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あの頃の

ストリートビューで若い日を過ごした駒沢の街を見た。風景や建物は様変わりしていても、道路や待並みはそう変わってはいない。
通りを挟んでマルエツの向かい側にあった居酒屋、厨房器具のショップ、パスタの店。2022年の画像に記憶の中の駒沢を再配置してみる。涙が出そうになった。
彼女と最後に会ったのは真中の交差点の角の喫茶店だった。ストリートビューでいえばauショップの2階部分がそうだったと思う。1階に何があったかは覚えていない。
モーニングサービスを食べたあと、彼女から「別れたい」と告げられた。つい1時間前には、ボクの家で一緒に朝を迎えたのに。そうくるのか。悲しさや怒りの代わりに混乱が僕を無口にさせた。
それからの日々はお察しのとおりだ。酒はというと量が増えることこそなかったが、バーボンではなくジンを好むようになった。それが何故かはわかっているが、その理由を誰にも言うつもりはない。
その頃の僕の休日といえば、図書館とウォークマンと駒沢公園。小さめのディパックに、大きめのタオル、ウォークマン、ジッポーとマルボロ、そして合羽橋で見つけたスキットル。もちろん、携帯用の灰皿を忘れない程度の良識はあった。そうだよ、あの頃は公園でタバコを吸うことが非常識とはされていなかったんだ。
悩みとか、夜の暗さなんて知らないような初夏の太陽を浴びなから、ブルース・スプリングスティーンを聞くのは、何か倒錯した気分で心地よかった。子どもたちのざわめきや、走り回る様子、自転車の騒音、大人たちの会話。目を閉じれば、それらはすべて別の世界で起こっていることに過ぎなかった。
もしあのころiPhoneがあったら、あんな贅沢な時間を過ごすことは出来なかったかもしれない。
それにしてもだ、あの頃の僕ときたら、30歳も近いというのに今でいう厨二病患者というやつだったらしい。ニューヨークの公園でもないのに、紙袋に隠したスキットルをひと目を気にする風を装って口へ運ぶ(スキットルならわざわざ紙袋にいれる必要さえないだろうに)。そんな子供じみた一人遊びが楽しかった。もちろん、女の子と一緒だとこんな恥ずかしい真似はできない。そうそう女の子の前でした恥ずかしい思いといえば、これが結構あるにはある。
一番の笑いのネタは、キッチンの天井、ガスレンジの真上だ。それはやっとの思いで女の子と一緒の時間を過ごした翌朝のこと。コーヒーを淹れていた僕の横から彼女の声がかかった。
「ねぇあれなに、なんなの」
彼女が指さした視線の先にあったのは見慣れたいつもの光景。茹で具合を見るために投げ上げた麺の残骸だ。天井にピタッとくっつけば食べごろ。垂れ下がるようだと後もう少し。
「あぁあれね、スパゲティだよ」
「あ〜ぁスパゲティね。それはわかったけど、なんで天井にくっついてんの。しかも何本も」
どうしようか。正直に答えても良かったが少し迷った。
「う〜んあれにはね。実はとっても深い理由があるんだ」僕は絶妙の膨らみを見せるドリップコーヒーにゆっくりとお湯を注いでからおもむろに口を開いた。しかも腕を組みながら物思いにふけるような顔芸までプラスして。
「もう6年ほど前だったかな、あぁそうだ6年前のちょうど今頃だ」そこで僕はまた遠くを見るような表情をしてみせる。
「センター街の途中の左側に細いわき道があるよね」
なんだろう?そんな心の動きを物語るように首をかしげる姿がカワイイ。
「あそこで突然声を掛けられたんだ。ちょっととか、ねぇ。そんなニュアンスだったかな」また2秒ほどの沈黙、そしてゆっくりとした口調でこう繋いだ。
「振り返ったけど、だれもいなかった。歩くとまた声がする」エッなに?彼女の目はもう好奇心でいっぱい。
「そのとき今度ははっきりと声が聞こえたんだ。それもイタリア語で」
「イタリア語できるの?」
「できない。でも英語じゃなかったし、フランス語っていう感じでも、もちろんドイツ語でもない。どっちもできないけど」
「??」
怪訝そうな彼女の表情をいまでも覚えている。
「つまり・・」
「つまり?そのイタリア語を話す人が天井にスパゲティを投げつけろっていったとか」
「惜しい、ちょっと違う」
それってなんだろ。彼女の瞳がそう問いかけていた。
「第一、イタリア語なんて知らないのになにを言ってるかなんてわかるわけがないだろ」
そう言ってから頭の中でスートリーの続きを考えていた。
「そりゃそうだ。それでそのイタリア人はどうしたの。天井のスパゲティは」
おっと少しはぐらかすか。ここで最後の3度目のお湯をゆっくりと注ぎながら。
「焦るな、続きは美味しいコーヒーを楽しんでからにしよう。ありがたいことにクッキーもある」
「それはちょっと嬉しいかな」
「1年前のだけどね。たぶん平気だ。冷蔵庫に入ってたから、ついでに言っておくけどコーヒーは大坊のやつだ」
「青山の?ハヤカワのポケミスおいてる店?」なんだ知ってるじゃないか。
パソコンと資料に占領されたテーブルにコーヒーを運んだ。さてどう話をつなげようか。
「大坊の豆美味しいね。でもさっきの続きが気になるな。スパゲティと謎のイタリア人は」
彼女は匂いを確かめるようにクッキーを鼻先に持っていきながら聞いてきた。それにしても女の子ってどうして匂いを嗅ぎたがるんだろう。
「大丈夫腐っても、カビが生えてもいない」
そうステラおばさんのクッキーには膨張剤や乳化剤はあっても防腐剤なんかは入っていない。それなのになぜか長持ちする。謎だ。
「今度ははっきりと聞こえたんだ。マンマ・ミーアって」
「あはっなにそれ」
笑ってる顔もいいな。
「その時声と一緒に両手を広げ空を見上げるパヴァロッティのイメージが浮かんだんだ。あれが天啓というやつかもしれない」
「お〜おそうきたか」
いいぞノッてきたね。
「僕はすぐにパヴァロッティを真似て空を見上げた。するとどうだ視線の先にあったのは・・」
「スパゲッティ!」これは彼女「五線譜!」こっちは僕。セリフ違いの二重唱だ。
「そっちか〜」
「これが理由のすべて。でもね半分正解。その日ボクが見た五線譜はね、スパゲッティでできてたんだ。あれはもしかしたら新しいスタイルのUFOででもあったんだろうね」
ひとしきり笑いあった後に彼女が口を開いた。
「それで、本当のところはどうなの。あれの答え」
僕は返事の代わりに天井を指さす彼女の肩に手を伸ばした。
「今日は土曜日で、明日は日曜日だ。そして・・・何かを、それも素敵になりそうな何かを始めるにはいいタイミングだと思うけどどう思う?」

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