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NEW YORK 僕の細道

「歩く」とは・・・
右足と左足を交互に動かして進む、比較的低速の運動。
シンプルだが、一歩一歩進めばどんなに遠い目的地でも、いつか必ず辿り着けるという希望の響きが、「歩く」という言葉の中にはこもっている。
僕がローカル新聞の記者カメラマンとしてなんとか歩き始めたころ、参考書のように愛読した本がある。作家の沢木耕太郎さんの「路上の視野」というエッセイ集。その本の中で、歩くことについてのこんなくだりがあった。「人は様々な理由で歩くのだが、歩くことそのものが目的の歩行がある・・・」。

もう35年以上の付き合いになるニューヨークの街を、カメラ片手に、そんなふうに歩いてきたような気がする。いつも路上にいて目をパチクリさせているコドモのように。ストリートに迷いこんで、偶然「奥の細道」の入口を見つけてしまい、嬉しさを味わわせてもらったこともある。時にザラリと、時にサラリと、時にドキッとさせられる無造作なニューヨークの質感が気に入っている。

歩くことそのものが目的の歩行を続けてゆくと、世の中の冷たい現実に覆い隠されて普段は見えにくい大切なコトが見える時がある。それは人間の愛しさと可笑しさであり、命が放つ光だと思いたい。

路上という教室で僕が教わってきたのは、「否定」ではなく「肯定」の美学だったのだろう。




誰もがユートピアの実現を信じていた古き良き時代。
マンハッタンの中心にグランドセントラル駅が完成したのは、久しく続いたそんな平和で豊かな時代に幕が下ろされようとしていた、まさにその時だった。
高さ34メートルの丸天井には北半球の10月の星座が描かれ、数十個の電球がまたたく星空は旅人たちにロマンを提供した。ところがその翌年の1914年、世界は第一次世界大戦の勃発とともに木っ端みじんに砕け散った。あれから・・・ 
夜になり朝になり、そしてまた・・・夜が来て・・・。

地球は精確な軌道上を自転しながら公転し、生きとし生けるもののために安定した環境を保ち続けてくれている。だから、明けない夜はないし、季節は巡るし、夜の闇に光る無数の星を見れば、宇宙には目的を持った、理知ある高次元の存在が在るはずだという、深遠な真理にさえ気付かせてもらえる。

さあ、朝。
もう20年近く細々と続けているニューヨーク・カメラマン・ウォーキングツアーの集合場所の時計台に向かう。グランドセントラル駅の東の大窓から朝陽がちょうど差し込んで来る季節。
人々の曳く長い影、そこには何が潜んでいるのだろう。

HAVE A NICE DAY.  
良い一日を。
今日も小さな声で言ってみる。



ストリート・アーティストが、
ある夜更け、絵具をこぼして立ち去った。
そして朝となり、それが”作品”になる、なんてこともある。
この街では・・・。


使い込まれたウォール街の路地裏。かすれた停止線と去りゆく「P」の存在感



使い込まれたミートパッキング地区の路上。いい顔のマンホールがしゃべりだす・・・



公共アートなのか、ただのイタズラなのか。作品を踏まないように歩く住人の気配り


お見合いにも見える にらみ合いにも見える 遠距離恋愛にも 米ロ首脳会談にも 見える


厳しい毎日にがんじがらめにされたとしても、自分が自転車であることを忘れたくない


コロナ禍でステイホームの夏ならば、絡みたいだけ絡ませてあげよう。(2020年の夏に思った)


街角の自転車と出会って知ったコト。NYには色色な人が住んでいるのだ。
バカボンのパパなら言うのかな
「これでイイのだ」


動物的な気配を感じて反射的にシャッターを切った。馬でもあり豹でもありハリネズミでもある



(BROOKLYN BRIDGE)











クイーンズ区のロングアイランド・シティーに友達が働いている日本食レストランがあって、食べに行った。近くに美味しいペストリーの店もあり、食後のコーヒーはそこで。コロナの間中、あえて外食を避けて生活してきた僕ら。けれど8月31日、明日から9月という区切りで、ほんの数時間の夏休みをつくった。コーヒーの後、少し歩いた。ミュージシャンの矢野顕子さんの「Piano Nightly 」というアルバムのジャケット写真が撮影されたのはこの辺りだったような気がする。久しぶりの外食という贅沢で、柔軟体操をさせてもらった心が気持ちよい。だからだろうか。殺風景な裏通り。路上駐車の青い車と赤い車が、水族館で泳ぐサカナに見えてきた。

野ざらしのボンネット 白く見えるは 波かもしれぬ


見知らぬ作者が本気で作った ミス・リバティー。右手のトーチが裸電球って、超キュート。
(LONG ISLAND CITY)



市内の観光名所には銀色の望遠鏡がいくつも設置されていてね
なかなかレトロで愛嬌のある顔つきなんだ

ある日

望遠鏡デ見るんじゃなくて 望遠鏡ヲ見ていたら
ステキなアングルありました
なつかしい人に会えました


(FIFTH AVENUE)









これぞ公共アートと評価されるべき作品。アスファルトの歩道の補修にここまで愛情を傾けられるとは。
イーストビレッジには心優しい人が住んでいる。ひび割れた世の中だけど、愛を培い保つことはできる。


渡ってみたい交差点
たまたま遭遇交差点
絶滅危惧種の交差点
イーストビレッジ・アベニューC
詩的で私的な交差点
ざっくばらんでイイ感じ
あるよでないよな交差点
ふわっと渡ればそこは3月


クズかごが体を張って、アスファルトにできた大きな穴をふさいでいた。僕は躊躇せず通りに寝そべった。ローアングルで撮れば、その雄姿を表現できると思った


ダンディーな佇まいとは言うなれば チョコレートもコーヒーも ミルクを控えたほろ苦さ
こげ茶でキメたぜ NY秋冬コレクション
(GREENWICH VILLAGE)


本屋で雨宿りした。水玉のひとつひとつが光っていた。
どんなに小さく、いびつでも水玉は光を集めるレンズ。
人生が涙色に思える日にも。





銀幕のビル街にコウモリが飛ぶ
(ROCKEFELLER CENTER)


 氷点下の噴水 
(BRYANT PARK)



冬の日に御影石のブルックリン・ブリッジが蒼いのは、寒さ際立つ赤い実のせい



以前はここにおいしいコーヒー屋があった。飾らない雰囲気がボクの中のブルックリンのイメージそのものだった。その店はもうない。コロナに連れ去られたダンディーな湯気よ、帰ってこいよ
(DUMBO)




ぶら下がっているのは扇風機のカタチをした「知恵」
(EAST VILLAGE)


ぶら下がっているのは・・
おサールさーんだよー
(CENTRAL PARK)



夕焼け小焼けの帰り道、天然記念物的な親子に遭遇。
なるほど。
自然体のこの母にして、この子らありってことなんだろう


ビレッジのコンクリートの歩道に見つけた、小さなもみじの記憶。何があったか想像してみた。 
ある日、コミュニティーの人たちが傷んだ歩道を修復した。この子たち(たぶん2人兄弟)も、お父さんと参加して、作業する人たちを、傍で頑張って応援したのだ。工事が終わった時、何か記念を残そうということになり、その「特権」がこの子たちに与えられた。
どんな大人になったかな。この写真を写してから30年も過ぎてしまった。


ありふれた小石で楽しく遊ぶにはかなりの想像力が必要で、コドモの頃には、そんな能力が誰にでもあって、それを天才っていうのかも

ねー、きみ。知ってるかい? 傍らで見守っているお父さんのあたたかさ
今は気付かない無垢の瞳も
いつか思い出すだろう 大人になった時に


キミも歩けば棒に当たる



瞳の奥の細道








飛ぶ。  マンハッタンの夏空にふんわり浮かんだ飛行船「スイカ号」


飛べ。  手を離れたスニーカーの軌跡と万有引力の法則とが拮抗している
(WILLIAMSBURG)


翔ぶ。  心の中の放物線
(WEST4th Street, Washington Square )


跳ぶ。  セントラルパークはこの子たちの通学路。  春近し 青い芝生が呼んでいる

















雨あがり シャッターチャンスの 交差点
風さえ直立 フラットアイアン
(23rd ST.  BROADWAY)


大人には聞こえない音があり
イヌとコドモだけが感づいているコトもあり

ん?

(GRAMERCY PARK)


どこにでも 甘えん坊な奴がいる
(Times Square Subway Station)


友がいて コーヒーもあるという日常
まっすぐなレール
まっすぐなプラットホーム
まっすぐな背中



「ほっとするね」とアイスティーたちがささやいている。
ノリータ地区、「カフェ・ハバナ」前、午後3時



夕闇迫るSOHOのロフト街。僕の前を吹き抜けていった風のような親子。
日常とは、「一瞬という永遠」の連続。



グランドセントラル駅の近くで、ロマンスグレーの建築家を見かけた。ビルディングをスケッチしているところだった。
I ❤  NY.    


駅の朝 影が主役の 石の床
(GRAND CENTRAL STATION)



路上スナップは 人生の糸の交差
次に交わるのはいつだろう
HELLO      GOODBYE      いつかまた















NYC
道なき道よ
「僕の細道」
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