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代替品

 長雨の下から出て傘を畳むと、頭上の山門が作る軒の下に水滴が落ちて黒いシミを作っていった。耳に染みついていたビニールの膜に雫が弾ける音がようやく遠のき、遠く山野を濡らす音が辺りに満ちている。傘を柱に立て掛けると腰掛け、鞄からライターと、久しく箱を開けてすらいなかった煙草を取り出した。
 ジーパン越しに湿気が伝わる。腕の産毛の先まで満遍なく包んだ湿気が、煙草まで達していないかが気がかかりだった。もたれた背中に古い木の香りが染みつくような気がする。くぐる人の無くなってから久しい、山中に残されたこの門の先には本堂がある。ここへ来るまでの道はやがて、両脇から腕を伸ばしていた草木らの領分と化すだろう。人足が遠のき、誰も救わなくなった禅寺は濃密な緑に呑まれつつあった。

 人の手を離れようとしている寺院に神が手を入れる。噎せ返るような緑の下地に幾筋もの力強い幹を走らせ、足元の石段には苔を散りばめている。木立の合間から薄靄を吹き、雨垂れに濡れたそれら全ては鮮やかさを増し、そうして建物には時を施す。非人情の旅としてはまさにうってつけの佇まいであった。その美しさは到底、人為の及ぶところではない。奥深い山間の箱庭にのみ見られる神の手慰みだ。その箱庭の中で深く呼吸をする。その吸気が四肢の先まで行き届くように、脳の内を焦がすようにと。
 もう随分、非人情の旅から遠ざかっていた。それは私にとって息継ぎのように、この浮世を渡るために必要なものであったはずだったのに。以前よりもずっと、人情の旅が上手になったせいだろうか。操船の心得さえあれば、元より不要なものだったのか、それを得られないがための欠落を埋めるためのものだったというのだろうか。そんな迷いを、神に断ち切ってもらうべく船上から身を投げにやって来た。
 雨は依然として降り続いている。頭上の軒が漏らした雨垂れが細かく弾けては裾を湿らせていく。背にした門が人情を働かせていた頃に訪れていたなら、私は簡単に救われてしまったのかもしれない。神が宿るのは山のみではないのだから。日々、視界の隅に無数の神を掃き寄せてしまっているだろうことは分かっていた。見えなくなった神を、街頭の非人情を、それを必要としなくなりつつある自分を、再び水底に突き落として欲しかった。水底から乞うように腕を伸ばす日々を、神殺しの禁忌を渇望するあの焦燥を、絶え絶えに伸縮する肺の痛みを、この身体に刻みつけたかった。

 ふと、ため息が漏れる。よく、このため息に色がついていたらいいと思っていた。内側の澱が微かに紛れて出ていくのがよく見えたらいいと、声にならないのなら色がついて、もくもくと昇っていけばいいのにと。そう思って吸い始めた煙草は私の身体に一度も馴染まず、その中毒性の片鱗も見せずに去っていた。しかし微かではあるが、その頃飢えるように欲していた非人情の味がしていた。左手に握られたままだった煙草の封を切り、火を点ける。立ち上る煙からはやはり非人情の香りがする。私はそれを咥え、久方ぶりの焦燥を胸一杯に吸い込んだ。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。