男性として、“弱さ”とどう向き合うか。僕の男らしさ改善運動
男ならつよくあらねば。
と、心のどこかで思ってきた。
しんどいことがあっても誰にも打ち明けられなかったり、なにがあっても感情を見せない男性アスリートをみて憧れるもそうはなれずに凹んだり、デートはなかば強引にでも男の俺がリードするのがいいのだ! と息巻くも、緊張のあまりレストランの透明なドアに気づかず、ごすん! と頭をぶつけたり(実話)。
そんな感じで三十数年、「つよくあらねば」と「つよくあれねぇ」を行きつ戻りつしながら生きてきたいま、思う。
男らしさ、超だるい。
だって、男だって人間なんである。「漢と書いておとこ!」的な人だって、生きていれば当然、落ち込むことも泣きたくなることもあるでしょう。透明なドアに頭から突っ込むときもあるでしょう(あるよね?)。
そういうとき、「男らしさ」が邪魔をする。
いや、落ち込んでちゃだめだ、人に弱さをみせちゃだめだと。誰にも相談せずぐっとしんどさをこらえ、ひとり枕を濡らす夜が、僕にしたって一度や二度とはいわずあったのだった。
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先日取材で、「有害な男らしさ(Toxic Masculinity)」という言葉を知った。それは、こんな意味らしい。
いいねを100回くらい押したい気持ちになった。いやさ、それな!ボタンを1万回押したい気持ちになった。「男らしさ」は有害なものになりうるのだ。
その有害さは、男性自身が、何か困難を抱えたときに誰にも弱さを打ち明けられず苦しんだり、周囲から押しつけられる「男らしさ」(男なんだから我慢しろ、女をたくさん口説け、挑戦しろ、成長しろ、うんぬん)に傷ついたりすること、がひとつ。
けれどそれだけではなくて、というかおそらくそれ以上に深刻なのが、男性が「弱い立場」と勝手にみなす対象への、差別や暴力につながること。女性へのセクハラパワハラ、性暴力はその典型的な例。あとは男性同士でも、「その格好、女みたいだな」みたいないじりがあったりとかする。男らしさはだるい、どころか、加害、になるのだ。
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「男らしさ」がもたらす有害さに対して、#MeToo運動など、声をあげる女性たちがたくさんいる。
けれどやっぱりそれだけじゃなくて、男性自身が声をあげ、実践していくことが大事なんじゃないか、と思う。山を崩すには、外側だけじゃなく内側からつきくずしていったほうがいい。
たとえばTED TALKで公開されていた、Justin Baldoniさんによる「Why I’m done trying to be “man enough”(男らしくいることをやめた理由)」というトークは、「男性自身が声をあげ、実践していく」ことの大切さを感じさせてくれる、素晴らしいものだった。
でも、問題は。かなしいかな、「男らしいね」と言われると嬉しくなる自分もいるっていうことなんである。「男らしさ」がだるいと思っていながら、やっぱり「男らしさ=かっこよさ」っていうイメージの残像が、頭から拭いきれないんである。
もう、「男らしさ」って、パンツみたいなものになってるのかもしれない。履くのが当たり前になっていて、履いてることにすら気づかない。履いてないと、どうふるまっていいかわからない。
「王様は裸だ!」と言った子どもの物語があったけど、「有害な男らしさ」にとらわれた自分みたいな人間にとって、「パンツ履いとるで!」と言ってくれる人がいなければ、その存在にも気づけない。それが「男らしさ」なのだ。
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いいかげん、「男らしさ」と折り合いをつけたい。
もう自分の弱さを出せなくて孤独になったり、誰かを傷つけたりしたくないし、加害性の予感と、ときにはじっさいの加害とを無邪気に撒き散らす男性をみるにつけ、怒りと共に「自分の中にもこいつと同じ男らしさがあるのか…」なんて思って、ちょっと自己嫌悪になる。
男性として、弱さとどう向き合っていくのか。
弱さをふくむかっこよさとはどういうものか。
そんな問いを、日々の生活の中で実験して、探究していこう、と思ってる。いわば、僕の男らしさ改善運動だ。そこで得た気づきは、こうしてエッセイを書いていくことにする。週1くらいで書いて、「弱男日記」というnoteのマガジンに入れていくつもり。続くかなぁ。わかんないけど、やってみます。
「おいおい、そんなこと書いたら、男なのに情けないやつだ! なんて言われるんじゃないか?」と、僕の中の「男らしさ」が腕を掴んで引き留めようとする。上等だ。その腕を振り払って、そのまま腕ひしぎ十字固めをキメてやる! と、そんな気持ちでいる。
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