堂本剛の... 「愛」と「自分」 について〜愛を見失ってしまう時代・自分を守り生きていく時代〜【約19,000 字】
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他...
総務省 「労働力調査」— 厚生労働省「職業安定業務統計」
堂本剛(2005)『ぼくの靴音』
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堂本剛の思想について気になった経緯とは?
小5にしてKinKi Kidsにハマったボクは小学校を卒業するまでに当時の彼らの楽曲を聴きまくったり,彼らが出演するテレビ(「新堂本兄弟」とか)を観る日々を過ごしていた。2人がデビューして間もない時期にあったとされているよくある女の子たちの会話で「KinKiのどっちが好き?わたしは剛くんかなー!」というやりとりがあったらしいが(羨ましい...!!),ハマってしばらく経った小6の段階でボクは光一のほうばかりを注目していた記憶がある。そして,小学校を卒業し,中学・高校・・・と年を重ねていきながらも飽きずに彼らの曲を聴く毎日ではあるが,段々と2人の楽曲とそれぞれのも楽曲の持つ本当の威力に気付くようになっていった...という経緯は昨日の記事「思えばボクは小学生のときからKinKi Kidsが好きだった。〜回顧録と大人になった今〜」
学年が上がっていくにつれて,まだまだ子どもながらも色んな人間関係などを経験していくなかで,気づけばボクは段々と光一よりも剛のほうに目を向けることが多くなってきていた。それは,単純に彼のビジュアル的なカッコよさももちろんあるし,前から思っていた彼の芸人的な面白さもある。
そういうのもある一方で,ボクが段々と心惹かれていったのは堂本剛の持つ思想である。「彼の思想や考え方って本当に素敵だな」と思い始めたのがいつだったのかはあまり覚えていないが,大学生あたりの段階では確実に彼の言葉を求めていた。真剣に話す彼の言葉を聴いていると,日常で色んなコミュニティーのなかで気を遣ってその場その場で振る舞い,それによって付着する心の疲れが洗い流されるような感じを抱き始めていたのだ。
ある日,久々に「新堂本兄弟」を見返しているとき,彼の言葉にビビビッとくる回があった。
それは2013年1月13日に放送されたゲストで大竹しのぶさんが出演したときの回でのこと。人生経験豊富なしのぶさんをお迎えして「男女とは?」について考えてみようというコーナーで,男女にまつわる様々なお題に対して出演者それぞれが自身の考えを開陳させるという場面があった。ボクは現在,大学院で性(ジェンダー)の研究をしている身であることと,そもそもこの分野について前々から興味を持っていたということで,この回を見返した時は非常に前のめりで視聴していた。
最初のお題は「男と女は永遠に○○○である」というもの。このお題に対してDAIGOや西川が「理解し合えない生き物」と答えたり「バラバラ、各々の存在であって欲しいものである」という武田の考えが発表された。ここでは大竹さんの「慈しみ合う者たち」という回答があって,これは結構ボクのなかではズキュンときた。愛と慈しみは相互作用的に影響しあっているために,慈しみは愛と同等に考えなければならないという勝手にボクが思っているこの思想にかなりヒットしたのだ。
では,剛は一体どのように答えたのか。一番最後に発表された剛の回答は「同じ」という,かなり意外な考え方であった。一瞬周りからやーやー言われつつも,彼はハッキリとそのココロを説明していた。
「「おまえ男のくせに」、「おまえ女のくせに」、ていう次元で生きてると、アホなんで、もう、人だから同じであるていう風に生きた方がいいですよていうことで「同じ」にしたんです。」
「ボクは「同じ」として見てたいんです。」
これを聞いて「あー,なるほどなー」と思わされた。正直,この回は何度か観たことがあって,半年前の以前にもこの考え方には何回か触れていたのだが,なぜかこの時はかなり考えさせられた。ボクは「男」だとか「女」だとかというラベリングによって何かが制約されたり強制されたりすることが子どものときから嫌いで,ここ何年かでようやく勉強するようになって,そしてようやくその気持ちが言葉になったという経緯がある。ようやく具体的な形で自身のそのような考え方を持つようになってから初めて(改めて)剛のこの言葉を聞いたからきっと感動したんだと思う。
ちなみに,このコメントのあとに光一は例えば身体的には女性より男性のほうが力があるから〜という考えをぶつけるのだが,これに関して剛は一部でこれに同意する一方で,これが全てではない(男性より女性のほうが力がある場合だって十分にある)ということで,そういう場合には女性にその力仕事的なところを委ねるという,いわゆる昔からある男女役割分業をアップデートさせたフレキシブルバージョンの考え方を説明していた。
いつかの「しゃべくり007」で剛は「仙人」という異名が付けられていた。今回ここで考えてみたいのは,一般的な次元を超越した剛の抱く「仙人」ばりの思想,とりわけ人間が備え持つ「愛」と,その基盤となる「自分」についてどのように考えているのか,また,どのような経緯でそう考えられるようになってきたのかについて,堂本剛という1人の人間がこれまでに紡いできた言葉と先人から受け継がれる思想とを合わせて考えてみたいと思う。
KinKi Kidsとして,堂本剛はどのようなメッセージを届けてきたか
剛が自身の手によって紡いだ言葉の数々はもちろんだが,そもそもKinKiの楽曲のなかには非常に多くの素敵で綺麗な言葉が存在しており,剛は光一と共に20年以上それらを唱い続けてきた。ボクは以前に「読むだけでも心が浄化されるKinKi Kidsの歌詞を見てみよう」という,いかにKinkiの楽曲にある歌詞が純粋且つ美しいかどうかをただただ愛でるnote記事を書いた。
ここで取り上げた歌詞も以下に載せてみようと思う。詩のようにして読んでほしい。
『君と僕のうた』
君が笑ってくれるなら いつまでも話をしよう
結局 僕も笑顔になれてたり
君の頑張るその背中 ずっと見守っていたい
結局 僕も勇気づけられてたり
What I can do for you
たとえそれが小さなものだったとしても
It will come back to me
もしかしたら大きな何かに変わるかもしれないから
君の手は冷たいのに 凍みるくらい冷たいのに
なぜこんなに心温くなるんだろう
君が持つ温度と僕が持つ温度が互いに触れ合うこと
それがぬくもりなんだ
『いのちの最後のひとしずく』
AH 人生はたった二秒で
AH 何もかも変わってしまう
けれど けれど…
愛して 傷付いて また抱き合う
そうしてふたりで 生きて行きましょう
いのちの最後のひとしずくまで
あなただけを あなただけを
愛してる
『もう君以外愛せない』
君が一瞬でも いなくなると
僕は不安になるのさ
君を一瞬でも 離さない 離したくない
もう君以外愛せない 他にどんな人が現れても
もう君以外愛せない 今ここに君と約束するよ
たとえこの世が滅びても
君と誓った愛は永遠だから
きっと二人は幸せさ ずっとね ずっとね
『Anniversary』
なんか不思議なんだ キミがボクを好きな
理由がわからないよ …そんなもんかな?
趣味や仕草だって 違っているけど
最近、似てきた…と 友達(まわり)に言われる
嘘吐いて キミを泣かせたあの日
ただボクは黙ったまま 何も出来ず
キミがいるだけで ありふれた日々が
鮮やかに彩られ 愛が満ちていくよ
この気持ちだけは 忘れたくないから
何気ない今日と云う日が ボクらの記念日
『まだ涙にならない悲しみが』
合鍵を外すKeyholder
君の手が泣いた
唇は誰かの名前を
隠したまま風に震えて
優しさでは
埋められない
さみしさの距離が
未来まで変えた
まだ涙にならない悲しみが
心を記憶に閉じ込めてしまう
もうどうにもならない愛もある
ほんとの愛だけは
決して消えないから
この曲は何よりも2人の曲なので,光一からも心を豊かにさせてくれる色々な言葉を聴くことができるのだが,今回は剛に焦点を当てたい記事なので,光一様からのお言葉について深掘りした記事はまた後日に...🙇♂️
以上に挙げた歌詞たちは以前にボクが好みで選んだ曲の数々のなかにあるものだ。せっかくのこの機会なので,今のボクがさらに選ぶのだとすれば,『むくのはね』,『道は手ずから夢の花』,『光の気配』を挙げていきたい。
『むくのはね』
忘れないでいたいのは
何気ない瞬間に笑った君を
ずっと僕が見てること
何もしなくていいんだ
いつも君の隣で
何年も 何十年も
優しい気持ちのまま見つめているよ
愛してる 愛してるって
細い指先でそっと
僕に触れた
君だけを
『むくのはね』は玉置浩二が作詞作曲をし,2013年にリリースされたKinKiの『L album』に収録された楽曲。当時30半ばの2人が綺麗で繊細な声で純粋なことばを歌い,当時高校生だったボクは「こういうことをちゃんと抱く大人になろう」と思ったものだ。
歌い出しの「忘れないでいたいのは 何気ない瞬間に笑った君を」という剛パートのこの歌詞は—実際は玉置さんが作詞した言葉であることは分かっているが—彼自身の想いを曲に乗せて告白しているようにボクは感じる。光一がもしこれを思ったとしても絶対に言わなさそうだけど(失礼!),剛のほうはなんだかそう想ったら何気なくこのような言葉をかけそうで,まさにこの歌詞は剛に与えられべくして与えられ,彼が歌うからこそかけがえのない言葉として輝くのである。
『道は手ずから夢の花』
手を打ち足踏み踊り出せ
左すれば誘って拓けてく
未来は見えないものだけど
道は何処までもある
道は手ずから拓け
この曲は『むくのはね』のように恋や愛についてというよりも,人生についてを唱う,これまで様々なメッセージを届けてきたKinKiにふさわしい楽曲のひとつである。
サビにあるこの歌詞には全身全霊で人生を突き進み(「手を打ち足踏み踊り出せ」),たとえ道から外れてしまったとしても今までの出会いがきっとあるべき道へ導いてくれて(「左すれば誘って拓けてく」),そしてまた歩き出すのであるという,まるでどこかの教典のような非常に考えさせられる人生の歩み方を教えてくれる。
剛に関しては「愛とは」を問うのみならず,「人生とは」や「生きるということは」について昔から本気で考え,悩んできたこと,そしてそこから導き出された一端の答えをボクらにこれまで伝えてきてくれた。そんな彼がこのメッセージを唱うからこそ,この曲の深みがさらに増すのである。
『光の気配』
どこまでいけば僕は満たされるだろう
彷徨いながら あきらめ方も知らない
ただ かすかな光の気配が
歌声のように 僕を捉えて離さないんだ
『光の気配』もさきほどの『道は手ずから夢の花』と同様,人生について唱った楽曲のひとつである。ボクはこの曲が本当に大好きで,去年の終わりから年度終わりくらいまで毎日欠かさず聴いていた。
この曲に関しては欲張りに自分語りを挟みながら自分なりに考察してみた記事を以前noteに投稿したので,ご興味があればぜひ読んでほしい。
KinKiに詳しいファンたちであれば最早常識のレベルではあるが,剛はとりわけ完璧主義者であり,負けず嫌いな性格を抱いている(というかKinKiの2人はどちらもこれらに該当する)。いつかの「新堂本兄弟」でトークを繰り広げていた,若かりし頃,剛がトイレで大きいほうをしているときに光一が10円玉でカギを解除して「開いたでー!笑」と言いながらバッと開けたら,剛が冷静に「なにしとん?」とリアクションしたという逸話があまりにもほほえましすぎて,このトークに関しては何度も見たものだ。これについて剛は,ボクは完璧主義で負けず嫌いで〜と最初に説明しながら,ここで「おおお!!」と驚いてしまうと剛のなかでは「負け」となってしまうということで,このような菩薩のように落ち着いたリアクションをとったということを言っていた(このトークでついた剛の異名は「便所菩薩」であった。「トイレの神様」とも言っていた)。
このような完璧主義や負けず嫌いがポップな方向だけに向いていればファンとしては何も心配することはないのだが,剛も光一も両方,これに留まらず仕事に対してもこのように向き合っているので,特に何度か病を患ってきた剛に関しては心配,というか「大丈夫かな...??」とこっちが勝手にそわそわしてしまいそうになる。
『光の気配』の歌詞に戻ると,サビで剛がソロで唱うこのパートは「おー,いい歌詞だなー」だけで見過ごすワケにはいかない。このメッセージには彼の実存が深く関わっているのである。
これを聴くお客さんに言葉を語りかけるというよりも,自分に問うているような感じ。アイドルが人生についての深い問いかけを唱うことはまずないので,これを聴いた1人ひとりの胸にこの言葉が植え付けられ自身のこれまでの生きてきた証を振り返ってみると同時に,音楽番組でヘッドホンを装着して左耳を守りながら繊細且つどこか強い歌唱に彼の実存的なところが見えてジンとせずにはいられなくなることだろう。
このようにして剛はKinKi Kidsとして光一と共に愛や人生について唱ってきたのである。そして,以上の曲たちはあくまでボクが好き勝手に選定したものであるため,これらが全てではなく,これらの曲以外でも愛や人生について唱ってきたすばらしい楽曲はたくさんあるし,恋抱く相手への愛のみならず,家族に抱く愛を唱った『Family〜ひとつになること』もあれば,自身の歴史を尊敬してやまないジャニーさんを絡めながらファンクに唱った『KANZAI BOYA』だってある。ボクは彼らのこれまでの楽曲を全ては聴き込んでいられていないので,もしアルバムやカップリングにこういう名曲があるよというおすすめがあればぜひ教えて頂きたいです🙇♂️
剛の紡ぐ音楽・言葉に対するボクの向き合い方
ボクらがよく目にする・耳にするKinKi Kidsとしての楽曲に込められたメッセージを見てきたところで,今度は剛自身が紡いできた曲に焦点を当て,彼の考えや思想を辿ってみようと思う。
最近の彼の作曲におけるモットーとしては初めて聴いてから永遠に”?”を浮かばせるような曲を作ることであり「彼は一体何を歌ってるんだ?」と思わせることに技巧を凝らしているようだ。とはいえ,ただ単にワケのわからない(≒無意味,無内容)曲を作ろうとしているということではない。彼はアルバム『HYBRID FUNK』をリリースする際に受けた自身で作曲することについてのインタビューで「だからと言ってわざと変なものを作ってやろうとは思っていない」,「要は知識とか作法とか段取りは無視して感覚で作っちゃってるから、みんな初めて聴いた時にちょっと脳みそバグるみたいな感じになって。それで癖になる人は入ってくるんですけど」と言っている。
たしかに『shamanippon 〜くにのうた』や『逝くの ?!』などを初めて聴いたときには「こんな歌聴いたことない!」と新し”すぎる”感触を覚える。しかも,この2曲に関してはこれを書いている今のボクがパッと思いついたものをカチャカチャと書いただけであって,他の楽曲たちにもこう思わせられるものは無数にある。『funky レジ袋』とかも...。
ただし,これらの楽曲もそうだし,我々の心にストレートに訴えかけてくれるような楽曲はもちろん,人や社会のことについて研究するボクの目線から彼の紡ぐ詞を見ると,様々な社会批評や愛などの本質的な諸現象について謳った過去の偉人たちの考えや思想とを絡めながら,この曲を通じて剛は一体どんなことを我々に届けたいのかについて考えずには居られない。特に今年においては1人で過ごす時間が例年と比べて多かったために尚更だ。
今回のこの記事では,「??」と思わせられるような一見ネタソングにも聴こえるような楽曲というよりも,涙なしには聴けない誰しもが名曲と位置付けるような楽曲たちを取り上げてその言葉たちを深堀りしてみたい。例によって,取り上げる楽曲はボクの好みで選択していく。
堂本剛と「愛」 〜愛を見失ってしまう時代...とは?〜 1/2
剛がソロとしてのデビューを飾った最初の1曲目が自身で作詞作曲を行った『街』('02)であり,1979年生まれの彼は22,3歳のときにこれを制作したといえる。これを書いているボクは今が23歳(今年24になる歳)であるが故に,当時の彼が持っていた感性がこの歳になって改めて「ものすごい!」と思わずにはいられない。
ちなみに,2001年,2002年あたりにリリースされたKinKi Kidsとしてのシングルは『ボクの背中には羽根がある』や『情熱』,『Hey! みんな元気かい?』,『カナシミブルー』,『solitude 〜真実のサヨナラ』が挙げられる。段々とKinKi色が醸し出されてきた時期である。
『街』において剛は一体どんな言葉を紡いできたのか。この曲のサビで謳われている詩がこちらだ。
愛を見失ってしまう時代だ
誰もが持っているんだ
自分を守り生きていく時代だ
だからこそ僕らが
愛を刻もう傷ついたりも
するんだけど 痛みまでも
見失いたくない
アイドルという肩書きでありながら,ボクらの思うアイドル”らしさ”から極めて離れた,時代の悲しい真実を提するこの楽曲が彼の初めての1曲である。ボクがこの曲を初めて聴いたのがいつだったのかは全く覚えていないが,少なからず小学生の頃には聴いたはず(ボクが小学校に入学したのは2002年)。中学生,高校生のころにも何度か耳にはしていたがその時には単純に「いい曲だなー,剛の声は癒されるなー」くらいにしか思わなかったのが正直なところである。
しかし大人になって今,改めてこの曲,この詩を聴いて感じて,じっとここで歌われている現実についてを考えずにはいられない。「愛を見失ってしまう時代」「自分を守り生きていく時代」...。偶然か必然か,この楽曲がリリースされた2002年というのはバブルが崩壊し,いわゆる就職氷河期が到来し,この時代,そして街に生きる大人たちは過去の盛り上がりを記憶に残しながら憂いて新しい世紀を迎えた,そんな時代だ。数字とか年表とか,目に見える資料を確認するだけでも,この辺りの年は「浮き沈み」でいうところの”沈み”の時代であることが分かる。
✔️ 職業安定業務統計(完全失業率・有効求人倍率を表したグラフ)
👉 2002年あたりに注目
※資料出所
総務省 「労働力調査」
厚生労働省「職業安定業務統計」
※注
有効求人倍率の1962年以前は学卒(中卒、高卒)の求人、求職が含まれる。
このような時代の真っ只中を東京で生きる若き剛の手によって「愛を見失ってしまう時代」「自分を守り生きていく時代」と紡がれたという事実に,我々は改めて彼の世界に向けられた,心のなかにあるアンテナに感服せざるを得ない。
エーリッヒ・フロムという20世紀を代表する精神分析学者がいる。彼の代表的な著作はいくつかあるが,その中でも有名なのが『愛するということ』(原題:"The Art of Loving)という1956年に刊行(日本語訳が出たのは1991年)された作品だ。この本のなかでフロムは「愛する」という行為は生まれもって備わっているのではなく,経験によって習得し,経験によって技術を磨いていくものであると主張し,長い年月を経て「愛についての必読書」として非常に名高く位置付けられている。古い本ではあるが,刊行されて尚,いつの時代でも読み継がれている本だ(ちなみについ最近,新訳版が出た)。
彼は「愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かち難いものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。」(p.50)という主義主張の上で,ボクらが生きる資本主義社会についてを以下のように整理し,現代人をとりまく事実を詳らかにする。
現代資本主義社会に生きる人間が抱えている問題は、次のように整理することができよう。
現代資本主義はどんな人間を必要としているだろうか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分ですすんではめこむような人間である。無理じいせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分自身の目的がなくとも、「実行せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見てすすめ」といった命令に黙々と従って働く人間である。
その結果、どういうことになるか。
現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。
エーリッヒフロム(1991)『愛するということ』pp.130-131
そもそも働くということは自身にとってかけがえのない誰かを愛し,その誰かを愛するための営為であるとフロムはいうのだが,現代をはじめとした資本主義社会はいわゆる「言いなり人間」を求め,そのような人間は結果としてあらゆる関係性から疎外されてしまうのだという。この本のなかに大人たちが苦しんだ2002年における日本をダイレクトに絡めた記述はないが,それまでの歴史をみてこの事実から生まれる悲しみの事実がより現実となったのではないかとボクはどうしても考えてしまう。
✔️ 自殺者の男女別年間推移
👉 2002年・2003年あたりに注目
※資料出所
朝日新聞デジタル(2018)「昨年の自殺者2万1140人、8年連続減 未成年は増加」https://digital.asahi.com/articles/ASL1K5QJNL1KUTFK01B.html (2020.9.10 アクセス)
果たして剛がフロムの『愛するということ』を読んだり,自殺者数や失業者数の統計を見たかどうかは正直わからないが,確実に言えることとしては東京という街に生きて,自身の実存とはかけ離れた”アイドル”という職業を全うするなかで,新たな世紀を迎えて直後の東京で彼の目には迎えたその新時代にある今が「愛を見失ってしまう時代」「自分を守り生きていく時代」と見えていたのである。
愛に関してのこの節の締め括りとして剛が2007-08年あたりに制作した名曲『Nijiの詩』にある詩を引用する。「愛を見失ってしまう時代」「自分を守り生きていく時代」に果たして自分はどう生きていき,何を後世に伝えていくべきなのだろうか,そんなことを思わせてくれるような詩である。
冷たい風が大地の
ぎりぎりを攻めて歌う
無邪気にそれをつま先で
子供達(ら)が乱している
どんな想いで時代を
生きて行くのだろうか
全身全霊の愛を
忘れずに日を跨げ
愛 暴動
奏でろ
さぁ
澄み切った アオゾラが
戻れない
あの日の傷 教えた
終わりのない涙と諦めていたら
未来(あす)のこと愛さず生きていただろう
終わりのない涙などないと
信じては
二度と来ない僕の全て抱き締めたんだ
堂本剛と「自分」 〜自分を守り生きていく時代...とは?〜 2/2
前節の「愛」についての続きとして,本節では「自分」について考えてみたい。自分にとってかけがえのない人に全身全霊の愛を向けるにあたって,自分のことを愛せない人が自分ではない何かを愛することができるのだろうか。自身に向けた愛を持って初めて,自分以外の何かに対して愛を向ける条件が揃うのだという考え方は多くの先人たちのいうことだ。
「自分」を肯定し,「自分」を愛するきっかけを与えてくれるような剛の楽曲のひとつとして『いま あなたと 生きてる』('15)を挙げたい。早速,この楽曲における冒頭の詩をみてみよう。
情けない顔しないで
誰かと同じを生きないで
あなたにだけ歌える 世界を教えてよ…
どうにもならないあの日も
訳があるはずよ 逃げずに
あなたにだけ歌える 世界を教えてよ…
この詩にあるメッセージを考えてみると,一見すると自分のことを大切に持ってくれている誰かが,今は悲しみや憂いを抱く自分に対して慰めを与えてくれるような,寄り添ってくれるような曲に見える。
しかしながら,これを「愛」と「自分」の関係性に引き寄せて考えてみると,「自分」と自分以外の誰かの間で結ばれている「愛」がどのようにして成り立っているのかをみてとることができ,より一層,この曲そしてこの詩の持つ威力を知ることだろう。
「愛」と「自分」において,前節でも紹介した『愛するということ』を著したフロムも,聖書にある「汝のごとく汝の隣人を愛せ」を引きながら以下のことをいう。
自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。
エーリッヒフロム(1991)『愛するということ』p.94
聖書にある記述に依拠したフロムの考え方として,自分自身を愛することができて初めて他人を愛することができる(=不可分の関係)というものがある。この節の冒頭でボクは「自分にとってかけがえのない人やモノに愛を向けるにあたって,自分のことを愛せない人が自分ではない何かを愛することができるのだろうか。」と問題を提起したのはまさにフロムのこのような思想に基づいて投げかけたものだ。
「自分自身を愛することによって他人を愛することができる」という考え方で『いま あなたと 生きてる』の詩をみてみると,「情けない顔しないで 誰かと同じを生きないで」では,ここにある「あなた」はきっと何かをきっかけに自信を喪失してしまい,「自分」というものを見出せない,悲しみの状態に陥っている世界線を見てとることができ,そんな「あなた」に対して「あなたにだけ歌える 世界を教えてよ…」と求めてくれる誰かの存在がここに示されている。
「あなた」を求めてくれる誰かにとっても,「あなた」が自信を喪失し,「あなた」が自身に向ける愛の灯火が消えてしまいそうになるとき,この誰かはそのような「あなた」と同じくらいに大きな問題を抱えることになる。というのも,「自分自身を愛することによって他人を愛することができる」(=不可分の関係)という本質的な考え方に立ったとき,このシチュエーションは「あなた」をかけがえのない存在であると心から思うその誰かに向けられる「あなた」の愛までもが同時に消えてしまうことを意味し,その誰かにとって代替できない愛までもが存在不可能になってしまうのである。
そう,この詩のなかにあるメッセージは,「誰か」から一方的に向けられた慰めの曲というよりも,「あなた」が自身を愛せなくなってしまうことによって,誰かの「あなた」への愛を与え,与えられたい,互いの愛の存在確立性を訴えかけるものなのである。
「どうにもならないあの日も 訳があるはずよ 逃げずに あなたにだけ歌える 世界を教えてよ…」の後,偶然だろうか,「恋していいのよ 愛していいのよ」と,剛は愛についてを唱いあげる。【「あなた」が自分を認め,愛するということ=「誰か」を認め,愛するということ】というこれまでの考え方に立つと,この愛や恋についての詩とそれまでボクらがみてきた詩との連関がみえてくることだろう。あなたにだけ歌える世界を教えてと素直に「あなた」がこれを受け止めるということは恋や愛を誰かに向けることと同じなのである。
誰かを本気で愛したいのであれば,まずは本気で自分のことを愛するべきなのだと剛は教えてくれている。
最後に,もう一言だけ添えておきたい。『いま あなたと 生きてる』に込められたメッセージを先人の知恵を借りながら深く考えてみたはいいものの,『街』にもあるように今を生きるボクらを取り巻くのは「愛を見失ってしまう時代」「自分を守り生きていく時代」だ。そして今の日本を取り巻く新自由主義の考え方は,それまでにあった社会や組織が自分を守ってくれる時代とは違って,自分の身は自分の身で守る時代に突入を意味している。それこそ,昔は新卒で会社に所属したら定年まで働き続けることが当たり前,会社組織は自分や自分の家族を社会的に助けてくれていたが,今となっては,そんなふうにボクらを守ってくれるワケでもなく,使えない人間は上の手によってクビを切ることもできる現実が存在する以上,ボクらは他者からの評価が自分の存在意義に大きな影響が与えられると考えてしまう。そして,これは社会だとか労働だとかにはとどまらず,愛などの自身にとっての実存に関わる概念にまで揺さぶりをかけてくる。
このような社会や時代を変えるのはそう容易ではない。そんな「愛を見失ってしまう時代」を「自分を守り生きていく時代」と個人のレベルに捉え直し,愛についての考え方にもう一言,先人の知を借りながら提唱したいのだ。
ボクが所属している大学院の研究室の先生(指導教員)は「生きる」や「愛する」などの人間の実存に関する著書を多く出してきた,文化人類学者の上田紀行先生という人物なのだが,彼の代表的な著作のひとつである『愛する意味』のなかでこのような愛についての提言をしている。
もし自分が他者からの評価、誰かから愛されるかどうかだけで決まってしまうのならば、誰もあなたを振り向かず、無視されるだけで、あなたは意気消沈し、生きる気力を失ってしまうでしょう。しかし、まったく違う人生のあり方があります。それは愛されることから愛することへの、愛される人から愛する人への大転換です。そのことに気づかず、単に落ち込んで過ごすのでは、あなたの人生はもったいなさすぎます。あなたの人生はもっと輝かしく、喜びに満ちたものになり得るのですから。
上田紀行(2019)『愛する意味』p.5
誰かからの愛を求め,愛されることに一番の重きを置くのではなく,自分が誰かを愛するということに重きを置くという価値観。これは,さきほどから何回も登場しているフロムの『愛するということ』でも同じような立場をとっている。上田先生の言うこのような愛の在り方についての素晴らしさの一つもみてみよう。
そうすると、私の投げかけた愛も、一度はもう戻ってこないかのように思えることもあるかもしれない。それが時間を巡って、遠いつながりのある誰かやどこかにループして再び戻ってくるかもしれないというのも、愛の素晴らしいところです。
上田紀行(2019)『愛する意味』p.34
このような考え方を剛やKinKi Kidsの言葉を借りて紐づけるのだとすれば,剛の代表曲のひとつである『縁を結いて』('11)や,これまたKinKi Kidsの代表曲のひとつである『愛されるよりも愛したい』('98)が近いとボクは考える。
「愛される」ことの素晴らしさと「愛する」ことの素晴らしさ,多くの方々にとってきっと前者のほうがその重きは大きいだろうし,自分が「愛する」よりも,自分が「愛される」というほうがなんだか稀有そうで価値高い気もすることだろう。ここまで偉そうなことを言ってきたボクも「愛する」ことこそが愛の素晴らしさなのであると心から思いたいけれど,どうしても「愛され」たいという想いもそれと同じくらいに強く思ってしまうところもがある。なかなか,長い間抱き続けていた自身の考え方を一髪で変えることは決して容易なことではないが,先人も提唱していることだし,剛やKinKiも届けていることだし,ゆっくりとこのような考え方を心に浸透させていきたいものだ。
世界の偉人と言われる他人の多くは、人生の中で過酷な逆境に遭遇しています。世間から認められない、間違っていると攻撃される、おかしな人だと軽蔑される。しかしそんなことではめげません。それは自分の中に愛があるからです。私が美しいと思うもの、素敵だと思うものを皆に届けたい。差別されている人、困窮している人を助けたい…。自分の中から湧き上がってくる愛、それが人生を支えているのです。
上田紀行(2019)『愛する意味』pp.4-5
超越次元へ駆けて「愛」と「自分」を見つめた堂本剛と現在
ここまで剛がこれまでボクたちに届けてくれた「愛」や「自分」についてをボクなりに解釈してみたが,最後に考えたいのは,堂本剛というジャニーズ事務所に属する1アイドルがなぜこれほどまでに人の実存についてを深く考えてきたのか,ということである。そもそものきっかけというか,発端は一体何なのだろう。
ボクが所属している東京工業大学大学院の環境・社会理工学院のなかにある社会・人間科学コースという研究科に中島岳志先生という主に日本の思想史について研究している政治学者の方がいる。この方の学問上における守備範囲は非常に広く,日本の政治について研究しているかと思えば,昔は文化人類学の視点からインド政治についての研究もしていた上に,日本やインドのナショナリズムについてを歴史学の観点から研究していたこともある。発表する著作や論文の数多くが様々な権威ある賞を受賞し,メディアにも度々出演する現代日本を代表する論壇客の1人だ。
東工大の大学院における社会・人間科学コースの大きな特徴として,学生と教員の距離が近いということが挙げられる。そもそも,学生の数がそんなに多くないので,少なからず同学年であれば皆顔見知りである上に,授業やゼミ以外にも自主的な研究会に先生も参加するということがしばしばあるために,密なコミュニケーションをとることができる。
ボクも入学早々,これにあやかり,研究室の先輩にお誘いを貰った,さきほどの中島先生が主催の研究会に参加し,そこで初めて先生とお会いし,自己紹介の流れで初めてお話させてもらった。その自己紹介のなかでボクが「現代日本における男性の生きづらさを文化人類学の視点から調査して,その生きやすさを求めるスケープゴートとして男性ジャニーズファンの研究をしたい」と申したところ,中島先生は「実はボクもジャニーズのことが気になったこともあって,一度研究を進めるなかで堂本剛について追いまくってたことがある」と仰り,まさかこの方が堂本剛について研究していた経緯があるだなんて夢にも思っていなかったので,非常に驚いたことがある。
堂本剛について中島先生が言及したのは現代日本における保守思想の入門書として位置付けられている『保守のヒント』という著作である。
この本の最後のほうに言及されている平成ネオ・ナショナリズムの渦中にいる若者たちの「自分探し」ブームを考察するなかで,俳優の窪塚洋介の「自分探し」思想と,我々の詳しい堂本剛における「自分探し」思想を対比させる形で考察を行っている。
そもそも,堂本剛に目をつけた理由として,中島先生はこのように仰っていた(これについては著作の中ではまとめられていない,たまたま話を聞かせてもらって知ったこと)。「テレビをつけるたびにいつもそこにいる堂本剛は,なぜ見る度に髪型が変わっているのだろうか,そしてなぜ流行りの髪型ではなく,敢えて”変”な髪型にしたり,”普通”ではないファッションを着ているのだろう」と疑問を抱いたことが,彼を注目する上での根本的なきっかけであったという。
たしかに,昔の映像をみていると,異常に長い襟足があったり,レギンスを履いてみたり,柄物のファッションを着ていたり,いつも隣にいる比較的無難な格好をすることの多い光一と比較してみるとより一層彼の独特さが誰の目から見ても,見て取れることだろう。
この節では剛がなぜ人の実存についてここまで深く考えてきたのかどうかについて考察してみるということだったが,まさにこの中島先生が調査・考察してきたことがこの疑問に対しその答えの一端を与えてくれる。
まだ剛が自身の手によって紡ぐ楽曲がまだ発表されていなかった2000年のときに雑誌Myojoで連載していた彼のエッセイのなかにあった言及を先生は引用する。
あれれ、この自分、なんかおかしい。もう誤魔化し切れないよ。気持ちを明るく盛り上げるスイッチを押そうとするんだけど、そのスイッチの場所が見つからなくなっちゃった・・・。
本当の自分を探しにいかなくっちゃ。自分がこんなんで誰に夢を与えられんねん。
堂本剛(2002)『ぼくの靴音』p.95
音楽番組やバラエティ番組では明るく,皆を笑わせるようなことを言ったりする一方で,考えていることは苦悩にまみれていて,常に苦しみを抱いているような文言が以上をはじめ,節々に見られていたのがこの時期だ。この時によく剛が出していたワードが「自分探し」や「本当の自分」であった。
先生の調査のなかで剛は2004年あたりになってくると,度々「神」という極めて遥かな外の世界へ目を向けるような思想が芽生えてきたことを確認している。
堂本剛の「自分探し」は、次第に「超越的なるもの」へシフトし、セカイのなかの自己をとらえる視点を表現し始めている。
—自分探しから「超越」へ。
中島岳志(2018)『保守のヒント』p.294
アイドルという虚構を身に纏い,数えきれないほどのファンを熱狂させる職業に属しながら「本当の自分」とは一体何なのかについて考え,もがき苦しんだ彼は時を経て「神」の視点を得て超越的な立場から自身を捉え,救済の手が差し伸べられるという思想を取り入れるようになるのだ。
この本のなかでは剛の楽曲については触れられていないが,2004年にリリースされたアルバム『[si:]』にある楽曲にみられる歌詞はまだ現実的で具体的な想像を起こしやすい詩を歌い上げている一方で,2006年にENDLICHERI☆ENDLICHERI名義でリリースした『Coward』では,超越的な視点に立ち本質を歌う様相を垣間見ることができる。以下で『Coward』に収録されている楽曲の詩を見てみようと思う。
『雄』
独特なキス細かく神経噛む
マクロコスモスへの旅が癖になってる oh
何時(いつ)から決められてた二人なのかな
帰り道母の為に摘んだ草花を
風に揺らしてた季節(とき)から?
『闇喰いWind』
ピュアなままじゃ苦痛だ!
冷酷は不紳士だ!
そう吐かせてしまう時代は
曖昧 臆病だ
aishigataiga…
makeru wa shakuda...
makeru wa shakuda...
aishigataiga...
『御伽噺』
もう戻れないね
引き続き進んで行くだ・け・ね
理想で現実を断つ御伽噺
希望の船に乗せられ 運ばれてゆく
輝いて仕方のない 残酷な明日へ
ぼくが笑ってる間にね
だれかが泣いてるね
ぼくが泣いている間にね
だれかが笑えているね…
「マクロコスモスへの旅」や「そう吐かせてしまう時代は 曖昧 臆病だ」,「理想で現実を断つ御伽噺 希望の船に乗せられ 運ばれてゆく 輝いて仕方のない 残酷な明日へ」という言葉たちに見られるように,自分が存在する「今,ここ」の立場から超越次元へシフトすることによって,自分を取り巻くコスモロジー(≒世界観)を見据え,ひた隠しにされた真実を剛の目線によって暴かれる。
『保守のヒント』のなかにおいて堂本剛の思想の在り方は「精神的不安定さを抱えるメンヘラー系」(p.296)と結論付けられている。たしかに超越の視点を得るきっかけとしては言い得て妙なまとめであろう。これを発端にしてそのような視点(超越)で世の中や「自分」を見つめる事実を鑑みれば,また別の的確な表現があるかもしれないが。
ちなみに,堂本剛の対比相手となっている窪塚洋介も,問題意識としては剛と同様に「自分探し」であったり「本当の自分とは一体何だろうか」であったりについて考え,もがき苦しむ1人の若者であった。しかしながら,彼の場合は剛のように神の視点といった超越的な視点でそれについて考えるというよりも,日本におけるナショナリズムの視点に立脚していたという。窪塚洋介の思想のあり方は「感情・精神と世界の連動を志向するセカイ系」と位置付けている。
窪塚が抗おうとする日本は、欲望と権力を肥大化させたアメリカ的システムに支配され「腑抜けで去勢され」た現代の日本であり、それを乗り越える為に、今こそ「真の日本」に目覚めなければならない。そして、「俺が手に入れるべき『本当の自分』は「日本が手に入れるべき『本当の日本』」とともにある(『GO』)。
中島岳志(2018)『保守のヒント』p.295
ただし,剛は窪塚洋介とは全く同じ立場とは言わないまでも「日本に生きる我々」を強く強調する楽曲をこれまでにいくつもリリースしている。そして,それは剛自身がこれまでに得てきた超越的な視点に踏襲した思想だ。これを代表するアルバムとして挙げられるのはやはり『shamanippon -ラカチノトヒ』('12)や『shamanippon -ロイノチノイ』('14)だ。ボクが研究している文化人類学ではシャーマンと呼ばれる宗教的職能者のことについてかなり多くの知見があるので,いつか文化人類学的にみるshamanipponについてまた深く考察してみようと思う。
ここまで見てきたように,堂本剛の今までに続く思想の在り方というのは,剛自身が元来的に持ち合わせていた「精神的不安定さを抱えるメンヘラー系」を発端とし,自身の在り方や生き方について苦悩するなかで超越的な視点に立脚しながら我々を取り巻く愛や時代などといったそれらの本質について常に考え,その苦しみと戦いながら音楽を武器に生きているのであると結論付けることができる。
さいごに:苦悩と不完全性は人生に意味を与える
ここまで読んでくださった読者の皆さま,本当にありがとうございます。この文章にたどり着くまでおよそ15,000字以上記述してきましたが,今までボク自身が不思議に思っていた堂本剛の思想について楽曲であったり,先人からの知恵とその言葉の数々であったりとを絡めながら考察することによって,ずっと昔から尊敬する剛にちょっとでも近づけたような感じがして,満足の感触を覚えているところであります。
けれど,彼についてまだ分からないことや不思議に思うこと,もっと知りたいと思うことはまだまだたくさんあります。この記事を書くにあたって様々な文献や楽曲にあたるなかで,新たな疑問が浮かぶことも頻繁にありました。色々と彼に想うことは無尽蔵にありますが,何よりも,これだけの奥深さを持つ人間が,今の日本を代表とするアイドル集団・ジャニーズ事務所にいてくれて,本当にありがとうという気持ちで溢れんばかりです。
今回の記事では言及できませんでしたが,改めて彼の楽曲を何十曲も聴いていくなかで『HYBRID FUNK』もかなり詩として示唆的ですね...。これについても,剛が具体的にどのような現実をみてこのような言葉を紡いできたのかを考えてみたいところです。
『HYBRID FUNK』
ひとがひとであることを悔やむような
悲しい歴史をひとは止められないでばっか
殺す 殺さない いたぶる
いずれ 死ぬ 道中にも関わらず
思想 志奏 私奏 しよう 魂を魅よう
誰かのあたしを生きる明日 目指すのは
勇者のようで勇者じゃない
虐められてること 気づいてみない?
それでは最後に,数多くの楽曲や言葉を届けてきてくれた剛が,全てにおいて大切にしてきたであろうメッセージを,先人の言葉を借りて,ここに据えて締め括りとしようと思います。
その先人はヴィクトール・フランクルという,ナチスによって強制収容所に送還された精神科医・心理学者で,極度の非人道的な環境に自身の身を置く中で見つめてきた「人間とは」「生きるとは」について触れた『それでも人生にイエスと言う』のなかでのフレーズを引用しようと思います。経験は全く異なりますが,彼も剛も,考えていることはきっと似ているんだろうなとボクは思うのです。
苦悩で意味のある人生を実現する
私たちはさまざまなやりかたで、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。
ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』pp.37-38
人間の不完全性と意味
ひとりひとりの人間は、たしかに不完全ですが、それぞれ違った仕方で、「自分なりに」不完全なのだということを忘れてはなりません。その人のやりかたで不完全なのはその人だけです。こうして、積極的に表現すると、ひとりひとりの人間が、なんらかの仕方でかけがえなく、代替不可能で、代わりのいない存在になるのです。
ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』pp.53-54
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