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メガネ嗜好性について

Ⅰ.メガネに興奮する

この世界には、ありとあらゆる性的嗜好が存在することは言うまでも無いことであるが、私が特に関心を抱くのは、眼及び視覚に関する性的な嗜好である。

突然のカミングアウトで申し訳ないが、私はメガネになんらかの興奮を覚える。それが必ずしも性的なものかどうかは、私自身定かではないのであるが、ここではあくまでも、性的に興奮すると考えて話を進めよう。
先に断っておくが、ここでは、主体が男性であり、対象となっているのは、女性に関係しているメガネである。私個人としては、関係を反転しても議論は妥当すると考えているが、女性視点での何かを取りこぼしている可能性があるから、ここではあくまで私の個人的な見方の域を出ないであろう。
今回取り上げるのは、このメガネの嗜好性についてである。

Ⅱ.焦点を合わせる

メガネと一口に言っても、そのあり方は様々である。
どの状態のメガネを取り扱うのか、ここで焦点を合わせたいと思う。
まず、基本的には掛けている状態であろう。
そして、外された状態(例えば、机の上に置かれている状態)
基本的には、この2点に限られる。
逆に、まだ誰の目にも役立っていないメガネ(お店で陳列されているメガネなど)は、対象からは外れるということが言える。

この差異は何であるか。
要するに、そのメガネが誰かと関係を築いているのかということである。
メガネからある女性へと指向性(ベクトル)が向いていることが了解できれば良いということになるだろう。

Ⅲ.その人の身体的なエロさが必要か

なるほど、誰かのモノに興奮を覚えるというのであれば、例えば典型的に好きな人のリコーダーに対して興奮を覚えるのと同じ現象であるのか、とも考えられるかもしれないが、ここでは、目に固有の何かを探ってみたいのである。
従って、身体的なエロさは、十分条件にはなりうるが、必要条件ではない。
好きな人のリコーダーを漁る少年、女性社員の口づけしたコップを舐める先輩社員、団地から下着を盗むひと、などと全くパラレルに考えることはここではしていない、ということを今断っておく。

Ⅳ.目、視覚に固有のモノとは①

メガネに関して述べるには、まずは、人間の本性(ほんせい)について、そして目の機能について確認する必要があるだろう。
では、目に固有の何かとは何であるのか。2つに分けて述べる。
ここである哲学者の存在論を持ち出したい気持ちを抑えつつ、そこから取り出された世界観のみをここで書きたいと思う。

昔、世界史の先生が授業において、「歴史を考察してみて、分かったことがある。それは、人間の欲求は三大欲求の他に、支配欲求がある、ということだ。これは、三大欲求より強い欲求であることもしばしばである!」という趣旨のことを述べておられた。
簡単に言えば、人間は支配したい欲求を持つ存在であるということだ。

人間の五感の中でも視覚だけは、その情報量、攻撃性、世界の開け方において他の感覚よりも大きな何かを持っている。
見ることは、支配することだと言ったのは、サルトルであったか。
フレムトな世界から、アイゲンな世界へ、簡単に移行できるのは目があってこそである。
世界(諸対象)について、意味を与え、我のモノとすることができる器官としての目が存在している。
どこかの民族学者が、「認識とは、食うことである」と述べていたが、これは慧眼であると私は思う。

さて、見ることは支配することであり、人間には、支配したい欲求があるのであるから、「見たい」という欲求も人間には備わっていると考えていいだろう。
しかし悲しいかな、私は私の視点でしか世界を認識できないのである。
これはどうあがいても他の視点で見ることは不可能であって、仮に神の視点とか、永遠の相の元とか、第三者視点とか言ってみたところで結局は抽象的な視点しか構成されず、あくまで私が世界を見る見方は、私の視点を通じてしかないのである。

諦めてはいけない。他者の目があるではないか。
他者の目で世界を認識することができれば、私は、私だけの視点という制約を破ることができるではないか。
人間は、他者の視点を欲しがっている。
それは世界をより完全に認識し、世界を支配するためである。

視覚的に世界を支配しようとしていること、それが私だけでは、私の視点にしかならないこと。これが目に固有なことの一つ目である。


Ⅴ.目、視覚に固有のモノとは②

そして、さらには、私は見られる対象でもある。
このことは忘れてはいけない。私は他者の視線にさらされている。
必ずしも意識存在者として生存していないといけない、というわけではない。我々は、死者の視線に耐えながら日々を生きているのである。
鎮魂とは、恐れからからくるものであると考えてよいであろう。

相手の視覚を奪うことで、1点目で述べた世界を支配するということにも繋がるが、別の観点から考えれば、私は、実は見られることも欲しているということである。厳密に言えば、「見る」かつ「見られる」という矛盾に満ちた状態を欲しているのである。それは、何故か。
私は、私についても知りたいと思うからである。
私は、私の視点であるとき、私の視点を自身で見ることはできない。
有名な意識の無限後退を喚起して頂ければ幸いである。
いずれにしても他者の視点が必要である。

先に、先生の発言から、人間には支配欲求があると述べたが、これはもちろん私自身についての支配も行わなければならない。そして逆に言えば、先に私とは何であるのか、私を全面的に知りたいという欲求があり、世界-内-存在として、世界にも支配の目を向けていると考えることも出来る。
私個人の考えでは、先に、「私とは何か?」というこの偶然性に対する回答を欲しているのだ、と言いたいところだが、ここでどちらが最初の、根源的な欲求であるかは、議論しない。

(目に固有なものとして2つに分けたが、実際のところ綺麗に分けることはできない、というより適切ではないだろうと思われる。)

Ⅵ.目、視覚まとめ

まとめよう。人間には、世界を、そして私を知りたい、支配したいという欲求がある。そして、それを全面的に達成するには、他者の視線、視点が必要なのである。
目に固有、という強い表現を使用したが、実は実際のところ目というより「意識」が必要なのである。そして、もちろん目が、その他者の意識をありありと映している器官である、ということ言えるだろう。
要するに、我々は、他者の目が欲しいのである。
(先回、目とエロスについて書いたことも要するに同様のことを述べているに過ぎない。)

Ⅶ.メガネは目の投影

目が欲しいと言ったが、実際に目を頂くことはできない。
抉りとってみるのもいいかもしれないが、それはフィクションの世界に留めておくことが適切であろう(バタイユ『目玉の話』が表していたのはこれらのエロスではなかったか)。
しかし、メガネは、目そのものでもないし、他者の意識はすでに死んだ意識として存在しているに過ぎない。
それでも、視点が投影されたものとしてメガネを捉えることで、メガネを欲し、目的論的な観点から快楽(性的な興奮)が生じると考えている。
したがって、先に対象を絞っておいたように、メガネなら何でもよいわけではなく、人間(ここでは異性)に関連づけられたメガネでなければならいのである。
ここまで来てようやく、メガネに対しての性的な興奮を説明できたように見える。もちろん筋道としての話に過ぎないが。

Ⅷ.恋は盲目か

しかしと思う。女性が付けた、あるいは、それに紐づけられたメガネであれば何でもいいのか?先の考えで言えば、特に女性である必要は無く、目であれば性別は関係ないことになりはしないか?という疑問が出てくるのは当然である。
はっきりと申せば、全員が、メガネからその人を好きになると言うつもりは無い。
あくまで、促進、あるいは補助的な役割しかないのではないかと思う。
そもそも何故特定の人を好きになるのか?という問いが待ち構えているが、これは別に考えられるべき問である。

仮に、ここで、メガネを掛けているから好きになった、という事例を簡単に考えてみよう。
私の考えでは、全ての行動、欲求に先立つ目的がある。
誰かを好きになるのも、目的に沿ったあり方で好きになるのではないかと思う。
メガネに特徴的なのは何か。
知性、賢さ、馬鹿っぽさからのギャップ、顔を美しくさせるためのアイテム、逆にメガネを外せば目が悪いという欠如感、などが考えられる。

私個人のレベルで言えば、やはり知性が求められる。
その人を好きになるというのに、メガネは必ずしもやはり必要ではないが、それがあることによって、知性的な面が強調されているようにも見える。
私は知性を求めているから、他者に対しても知性を、そして、その知性から認識された世界を獲得したい、といったように考えられるであろう。
ここでは、私個人の例でしかないが、メガネによって、相手に求めるものを際立たせてみることはあるように思う。

Ⅸ.まとめ
メガネ嗜好について少し書いたが、これはあくまでも少し考えた結果であり、大きな根拠をもっているわけではない。それに、人を好きになるとか、何かを直感的によいと思って興奮したりするのにも、必ず理由がなければならないとは考えていない。
したがって、これは単なる一つのペタンドリーとして見てもらえれば幸いである。






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