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佐藤先生に教わったこと-#42

このnoteは、星功基が2003年〜2007年に慶應義塾大学佐藤雅彦研究室に在籍していたころに佐藤先生に教わったことを思い出しながら書いているものです。

少し間が空いてしまいましたが、前回の続きのトーンについてです。

#40#41で考えてきたようにトーンとは「枠外への想像のおもむき」の効用がある(ゆえに心に残る)という前提のもと、今回は「時間の切り取り」「編集」について考えたいと思います。

時間の切り取りを考えるにあたって、事例をば。

1つ目は、先生の「スコーン」。

スコーンスコーンコイケヤスコーン
スコーンスコーンコイケヤスコーン
カリッとサクッとおいしいスコーン

と、さもあたりまえかのように、謎のかけ声でステップを踏むダンス教室。

この謎がさもあたりまえかのようにというところがトーンの1つのポイントだと思います。一瞬ギョッとする違和感あるかけ声も、この世界ではさもあたりまえのように、だれも疑問に思うことなく、むしろそのかけ声があるからこそより軽やかに踊れている。そのような様子がみてとれるため、

ああ、この教室ではこれが当たり前なのであってこの切り取られた時間以外にもきっとこのようなかけ声で美しいダンスレッスンを繰り広げているに違いない。つまり、時間的な枠外への想像のおもむき、が発生しているのですね。そういう説得力があります。

2つ目の事例は、先生の映画『KINO』。

いくつかの短編が入り込んだ映画です。

写真・映像はないのですが、冒頭の作品は、シルクスクリーンでポスターがつくられる本当に美しい映像です。坦々とシルクスクリーンの作業をする職人さんたちの所作が繰り返されていくのですが、ああここで切り取られている時間以外にもこの美しい所作が繰り返されているんだろうなと想像されます。つまり、美しい繰り返しを時間的に切り取ると、それ以外の時間への想像のおもむきが発動するということです。

そして下記の画像は、KINO内に登場するまた別の短編作品。

もう違和感ありまくりのバス停での並び風景ですが、ネタばれしてしまうと要はオセロのように並びが変わっていくという不思議なルールが適用されているバス停のひとコマなんですね。スコーンと似た構造ではありますが、この謎ルールが適用されている一コマの時間を切り取ることで、この時間以外でもこの謎ルールが適用されているバス停の様子へと想像がおもむきます。街という意味では、空間的な切り取りでもありますね。つまり、このバス停以外でも、似たような謎ルールの適用がされている場所があるに違いないという想像のおもむきです。”日常の一コマ性”とでもいうべき画面のつくりと、そこに謎ルールを適用するのは、トーン的には相性がよさそうです。

さて、3つ目の事例は、先生を含むc-projectのみなさんの映画「八芳園」

我々は、人生においてごく稀に「どう振る舞えばいいのか分からない局面」に遭遇することがあります。どのような顔をしていればよいのか。何を話せばいいのか。どのように時間を過ごせばいいのか。それが分からないのです。
この作品は、日本の結婚式の最中に生まれる、そのどうしようもない時間帯を、ある特殊な手法によって表現した短編映画です。

とあります。

こればっかりはみていただかないと伝わない度マックスなんですが、とある時間を切り取ることで、画面に今までみたことのない独特としか言いようのない緊張感が、しかもそこまで緊張するわけでもなく、ゆる緊張とでもいうような独特な空気が流れていきます。

ああ、この時間を切り取ったのか。

その絶妙な切り取りが、この画面の外の時間への想像をかきたてます。

いったいどこの時間を切り取るのか。そのセンスというか、アンテナというか、着眼点というか、そこに作家性がありトーンがあるのだと思います。

でも、いったいどこの時間を切り取るか?という視点をもっておくだけでも、この時間の切り取りによるトーンづくりへとほんの少し一歩近づけるのではないでしょうか。

さて、ここまで時間の切り取りによるトーンづくりについて考察してきました。

今度は「編集」のほうにいきたいとおもいます。正直、時間と切り取りと編集はグラデーションで明確に分かれるわけではないと思うのですが、そもそもどこを時間的に切り取るかという視点と、その切り取った時間をどのような時間感覚(間隔)で見せるかという視点の違いとでもいいましょうか。わたくし星感覚でこっちは編集だなと思うものを2つセレクトしました。


1つ目は、#40でも紹介しましたスパイク・ジョーンズのナイキのCM。


ジャッジャッジャッのラストの時間の切り方。
全体的なカットのタイミング、スピード感。

この編集的な時間の刻み方が、世界観としての街のスピード感、ブランドのスピード感を体現していて、このCMの時間感覚を、ある意味、画面の枠外に持ち出してしまう、そういう力があるように感じます。

新しい刻みを得た、タータラッタッタッタッター♪  スパイク・ジョーンズの時間感覚を得た、レベルアップみたいな感じでしょうか。

ここまでくると、想像のおもむきというより、感覚のおもむきですが、まあでも似たような効用があるのではと思います。

もう1つの例が、濱口竜介さんの長回し。ここでは、PASSIONを例に考えたいと思います。

濱口さんは、重要なシーンで長回しの手法を使われることで有名ですが、わたくしは特にPASSIONの長回しが印象に残っています。

濱口さんの長回しは、そこまでの映画の時間が土台となって、その長回しがより一層きいてくる構造になっていて、その長回しをみていると、まるでその映画の「時間」の中に、入ったかのような感覚に陥ります。

なみいる時間の中でここをきりとったかーはもちろんのこと、なんといいますか、そこをあえて長回しとすることで観客の身体・心臓の鼓動が同期し、いままでは枠外への想像のおもむきという効用が発生していましたが、こちらはあえていうなら枠内、画面内への身体のおもむきが発生するとでもいいましょうか。そういう感覚に陥ります。

「時間の切り取り」のほうはまだ真似はできても、この「編集」はなかなか。天才性があるがゆえにトーンがあるのかもしれません。

最後に、これは映像がないのですが、写真家のサラ・ムーンが監督をしたCMを先生の授業で見せていただいたのですが、

サラ・ムーンの時間の編集も、なんか心にひっかかるものがありました。

時間のキワに対する感性がなんだか、コンマ何秒、自分とずれていて、そしてそれはおそらく世間一般ともずれていて、ゆえに、

作家の心性に想像がおもむく

みたいな現象が、心の中で発生しておりました。

ちなみに、映像ではないですが、サラ・ムーンの写真はこちら

「時間の切り取り」「編集」の考察は以上です。

トーンの考察、もしかしたらもう1回くらい続くかもです。

悩み悩み書いているのですが、なにかありましたらコメントいただければ幸いです。

今回もお読みくださり、ありがとうございました!

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