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後悔と珈琲はくせになる。

珈琲が好きかと聞かれたらそんなことはないとこたえる。飲みすぎると頭がフワフワして気もそぞろになるし、美味しい珈琲とそうでない珈琲のちがいが、正直なところあんまりよくわからない。

けれど、なんだかんだで毎日飲んじゃうのは、カフェインの中毒性のせいか、僕の意志の弱さのせいか。たぶん8:2で後者のせいだ。

後悔というやつもまた、珈琲のように中毒性がある。僕は過去の出来事をいじくりまわしては「あのときこうしてればなぁ、はぁ。」なんて思いながら、苦い珈琲をすする、なんてことが、まぁよくある。珈琲も後悔も、苦さのなかに甘さもあるのだ。

しかしやはりどちらも過剰摂取はよくない。

僕が人生は物語である、ということを僕はよく言う。そこには「過去のあれこれも、いまこの瞬間に語りなおすことで、あたらしい意味をあたえることができる」という考えが含まれている。

後悔というのは、過去の出来事にたいするネガティブな意味付けを、いまこの瞬間にもなぞる行為。それに対して人生を物語るということは、ネガティブな意味付けを持った出来事も、いまこの瞬間になにかポジティブな意味合いをもった出来事に意味付けしなおす行為だ。

だから、苦〜いブラックコーヒーみたいな後悔が心に広がってきたら、その経験を”物語りなおして”みる。ちょうど珈琲にミルクを注ぐみたいに、後悔にあたらしい意味を注ぐのである。そうすると、苦みと甘みがちょうどいい塩梅になるかもしれない。

後悔、ダメ絶対!というのも無理な話だし、人生100%ハッピーイエーイ、とはなれないのが人間だ。なので、後悔ともうまい付き合い方を見つけていけるといい。珈琲はブラック派、微糖派、カフェオレ派などあるみたいに、人生における苦みをどれくらい受け入れられるかも、人によって違うのだ。

ちなみに僕はカフェオレくらいがいいなぁ。あなたはどうですか?

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