やらない後悔を尊重する

【概要】
「やらない」「やらない後悔」というのも悪いものでないと思う。
特に、若者に対して世の中挑戦が持て囃されるけれど。
学生は基本その身分を生かして挑戦することが是だと思うけれど、時に「後悔がありながらも何かを切って何かに集中する」という選択肢を取れることも必要になると思う。戦略的撤退的な。
だから、やりたかったけど泣く泣く諦めて少し後悔が残るような選択や決断をしても、その行動を尊重できる様でありたいなって。

以下、本文。


世の中には「やらない後悔よりやって後悔」という言葉がある。この言葉は挑戦者の背中を押すような場面で使われる。
では、挑戦が是とされがちなこの世の中で、「やらない」「やらなくて後悔」という選択や決断は常に良くないものとして扱われるのだろうか。

棋士の羽生さんと落合陽一さんの対談で、羽生さんが「豊かな人生とは後悔の多い人生」と言っていた。

後悔の多い人生が豊か?と聞いた瞬間はよくわからなかった。けれど、羽生さんが言葉を継ぐところによると、後悔の多い人生の方が充実しているのだろう、ということを含意しているらしく、はっと考えさせられた。

後悔=悪いもの、捉えてしまいがちだった僕にとって、後悔をポジティブに捉える考え方が新鮮だった。

僕の性格はよく言えば、好奇心旺盛、悪く言えば飽き性だ。
だから色々なものに手を伸ばしたくなってしまう。

けれど、将来を考える上で何かに注力して、専門性を身に付けないといけないと考えていた。
そうなると、多方面に手を出してやれるだけやってみるというこれまでのスタイルから、何かを切る、捨てる、絞る、ということをしなければいけなくなる。

できることなら全部やりたいが、自分のキャパシティが追い付かないから後悔するけれど何かを捨てないといけない。

そんな状況を招いた自分に対し、僕は自分のキャパシティが足りないのだと慨嘆していた。

けれど、その羽生さんの言葉を聞いて、僕はこう考えるようになった。ある可能性を捨てて、それもやってみたかったと後悔しながら何かに絞る、という決断、「やらない後悔」というのも悪いものではないのかもしれない。
勿論、これはただ何かやらなくて後悔するというのではなく、何かに挑戦する、注力するが故に何かを後悔の上で捨てる、ということを含意している。

最近、僕は寮長をやるという一つの選択肢を諦めた。

背中を押してくれるような言葉をくれた色々な人がいた。
・具体的には言葉にしないけど「頑張れよ」と言ってくれる先輩
・「寮長は石川しかいないと思った、待ってるよ」と言ってくれた同期
・「石川さんが寮長やるなら執行委員会やりたいです」と言ってくれた後輩
他にも冗談でも、「寮長立たないの?」と言ってくれた色々な人がいる。

皆が本気ではないだろうけれど、そこまで言ってくれる人がいて純粋に嬉しかった。
色々な理由があって冷静に考えてみて、寮長に立候補する選択肢を諦めた。けれど、寮生400人を考える自治寮で自分の考える施策を打ってみたかったし、一緒に執行委員会をやってみたい人もいたし、周りの人より自分の思考に一貫性と展望があると少なからず自信もあった。
何より期待に応えたかったという後悔が強く残る。

だからといって、とりあえず挑戦してみれば良かったというほど軽いものでもなく、それなりに大きな代償はあって、多分寮長やった方が自分の将来像に対して遠回りになる可能性があったから仕方が無いと考えている。

世間では「やらない後悔よりやって後悔」と言葉が持て囃される。
けれど、色々な挑戦をしてみたいけれど、泣く泣く何かを諦めて捨てて、迷いや後悔を抱く人もいる。
そういう人に対して、「やらない後悔」や「やらない勇気」というものに対し、理解し、尊重できる人でありたいと考えるようになった10月でした。


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