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原爆が落ちた日

その日、祖母と母と叔父は長崎にいました。

その日とは1945(昭和20)年8月9日のことです。7歳だった叔父は本河内の家の近くで蝉獲りをしていたそうです。 当時、家は山の斜面に沿うように上、中、下と3つのお屋敷に分かれていました。祖父が三菱の工場長をしていたので暮らし向きはよく家も大きかったのです。

叔父は上の家のそばで蝉取りをして遊んで、住んでいた真ん中の家に帰ってきたところでした。母も近くにいたはずですが叔父には母がどこにいたか記憶がなく、生前の母に聞いたときも記憶があいまいで覚えていませんでした。

叔父が蝉の入った虫カゴを大事に抱えて土間にいると、突然、音もなく窓の外が光ったんですって。ピカッてものすごくまぶしく。 そして次に、ド~ン!とものすごい音がして部屋全体を爆風が襲いましたが熱くは感じなかったそうです。障子やガラスは全部破れ大きなタンスは壁から飛び離れるように前方へ移動してきたらしい。

何が起きたかわからなかったけれど叔父は虫カゴを持ったまま必死で押入れの中へ飛び込みました。 真っ暗闇の押入れの中で虫カゴの蝉だけがやたらうるさくミンミン鳴いていたのを覚えているそうです。

本河内は爆心地から約3.5km離れているので直接被爆ではありませんでした。でも翌日、瓦礫の山となった長崎の町を祖母は母をおんぶして歩いたらしいです。通っていた浦上天主堂が気になったんでしょう。

叔父が通っていた伊良林小学校は遺体の焼き場になって校庭いっぱいに遺体が集められ、 焼いた煙が本河内のほうまで漂ってきたそうです。

祖母です。原爆が落ちてそれなりの月日が経過してから撮ったものでしょう

その後、祖母は母と叔父を連れて東京に来て深川に住みました。門前仲町の富岡八幡宮の辺りで屋台を引っ張ったそうです。

いろいろな人の人生が突然終わったり生き方を変えられたりしました。

祖母は1982年に母は2003年にそれぞれガンで他界しました。叔父も2003年にガンで大きな手術をしましたが幸い生還して元気に生きています。

叔父です。叔父から聞き取った手記は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に寄贈しました



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