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社会変革と生活実態

 以前、どこまでが自衛でどこからが差別かという点を論じた(下記参照)。これは女性の自衛を念頭に書いたが、残念ながら個人の意思を尊重されることの方が少ない性的少数者にも同様のことが言える。自分を殺されずに、自分を殺さずに社会で生きるには自衛をせざるを得ない。なんとも嫌な世界だ。

 僕は女性という性別に帰属意識を持ち得なかった人間で、世間的にはノンバイナリーに該当する人間である。でもだからと言って自衛しなくて良いかと言ったらそんなことはない。そんなもの世間様からしたらお気持ち表明でしかなく自衛しない言い訳にもならない。だから知識として常日頃境界線を意識して過ごしている。特に身体上異性である場合は本当に気を抜けない。万が一があっても自己責任の社会ではそうしないと結局殺されるのは自分だから、それは致し方ないのだ。性自認は身体性から逃避させてくれるものではないことなぞ言われなくてもわかっていて、それを知らずに名乗るほど無知でもお花畑でもない。

 世間はバイナリーで性愛異性愛至上主義で性別規範主義で出生主義である。そういう社会を変えなければならないのはもっともだが、社会変革の恩恵を受けるのは行動を起こした世代ではなく、その下の世代だ。社会変革は下の世代が我々と同じような思いをしないようにという願いを込めて行われ、達せられるものでもある。呪いを引き継がないための社会変革。その利益を享受できるのは社会を変えようと今動いている世代ではない。
 そして我々も現在を生きている。救われない、過酷な現在を生きていかねばならない。従って我々は後進のために社会変革を起こしながら、そして現状は現状として受け入れて生きていかねばならない。現状を受け入れて生きるというのは、現状を前提とした立ち振る舞いをすることでもある。残念ながら性自認だけではなく社会変革を起こすことも自衛しない理由にはならない。

 それは現状の追認だと思う人もいるだろう。現状に抗ってこそ社会変革であるという考えもある。しかし、社会に対して一度に多くの要求を出すことは出来ない。その結果がマジョリティのポリコレ疲れであり、リベラル疲れでもある。その先にあるのは少数者への憎悪だ。だから、世間と調整しつつ、ちょっとずつ変えていくしかない。併存という道もある。そしてこれらは一度には出来ないから長い時間をかける必要がある。その間は、いやそうなったとしても個人が変わるとは限らないのであるから、やっぱり身体性に沿った自衛というのは欠かせない。

  もし身体性が女でなかったら…少なくとも妊孕性がなければ、飲酒も抵抗なく出来てたかもしれない。文豪や学者達がやっていたような仲間と酒を片手に朝まで語り尽くすことも出来ただろう。
ソロキャンもやってみたかったし、一人で天体観測もしてみたかった。キャンピングカーとか買って色々自力で行ってみたかった。
  しかしそれは出来ない。結局身体が女である以上自衛しなければならないから、万が一があった時自己責任になるから、やらぬに越したことはないのだ。勿論そこについて社会に何かを求めることをする気は無い。これらの行動自粛は自己判断の結果であって、じゃあリスクをとってやりたけりゃやればいいじゃんという話でしかないのだから。これからどうなるかは分からないけれども、きっとこれらはやりたかったという夢で終わるんだと思う。それもまた、仕方の無いことである。そう生まれてきてしまったのだものと諦めている。
  ここに書いたのは、ノンバイナリーだからって女の呪いから逃避できているわけでも、現実から逃避しようとしてるわけでもないことを言いたかったようにみせかけて、単に吐き出したかっただけだと思う。

  だいぶ脈絡もなくとっちらかった文章になってしまったが、イデオロギーと生活実態は別で、それはそれこれはこれで分けることも決して責められるべきことでは無いと思う。大抵人間一貫性なんて保てない。生きるためには仕方がないことだってある。そこは優先順位をつけて折り合いをつけていくしかない。そして1番は自分である。自分のことは自分でしか出来ない。遺志を継いでくれる人はいるかもしれないが、その継ぎ方が本人の希望と合致するとは限らない。世代をまたぐうちに当初と異なっていく例はいくつもある。だから、自分がやりたいと思ったことは自分がやる以外にない。自分の心身が1番大事。いのちだいじ。



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