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生きる相対論

こんばんは。チョウチンアンコウの提灯チロチロしてみたい今日この頃です。寒い寒い2月ももう終わりかけですが、新年度までにすべての仕事を終わらせたいものですね。日本の春はいつも遅いし、気づけばどこかに行っていいて、春になると思い出すのは冬の寒さだけ、昨年度のことなんて微塵も覚えていないくせに、夏は熱かったとか言いたくなりますよね。

今回のお話は相対論についてです。かの有名なアインシュタインは一般相対性理論を作り上げましたが、そのようなむずかしい話をしたいのではなく、字のごとく相対するということが素晴らしく有用だということをみなさんに説きたいのであります。

字を見れば、「相い対する」と描きますように、相対を行う際には登場人物が2人存在するわけです。面白いのは、3人以上は存在しません。私と対面できるのは、あなただけです。私はあなたをみて、私を評価するし、私を見つめ直してあなたを評価するわけです。正義や正しいものを定義できない人間の末路とも取れますが、簡単なものではありません。

具体的な話をしましょう。
例えば私が右に動けば、私から見た君は左に動いたように見えます。これは物理的な相対論です。例えば私のもらう給料が減れば、相対的にあなたのもらう給料は増えたことになります。「比較して」という枕言葉がつくものの多くは相対的なものの見方をしています。ただし、比較してというよりも「私を基準にして」という方がより正しいかもしれません。この相対論を使った論法は様々な場所で使えるので、その使用例をまとめてみたいと思います。

例えば世界はどうやって誕生したのかという問いがあったとしましょう。これは非常に難しく現在の科学をもってしても、誕生してマイクロ秒後からの世界は記述できるけれど、それより前は記述できません。しかし私たちは考えます。果たして世界は本当にその瞬間から始まったのだろうか。私の時間軸から見た世界は目下の世界だが、その時間で静止している世界はなにも始まっていないのです。絶対時間と絶対世界が存在し、その世界と目下の世界を相対できれば、正しい世界が生まれるかもしれません。

例えばサイコロを一つ渡されて、必ず6の目を出してくれと言われたらどうしましょう。答えは6の目の上に立つことです。重力のような馬鹿げた力のせいで、上とか下が決まってしまっています。しかし、6の目の上に立っておけば、いつでも6の目は上を向いていることがわかるでしょう。

例えばお前は仕事ができない無能だと言われたらどうしましょう。答えは明らかで、先輩あなたができすぎるからと答えるしかないでしょう。もしも先輩が仕事ができないやつだったら、ビシッと先輩の方ができてませんといえば良いと思われます。

今回相対論と銘打って、評価の方法やその基準が曖昧であることをお話ししてきました。他人からの評価のみならず、自分の評価というものは往々にして、周りの人間の言動や自分の知識を基準とした相対評価になっています。基準を社会やルールに揃えるのも重要ですが、倫理を逸脱しない程度で自分の基準を据えることが重要です。この基準は日々自分の中で変化して良いと思います。ダイエットなんて、いつでも今の自分と戦わないといけないのですから、3ヶ月で5キログラム痩せるより、昨日より0.1グラム痩せる方が気持ちとしては重要なのです。

明日は今日よりもいい日にしたいな。


これからは余談ですが、社会の基準やルールは一定であることが多く、技術の発展が起こった時か大きな災害があったときくらいしか変化しません。つまり、長期的な作戦は功を奏すのです。狙いを定めた基準を意識すれば、評価を受けることなんて簡単なことなのです。あなたの生き方や日々のメンタルヘルスを重要視するなら、日々基準は自分に持っておく方が良いし、社会的な地位や名声を上げるには社会的な基準を理解することから始めることが良いようですね。ここまでくれば、社会基準を作るということは人間にとってスアbらしく効率的な方法であることがわかりますね。

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