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TureDure 26 : インプロはショボい、だからいい

これから2つのことを書きます。ひとつ目はインプロという即興演劇はショボいんじゃないかということ、ふたつ目はショボいことがぼくにとってむっちゃいいっていうこと。

まずひとつ目、インプロのショボさについて。インプロは即興演劇のことを指します。台本も配役も決まっていない中で即興でストーリーを語っていきます。ここまで聞くと大体いつも「どのくらい即興なんですか?」って聞かれます(ほんとに聞かれます)。いや、ほんとに即興なんです。これが中々信じてもらえない。

ぼくはこのインプロをやったり、人にやらせたりして生きています。ぼくはインプロを作ったキース・ジョンストンというおじいちゃんが大好きで、彼の本をしゃぶるように読んでは修士論文も書いたし、50万円くらい借金をしてイギリスで開かれたワークショップに行ったんですよね(しかもウリボーパイセンとの契約だったので返済額はバブルのように膨れ上がるんですけどね)。だからインプロのことはすごい好き。でも、ぼくのやるインプロってやればやるほどなんだかショボいと感じるようになった。

なんでかって言うと、インプロって上手くいかないのがデフォだからですね。まず綺麗なストーリーはできない。できる時もあるけど、できないのがデフォ。身体は思ったように動かない、言葉は思ったように紡げない、物語は思ったように続かない、役は思ったように生きない。それでうまくできてない空気感になんとなくバツが悪くなって笑って誤魔化しちゃうまでがセットです。そのうまくできない自分を受け入れることもうまくいかないわけです。

んだけど、インプロでは失敗を許容する考えや教えもあるので、「なんだ、失敗をオープンにすればいいのかぁ!」ってなんだか承認された気分になっちゃって、それに甘えちゃって「あっちゃぁ〜失敗しちゃったぁ〜」ってわざと少し大袈裟にやってみたりする。それで周りをチラリ。そして帰り道に失敗もうまくできなかったって凹む。

自分でも何をやっているんだろうと思うくらいにぼくは何度も自分のショボさに情けなく思ってきました。インプロをやるってなんだかもっとすごいことのような気がしていたのになぁ。って思っておりました。でも、ふと、ぼくはショボさを学んでいるのではないかと考えてみたらどうだろうと思いました。つまり、ぼくは自分の中にあるかっこよさ/ショボさの二元論的な価値観にとらわれるあまり、ショボさ=ダメなことだと、あるいは強く、たくましく、スマートであらねばならないというマウンティング・カルチャーの中で孤立したインプロをしていたんじゃないかと思い始めたのです。

そこで、ふたつ目、そのショボさがいいってことです。思えば、ぼくは小学校から高校と体育会系の中で生きてきました。そこには男ノリってやつと、人との関わりを損得で考える文化と、競争原理がありました。ぼくはいわゆるおちゃらけキャラで、面白いことをしたり言ったりすることがぼくの武器でした。それはそれなりに楽しいのですが、それは生き残るための、承認を得るための、勝つための、武装です。面白いぼくというのは、人から認められたい、受け入れてもらいたい、のけ者にされたくないというモチベーションで出来た「みせかけ」のぼくです。

だからこそ、上で書いたようなインプロのショボさはぼくにとって非常に重要な意味を持ちます。なぜなら、ショボくなるというのはそのたびに少しずつこの「みせかけ」がペリペリと剥がれて弱々しい姿を晒すことだからです。マウンティング・カルチャーにいる間は、ビクビクして、おどおどしながら武器を振り回していなくてはいけませんでした。しかし、インプロの世界においてはその武器を持たずとも、むしろ持たないほうが、さらにいえば丸腰の自分のコントロールさえ仲間に手渡すことが、絶対的に居心地がいい。この経験はぼくの精神的成長を大いに助けてくれたように思います。

ぼくは、武器を振りかざすことによってではない方法で人と笑ったりしたいと願うようになってきています。インプロはこのように、もしかしたら、まっとうなショボくなり方を教えてくれるのかもしれません。え、これむっちゃ良くないですか?どうかな?うーむ。

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