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赤西仁はマスコミとどう向き合ってきたのか

 つい先日,会社の先輩から「自由闊達に生きる元アイドル、メディア・広告で重用の理由」という題で書かれた対談記事を紹介された.

 メディアに携わる広告業界等のなかで,いま「元アイドル」が注目されているようだ.それは,何かと規制の多い「アイドル」という立場から離れた人たち[=元アイドル]からは「自由な姿」を見出すことができるというところに起因するものだとこの記事は述べている.

 以前までは「元アイドル」として,また別のジャンルで,または独立してアーティスト活動を行う際には「落ち目やな」とよく言われたものだし,マスコミもその風潮に便乗して,決して「良い」とは言えないバイアスに満ちた記事が蔓延していた.そんな中,いまや「元アイドル」というのは「自由の象徴」として表象されているようである.

 どの分野においても,パイオニア(先駆者)というのは何かしらの苦しみを味わうものだ.自分が見出した今まで誰も経験したことのないような事象に立ち向かい,それに向けて邁進し,たとえばそれを発信するとなったとき,よっぽどのことがない限り大衆はそれを拒絶してしまう.「そんなんできるわけないだろ」とか「アホかww」と嘲笑の的になってしまうことがしばしばある.

 以上の記事にも紹介されていたが,ボクは「自由闊達に生きる元アイドル」というタイトルを見た瞬間に想起したのが,隣にいる「新しい地図」の3人に加え,赤西仁がポッと頭に浮かんだ.以前ボクは「赤西仁/JIN AKANISHIによる覚醒」という記事を挙げたのだが,彼の周りに流されない様々な活動によってボク個人の価値観やまた,人生が大きく変わったのだという内容を紹介させてもらった.

 今思ってみると,ボクが赤西仁のことに興味を持ち始めたのはKAT-TUN時代ではなく,脱退した後であった.周りの思想にアジェンダセッティングされていれば「あーKAT-UN辞めた人でしょ?もう終わったなww」と嘲笑っていたかもしれない.しかし,ボクは昔からそんなに人に流される性格でもないからなのか,無意識的に彼に惹かれていたのか分からないが,「最近あの人なにやってるんだろうなー」と思って調べてみたのがきっかけで彼を応援するようになった.

 このマスコミ記事では「新しい地図」はじめ,赤西仁のような「元アイドル」の人たちをポジティブに捉える立場をとっている.

 ただ,少し待ってほしい.

 マスコミは今までどれだけ赤西仁のことを苦しめてきたのかについて覚えているのだろうか?どれだけ赤西仁が無意味にマスコミやメディアに恐怖を抱いていたのかを知っているかどうか?

 「マスコミ」というのは「マス・コミュニケーション」の略で,大衆相手に情報を発信する媒体だ.なので,大衆のニーズに合わせて情報発信をしていかないと現代の資本主義のなかで生きていくことはできないのだろう.

 ただ,だからといって誰かの人生を狂わしかねないような無遠慮なことをしてはいけない...とどうしても思ってしまうのはボクだけだろうか.

 いや,決してそんなことはない.小学校の道徳でも習い,人々との交流のなかで無意識ながら学ばれる「人を傷つけてはいけない」という教訓は資本主義的思想に覆されるものではないし,覆されてはいけない.今回の記事では,赤西仁がどのようにしてメディアに苦しめられ,それに対してどのように対応してきたのかどうかについて考えてみたい.

赤西仁はどう語られてきたのか

 マスコミは今までどう赤西仁と向き合ってきたのかどうかを考えるにあたって,本来であれば,今までパブリックに刊行されたゴシップ記事等々全てをかき集めてテキスト分析を行い,そこから見えるものを書いていかなければならない.しかし,これを書いている現在,頼りになるのはネットに限られ,そこで挙がっている記事から考えてみようと思う. 

 ネット上に挙がっている大衆向けに書かれた赤西仁についての記事は往往にして「女性問題」「夜遊び」についてであり,その中にちょいちょい「離婚棒読み」や「薬物疑惑」というワードが踊っている.

 たしかに仁は夜に六本木のクラブへ行って遊ぶことも決して少なくはない.海外と違って日本には「クラブ」という存在に近しい風土はないことに加え,いわゆる「純粋さ」を求められるアイドルにクラブ通いという事実はなかなかマッチせず,批判の的として取り上げやすい内容だったのであろう.

 ただ「薬物疑惑」というのはいかがなものだろうか.証拠があるのであれば,まあ仕方がないと思うが,大した根拠もないのにこれが広まれば,テロ的に赤西仁の評判やイメージが下がるだけである.

 「離婚危機」も同じように,「あいつはクラブ通いだし,遊び人だし,そろそろ離婚するだろー」というような気持ちだけで記事を挙げているのだとすれば,当事者たちの自尊心を大いに傷つけるものとして—普通であれば—訴えられてもおかしくないような事象である.

 週刊誌でこのように取り上げられてしまったり,番組等々で見られるような彼の隠しきれないマイペースさやこだわりの強さ故に,一般的な赤西仁の評判はあまり高くない.それは自身の口でも何度も言っていたことであるのと,ネット上のコメント欄では,ニュースや雑誌記事だけでしか赤西仁についての情報を得ようとしない人たちが彼を叩く姿を多く見ることができる. 

 これに対して赤西仁はどう対応してきたのか.彼は自身の武器でもある「音楽」で対抗してきた.

赤西仁の音楽とマスコミ(『A Page』/『PAPARATS』/『Pinocchio)

☆ 『A Page』

 彼がマスコミに反旗を翻して自身の気持ちを正直に吐露しはじめたのが2010年に発表した『A Page』である.

 歌詞を見てもらってわかるように,当初はマスコミによる根も葉もない批判・非難に苦しめられたことを告白していたのだが,ファンたちの声援によってレジリエンス(立ち直り)を図ることに成功し「気にしない」という戦略をとることにしたようだ.

 この歌が歌われている時の彼はいわゆる「過渡期」にあたり,もがき苦しみながらも「道」が見えてきたという印象を我々に与える.そのため,自身の解決策も述べてはいるが,比重的には「苦しみ」の告白のほうが多いことが分かるだろう.

 この曲によって彼のファンは仁が抱える苦悩を目の当たりにすることになり,「赤西仁とメディア/マスコミ」という組み合わせが意識の中に埋め込まれていくのである.

 海外のインタビューで彼は,マスコミに対する自身の思うところを曲に載せたと言う.これもかなり考えさせられるところで,なぜ彼はこの真実を日本ではなくアメリカで告白したのか?この事実からも彼が日本のメディア/マスコミに対してどのような感情を抱いているのかどうかを垣間見ることができる.


☆『PAPARATS』

 苦難を乗り越え,自身の心情を素直に爆発させているのが,日本では2011年に発表された『PAPARATS』だ.ここの歌詞は全てが本当に注目されるところではあるが,このnoteではサビに注目してみようと思う.

It’s someone else
It’s someone else
That’s what I feel
You failed sir
A fake me you created
I’m having fun
Thank you

 「それは別の誰かだ」と取れるサビ冒頭の歌詞には,「アイドルを見つめる従来的な視線でそのフォーカスを赤西仁に当てたときに見えるその像は虚像であり,実像ではない」という解釈が見出せるとボクは思う.

 そして,「あなたたちの負けだ.オレはあんたらが創出した偽物の「オレ」を楽しませてもらっている.ありがとな」(ボクの訳)と強気な態度を示す彼の姿からは,マスコミによる嘘でさえも自身の武器にしてしまう度量を感じる.

 この曲によって彼は脱皮し,「メディアが作る赤西仁」とい新たな武器を手にいれるのである.

☆『Pinocchio』

 時をしばらく経た2016年に彼は『Pinocchio』を発表した.2016年のときには独立しておよそ2年の月日が経ち,自分のやりたいことも徐々に出来始めて,脂が乗ってきた年であるといっても過言ではない.

 そこで回顧的に自身の過去を振り返りつつ,未来を歩んでいくことの決意を示したのが『Pinocchio』という楽曲である.ここでもまたサビが注目すべき点として挙げられる.

I'm a real boy
This ain't a fairy tale
And these magical lies keep flying everywhere
And I'm gonna sing out the truth so they can let me go
I don't wanna feel like I'm Pinocchio, like I'm Pinocchio

 "I'm a real boy"と"I don't wanna feel like I'm Pinocchio”が対比されているのが特徴的なこの曲からは,尚も続くメディアによるイメージ支配からの「解放」を求めるメッセージが込められている.

 また,「まるで魔法かと思わせるような自分に対する嘘がボクを解放してくれるよう,ボクは歌う」という歌詞からも彼が大衆の前で「歌う」という行為に対してどう考えているのかどうかの一端を見ることができるのだ.

 彼の真意が如実に表れているのが以下の歌詞だ.

So I cut the strings
So I can clear my mind body and everything
I don't care if they hate me, or love me, or shame me, or Judge me
I'll fly away

 「紐を切って,全てを真っさらにし,たとえ誰かが自分のことを嫌っても愛しても非難しても決めつけてきてもオレは気にしない.オレは飛び立つんだ」という内容が盛り込まれているこの歌詞にはこれからを自分の翼で羽ばたいていく上での決意を感じられる.

 この曲に関して仁自身はあるインタビューでこのようにして語っている.

──歌詞に関しては、いつものように赤西さん視線で描かれた日常の出来事(男女の機敏だったり、親しい人との関係だったり、己の人生を見つめたようなものだったり)が綴られていますが、その中でも「Pinocchio」がすごく印象に残りました。この歌詞は赤西さんのどういう気持ちから生まれたものなんですか?    赤西:僕はわりと想像で歌詞を書くことの方が多いのですが、「Pinocchio」に関しては実際の経験をもとにして書きました。主に日本で活動するアーティストや同じ業界で働いている人に向けたメッセージソングです。僕と全く同じ境遇のアーティストさんはあまりいないとは思うのですが、僕と同じように感じていたり同じような思いを抱いている人は他にもたくさんいるんじゃないかなと思うので

 あくまでも「同じ業界で働いている人に向けたメッセージソング」と表現しているが,それは「僕と全く同じ状況のアーティスト」という限定修飾がついており,自身を投影して紡がれた歌詞なようである.なので,過去/現在の赤西仁に向けた曲であるといってもいいのではないか.彼の素直な心情が垣間見れる曲となっている.


 ボクはこの曲を初めて聞いたときにあることを思い出した.これと似たような彼の心情が述べられた瞬間が過去にも存在している.それは,2010-2011年に開催されたYellow Gold Tourの冒頭シーンである.

 冒頭の独白シーンで述べられた内容・スクリプトが以下の通りである.

I’m sitting here today because of the decisions I’ve made.
So these are my last words for all of you I’ve betrayed.
The ones who love it, when I fit their mold.
Who scream and cry now saying “he’s out of control”.
Since I can remember you’ve told me what to do
The way I talk, the way I act, the way I tie my shoe.
But even then I know I had the right to decide.

Scared of punishment, I hid it deep inside.
And I’m exiled for my sins, then fuck it.
Cause I no longer want to be anyone’s puppet.

 ここでは,自身が身を置いていた世界で感じていた息苦しさを告白している.太字になっているところではこう述べられている.

「こうしろと(大人たちから)言われたことを,今でも思い出すことができる.話し方,振る舞い方,そして靴紐の結び方まで.でも,そんなときでさえも,自分には自分で決める権利を持っているということをちゃんと認識していた」


もう誰かのpuppet[=人形]にはなりたくない


 この文言から見られる彼のメッセージは極めてストレートで,衝撃的なものだ. 

 「仁はいったい誰のpuppetとして今まで振舞っていたんだろう?」という疑問が浮かばずにはいられない,イメージが大切にする「アイドル」という世界を生きるにあたって,そこでの振る舞い方というものを一体誰が彼に強制したのだろう?

 「事務所?」という考えも出てくるだろうし,アイドルを好む「多くの人々[大衆]」からの潜在的な圧力なのかもしれないし,世間のアイドル像を崩さないようキーパーとしての役割を果たす一部の「メディア」なのかもしれない.またはこれら全員ともいえるかもしれない.

さいごに

 仁を苦しめてきた要素は過去に多く存在していた.しかし今では“So I cut the strings. So I can clear my mind body and everything. I don't care if they hate me, or love me, or shame me, or Judge me. I'll fly away.”と堂々と主張できるステージに彼は立てている.

 「自由の象徴」として今後描かれていくことになる「元アイドル」に属する人間は,仁をはじめ,アイドルという世界から脱するにあたって理不尽な苦難を経験する方々が多い.仁の過渡期は自身の音楽によってなんとか支えられてきた.そんな事実を今回のnoteでは述べてきたつもりである.

 「今」を切り取って見えるその「自由」というものには量的にも質的にも根深い苦悩に裏打ちされた現実が過去にあるということを,我々は今一度認識し直していくべきだとボクは考える.



 

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