
これらの図解は、いわば敬語の「仕組み」を教えるものです。
この図解での指導から敬意の方向の特定にチャレンジすると、謙譲語の敬意の方向を問うた際、必ずと言っていいほど次のようなやり取りが起きます。例えば、「(翁は)かぐや姫を養ひたてまつること二十余年になりぬ。」(『竹取物語』)という傍線部の敬意の方向に関するやり取りです。
生徒A「先生、なんでこの答えになるのかわかりません。」
えにぐま「見せてご覧」
生徒A「これです。どうして作者からかぐや姫への敬意なんですか。」
えに「傍線部があるのは地の文だから作者からの敬意でしょう」
生徒A「はい」
えに「で、養ひたてまつる、『養ふ』という動作をされた人は誰?」
生徒A「かぐや姫です。あ、そうかあ…でも先生、かぐや姫を養ってるのは翁ですよね?なんでここ、作者なんですか?翁からの敬意じゃないんですか?」
どうしてこのようなことが起こるのか。と、言いますと、先の図解のためではないかと思うわけです。先の図解は「仕組み」を示しますが、敬意の方向を特定するための「方法」を示すものではありません。
更に図解をよく見てみますと、動作をする人と受ける人の間に、動作方向を示す矢印があるわけです。その上で、赤い矢印で敬意の方向が示されています。
生徒は図解から読解に着手する際、この二つの矢印を混同するわけですね。登場人物を頭の中で配置して、「矢印ゲーム」を始める。その際に、動作の主体/客体関係と敬意の方向を混同する。一生懸命に学ぼうとするからこそ起きる誤解です。少し挑発的な言い方になりますが、図解が必ずしも最適な説明方法とは限らないのではないでしょうか。
「二方向の敬意」になると、図解では一層複雑なものになります。
むしろ、一方で表現そのものの方がシンプルであることを見落としているのではないかと思います。例えば、「奉り給ふ」は「奉り/給ふ」とし、「二方向」とせず、一語ずつ処理する手順だけ教えれば事足るわけです。
一つの敬語は一方向にしか敬意を示さないのですから、敬語をいくつ重ねようが、敬意の方向を特定する方法や手順は変わりません。
ということで、授業では矢印説明の図解を用いず、スライド(下)のように手順を教える指導をしています。報告用に簡略化しています。
まず手順1で文の種類を確認する。
これが地の文なら、敬意の出発点は作者(あるいは語り手)から。
会話文なら、発話者から。
次に手順2で敬語の種類を確認する。
尊敬語なら、動作主への敬意。
謙譲語なら受け手への敬意。
丁寧語なら、読み手か聞き手への敬意。
こうすれば、動作の主体客体関係を混同せず、敬意の出発点と方向を分けて処理できますから、先の生徒とのようなやり取りは起きない(はず)というわけです。
1点目でお話した敬語導入でもそうですが、複数の処理を同時に行わせるのではなく、一つずつ着実に思考させる指導が大事なのかなと考えています。
まとめ
以上、大きく2点の例をあげて、敬語の文法指導についてお話してきました。
一言でまとめますと、導入からいきなり複数の思考が必要になるものをパッキングして生徒に投げるのでなく、こちらで整理分類して、段階的に指導してあげましょうということです。教える側からすれば「当たり前」になっている「暗黙知」をいかに言語化するかが大事かなと考えます。
この考え方は何も敬語に限らず、助動詞をはじめとする古典文法の他の事項においても同様に提案できると考えています。
おわりに――報告への反応
勉強会では、報告の後で貴重な意見をいただくことができました。驚いたのは、会に参加されていた多くの先生は、これら便覧や文法書の図解を用いず、別の資料を時前で作成しているということです。
多くの教員は、このままでは生徒が混乱するということを直観的に把握しているのだろうと思いました。
ところが、そうして教員が工夫した授業を受けても、1回では理解しきれなかったり、聞き漏らしがあった場合、(生徒が真面目であればあるほど)やはり、学校から正式に配られた副教材を参照して勉強しようとするわけです。そうした先で出会う前掲の図解において、動作の矢印と敬意の矢印を混同することもあり得るだろうと思います。
くれぐれも断っておきますが、この記事(報告)は文法書や便覧の図解を批判したり、図解による指導は不適切だという旨のものではありません。文法書や便覧には、それぞれの利点が当然あります。一定の理解力がある生徒であれば、先の図解から動作の主体/客体関係と敬意の方向が異なるということを十分に把握できるわけですから。
繰り返しになりますが、教員(教える側)が「当たり前」だとしている「暗黙知」を言語(意識)化し、生徒(学ぶ側)にとって無用な混乱が生じないような指導の段取り、デザインを提案するものです。
助動詞においても、「中学でやったでしょ」を一度引っ込めて、口語での復習をしてみると、案外上手く導入できるかもしれません。
もしお役に立てたならば、サポートいただけると嬉しく思います。コーヒーを飲んで一服したいと思います。