見出し画像

さぼうるで、「鏡」と「窓」

80年代前半に通った写真学校がお茶の水と水道橋間の坂道にあったので、仲間としけ込む喫茶店はレモン画翠か神保町のさぼうると決まっていた。とくにさぼうるは洞穴系アトラクションみたいな照明のほの暗さが貧乏学生の生活の暗さとシンクロして落ち着けたし、さぼって寝ている営業マンなんかもいたりして、それはそれはくつろげる空間だったのだ。

渡部萌美さん(以下、もぇにゃむ)を撮るのに母校界隈を舞台に選んだのだけれど、最終的にさぼうるに入るつもりで撮り歩いた。学生時代のルーティンのように。画材屋さんが母体のレモン画翠のほうは喫茶店をやめてトラットリアに変わったので、想い出の喫茶店はさぼうる一択となるのだ。

画像1
画像3

さぼうるに着くと満席で、10分ほど待たなくてはならなかった。その間に、店の前に置いてある赤電話にもぇにゃむが反応した。ダイヤルに指を入れてぎこちなく回そうとしているのだが、かけ方がわからないという。もぇにゃむがこの世に生まれた頃には、ダイヤル式電話機は人々の日常の中から消え去っていたのだ。電話番号のひと数字ごと、ダイヤルをストッパーまで回しては指を離す。かけ方をレクチャーするともぇにゃむは、反動で回転しながら戻るダイヤルに「おー」と感動していた。そんな光景を目で追っていると、気持ちは学生時代にタイムスリップして行く。

画像2
画像4

僕が写真学校に通っていた頃は、1978年にニューヨークのMOMAで開催されたジョン・シャーカフスキーの企画による写真展「Mirrors and Windows - American Photography since 1960」の影響がまだ学生たちの間に色濃く残っていた。「鏡」は自己の内面を表現する手段として、「窓」は外界を探求する手段として、それぞれに分けて写真作品を展示したものだが、僕らの間では自分がミラー派なのかウインドー派なのか、果たしてどちらがより写真的であるのか、なんて青臭い話が盛り上がった。当時、酢酸の匂いが充満した安アパートで同棲していた恋人も含めて、さぼうるで時間を忘れて語り合い、気がつくと4時間も5時間も過ぎていた、なんてこともザラだった。実際には「Mirrors and Windows」は1960年以降のアメリカの写真の方向性を大きくその二つに分類しつつも実は厳密に分けられるものではないことを暗示していたのだから、議論はあまり意味がなかったのかもしれない。

でも意味ないことが楽しくて、楽しいことに意味があった。あの頃僕たちは、見るもの触れるものすべてが新鮮で、驚きに満ちていて、毎日心が揺り動かされていた。

あの頃の僕がいまの僕を見たらどう感じるのだろう。40年先の未来にもさぼうるは変わらずそこにあって、ほの暗い店内で目の前にいるモデルさんをフィルムを使わない超高感度な電子カメラで撮っている。ISO感度は20000で、レンズはT*マークのついたツァイスだ。未来の技術に驚くだろうか。とりあえず、まだ写真を撮っていることを喜ぶだろうか。

それとも、写真から卒業できていない自分に絶望するだろうか。

画像6


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?