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夕立の降らない夏。

 これも全部、ノストラダムスの野郎がしくじったせいだ。あの頃のオレは愚直に信じていた。ヤツの言うところのなんちゃら大王がやって来て、何もかも全部ぶっ壊してくれるんだって。机に突っ伏してばかりの昼も、長すぎる夜も、蔑みの声や同調を意味する記号的な口角の上げ方も、おべっかも堅苦しい詰襟も何もかも、根こそぎ。

 それがどうだ。リヤカーに空き缶を山ほど積んでいた浮浪者たちはどこへいった。ブルーシートの家なんざ、もう十年は見ない。ガラケーは絶滅し、ちんけでニッチなホームページはもう見つけられやしない。メールなんて死語だ。あれほど憎かったリーゼントのヤンキーも、うるさくてすぐに体罰を振るう体育教師もどこにもいない。個性を重んじる社会というやつがやってきて、ポリティカルにコレクトで美しい社会がやってきたらしい。煙草は吸わない、居酒屋で管は巻かない、そんな綺麗な社会が。世界の終わりはどこへ行った。

 小奇麗な白いティーシャツに肌色のズボン(世間様はベージュのパンツだとか呼ぶらしい)を履いて、整えた顎鬚をぶら下げた成金や二世の小金持ちが、スカした面で雑誌のインタビューを受ける。それが今の若者にウケる。尾崎や、芥川なんかはもうウケない。ヤンキーとはヨロシクやらない。刹那的で破滅的な振る舞いは、もうダサいから誰もやらない。おかげで随分生きやすい世の中になった。みんながみんな、世界の平和を祈るんだ。学級会で言わされなくたって。

 オレは窓ガラス一つさえ割れなかったし、バイクは盗むどころか免許さえ取らなかった。髪は一度も染めなかったし、オールバックは壊滅的に似合わない。あげく今じゃ七三にスーツだ。産毛みたいな髭が顎先に少しだけ、代わりに爪ばっかり伸びやがる。ドライアイでコンタクトは出来ず、メガネは今も必需品。オレの視界はずっとフレームの中にいつも限られた。そんなオレはカバンにいつも折り畳み傘だ。なんとカバンに、いつも折り畳み傘が入ってるんだ。

 信じられるか?カバンに折り畳み傘だなんて。ベクシンスキーのページははもう擦り切れているのに。日曜日にはあの暗い曲を聴くのに。それなのに、折り畳み傘だ。この限られた視界に歯車を映しても、相変わらずスーツに袖を通して髪を七三に分け、洗剤のCMで浮き上がった油汚れみたいな愛想笑いだ。もうベロナールは手に入らない。信じられるか、三十代がやってくるだなんて。

 結局恐怖の大王に代わってやってきたのは異常気象とかいうヤツらしい。オレから夕立を奪った憎たらしいヤツだ。内に渦巻く苛立ちを自分の手首にさえ突き立てられなかったオレを、他のあらゆるものと隔てなく容赦なくずぶ濡れにしてくれる、あの慈愛に満ちた雫を。それに打ちのめされることで、身体の内と外との間の矛盾が許されるような気がしていたのだ。幼少のオレは傘を持ち歩かなかった。それが予定外に大人になった「私」のカバンの隅に、折り畳み傘が潜り込むようになった。

 いつだって夕立を待っていた。それなのに、折り畳み傘がある。いつからそこにあったんだろう。あまつさえ、その下に庇うものがスーツだとは。そのことに気がついた時、夕立はもう止んだきりだ。結局オレにとって、夕立に打たれることはカジュアルな自傷行為でしかなかったのか。この傘の下はずっと、雨音で満ちている。それは、「私」がその喉を裂いて殺してしまったオレの血の雨に違いなかった。

 ああこれも全部、ノストラダムスお前のせいだ。コロナなんか目じゃないような、安吾が腰を抜かすようなとてつもない夕立がもう来ないなんて。この視界の歯車を消し去って、眼鏡を叩き割ってくれるような、あの夕立が。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。