「カッコよさ」を目指すことに疲れた自分への処方箋となる、「自分かわいい」という感覚
カッコよくありたい。しかも、かわいくありたい。
30歳のおっさんがなに言ってんだ、と思うかもしれませんが、最近はそんなふうに思ってます。
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誰かの生き方にふれて「カッコいい」と感じる、その感覚には、人を自発的に動かす独特の力がある。だからこそ、「カッコいい」という感覚を大切にしたいし、自分も誰かにとって「カッコいい」存在でありたい--。
先日のnoteで、「カッコよさ」についてそんなふうに書きました。
一方で、「カッコよさ」と対をなす「かわいい」という感覚も大事なんじゃないかと思っているんですよね。
たとえば次のようにツイートしたみたいに。
「カッコよさ」は、”今の自分にはないあり方への憧れ”がふくまれています。だからこそ、「あの人みたいになろう」という意志の力をもたらしてくれるわけです。
一方で、”今の自分にはないあり方への憧れ”は”今の自分のあり方の否定”をともなうことが少なくありません。
たとえば、「あの人は毎朝早く起きてnoteを書いている。それによってたくさんのファンができて、今度本を出すみたいだ。それに比べて、今の自分はいつも二度寝しちゃっていて、noteも続かない。なんてダメなんだ」。
そんなふうに思ってしまうんですね。「カッコよさ」を志向する副作用としての、自己否定です。
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そんな自己否定への処方箋として、「自分をかわいいと思う感覚」があります。
「あの人は毎朝早く起きてnoteを書いている。それによってたくさんのファンができて、今度本を出すみたいだ。それに比べて、今の自分はいつも二度寝しちゃっていて、noteも続かない。でも、そんな自分もかわいいよね」
いつもじゃないですが、最近僕はそう思えるようになりました。きっかけは星野源さんのエッセイを読んだことなのですが、それはまた今度書くとして、この「自分かわいい」という感覚はかなり精神衛生上いいですよ。
枕を使って寝る習慣がなかった人類が、はじめて枕なるものを使って「なんだこれ!めっちゃ寝心地いいじゃん!なんで今まで使ってなかったんだろう」って思ったかどうかは知りませんが、とにかくそれくらいのインパクトはあるんじゃないでしょうか。
「かわいい」という感覚には、弱さやだらしなさもひっくるめて認める、いやむしろ弱さやだらしなさをこそ価値とみなすような、ふところの深さがあります。そこが「カッコいい」との違いです。
つまり「自分かわいい」という感覚は、自分の弱さやだらしなさを愛する、ということに他なりません。
この感覚をポケットに忍ばせておくと、「カッコよさ」を志向することに疲れちゃった時にそっと取り出して、自分を癒すことができるんですね。
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今日は「カッコよさ」を志向する副作用としての自己否定をのりこえるための、「自分かわいい」という感覚についてお話ししました。
「あの人みたいにカッコよくできない自分、ダメだなぁ」って思っちゃいがちですけど、意外とまわりの人が自分を好いてくれているところって、自分が自分に対して「弱さ」だと思っていることだったりするんですよね。そのことに気づけると、「そんな自分もかわいいじゃん」って思えるようになってきますよ、きっと。
それでは、また明日。
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