情熱(Passion)と理性のコンチェルタート クッツェー『イエスの学校時代』
J.M. クッツェーの『イエスの学校時代』について。
J.M. クッツェーは、1940年生まれの南アフリカ人作家で、2003年にノーベル文学賞を受賞しています。彼はアパルトヘイトが実施されていた南アフリカ共和国に白人として生まれ育ちました。そのためか、彼の作品の多くは現代社会における様々な“不条理”を見事に物語で表現しているように思います。
今回紹介する『イエスの学校時代』は、イエス三部作の二作目に当たる作品です。タイトルだけを見るとイエス・キリストの話かと思いますが、聖書に出てくる人物と同じ名前の人物は登場するのですが、聖書とは関係のない物語です。
一作目の『イエスの幼子時代』では、ノビージャという架空の国に移住してきた初老の男性シモンと、母親とはぐれてしまった少年ダビードの奇妙な共同生活が描かれています。
このノビージャという国は善意に溢れた管理社会なのですが、ここに住む人々は過去を捨て新しい人生を生きるために移住しており、何かに対する欲求や情熱というものを全くと言っていいほど持っていません。そのためディストピア小説の雰囲気を持った作品になっています。
二作目の『イエスの学校時代』では、少年ダビードがダンスアカデミーに入学するのですが、そこで“Passion(情熱)”がひきおこした殺人事件が起こります。ただ、“Passion(情熱)”を理解しようとしない国の人々が行う裁判の行方はどうなるのでしょう。。。?というのがだいたいのあらすじです。
この小説は、知識があればあるほど楽しめる小説になっているように思います。聖書はもちろん、殺人事件はドストエフスキーのパロディーのような雰囲気です。
その中でも特筆すべきなのは、少年ダビードの通うダンスアカデミーの教師で音楽家の名前が“アローヨ”(スペイン語で“小川”つまり、バッハ“Bach”)という点です。彼の加えて妻の名前が実際のバッハの二番目の妻と同じ“アンナ・マグダレーナ”であることからも、バッハを暗示していることは間違いないでしょう。それは、バッハの作曲した組曲の多くが、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグといった様々な舞曲から成っている事とは無関係ではないと思います。
バッハが生きたバロック芸術の特徴は、劇的な感情の表現にあると言われており、この時代に誕生した“コンチェルタート様式”(器楽と声楽の対比的に扱う音楽様式)のように様々な対比(強弱、リズムの長短や、ステレオ効果など)でそれを表現しています。この小説の登場人物たちは、“測れるもの”と“測れないもの”について議論をします。イエス・キリストの受難(“Passion”)のように人間の人知を超えた“測れないもの”を、“測れるもの”(数学のような音楽理論)で表現したバッハの音楽は、この物語の問いに対する一つの答えになり得るように感じました。(理性と情熱によるコンチェルタート様式と言えなくもない??)
バロック時代の次に来る古典派時代は、調和の時代と言われています。『イエスの学校時代』の続編『イエスの死』では、“測れるもの”と“測れないもの”の調和が描かれているのかな?と期待しながら日本語訳の出版を待っております。
この小説の始まりに、「一説によれば、続篇がうまくいった例しはない」という『続ドン・キホーテ』からの引用があります。2019年に、チェリストの山澤慧さんからの依頼で、バッハの『無伴奏チェロ組曲第5番』に繋がる短い前奏を作曲したのですが、既に完成された名作に何かを付け足すという行為も上手くいった例しもあるのかしら。。。と頭を悩ませながら作曲しました。『イエスの学校時代』のように、聖書やドストエフスキー、カフカのような著名な作家の作品を仄めかしたり、言及するような作品を書くには、知識や熟考が必要ですね。
《踊りたい気分 "Feel like dancing" 》for cello solo(2019)
【プログラムノート】
バッハの無伴奏チェロ組曲第5番は、前奏曲といくつかの舞曲から構成されています。すでに前奏曲がある作品に、さらに前奏のような音楽を足すとなると、舞曲でダンスすることを期待している人からすれば、さらにじらされることになります。よって、「早く踊りたくてたまらない!」という気分を押し出した作品にしました。
第5番は、スコルダトゥーラ(特殊調弦)によって演奏されることを前提として書かれているため、本作もそれと同じ調弦で演奏されます。
因みに、globeの《Feel like dance》のサビをモチーフにして作曲しました。
暇な人は聴き比べてください!
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