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クラブとプレーヤー

クラブの外形的評価基準をお話しする前に、日本のクラブについてお話ししたいと思います。

「クラブ」という言葉は、日本においては、学校の部活動のイメージが大きのではないでしょうか?ラグビーの母国と呼ばれるイギリスや強豪国のニュージーランドなどで呼ばれる近代ヨーロッパなどで発達したスポーツクラブやカントリークラブと比べるとその規模や関わる人たちはとても限定的であり、狭い範囲で構成させれています。またその役割も全く違います。

 学校の部活動は、最近になってこそ様々な分野の人が関わるようになってきましたが、基本的には、学校の教員である「監督」「部長」それに「コーチ」、経済的にある程度余裕のある場合は、「トレーナー」と呼ばれる人が関わるケースもあります。しかし、本来のクラブは、地域などの交流の場として発展し、様々なスポーツや趣味などを通じで交流するということを目的とされています。しかし、日本の場合、特に近年、交流など手段であったはずのスポーツ競技や趣味が目的化され、その結果が重要視されるようになってきました。それは、日本の学問、教育の発達、「スポーツ活動」の導入、発展と大きく関わっています。

 日本の「クラブ」の発展には、明治政府による日本の「近代化」の一環として進められてきた日本のスポーツ導入の背景と教育の一環として利用されてきた日本のスポーツがまずあります。また、戦後、日本の経済成長の中で、単位種目とした「クラブ」の創設が相次ぎ、その結果が企業のイメージアップ、社員の士気高揚に利用されるという側面がありました。学校現場においても同様の効果を求めることもあります。また、そのことが、子供たちの進路先として高校や大学、また企業へと直接的に繋がって行ったことも日本のスポーツが非常に本来の「楽しむ」という効能から外れていく要因になったと考えます。高度経済成長後、「結果」と「生産性」が強く求められ、「組織の中でいかい生きるか?」が求めらるようになって行きます。それに伴って、スポーツの現場でも「チーム」という組織の一員での「機能」と「結果」が求められ、本来、各々が「交流」や「余暇での楽しみ」を求めて集うはずの「クラブ」で「結果か?楽しむか?」とあたかも二択の選択肢であるかのようなことを突きつけられるようになります。

 そのように日本の「クラブ」は、本体様々な形であるはずの個人の「楽しむ」という定義を「結果」と「生産性の向上」に限定していくことになります。また、スポーツを行うために「モチベーション」を求められ、「強くコミットすること」を求めることが当たり前のように捉えられて行きます。これも先ほどの「楽しむ」ということに通じるのですが、本来、「モチベーション」は、「動機付け」と訳されるように、「その動機に至る要因」であるはずです。人がスポーツをする「動機」は、健康のため、友達がいるから、自分を認めてもらいたい、自分の理想とする生き方をした、経済的に豊かになりたいなど様々です。モチベーションとは、「何か特別な人」や「強い意思の人」が持っているものではないはずです。
 「スポーツをしたい」と思う人がそれぞれの「欲求」と「行動」に応じて持っているものです。

本来、クラブとは、それら様々な人たちの要求に応えることができるかが、そのクラブの発達の段階であったり、機能的充実を示すものではないかと考えます。
 当然、発足間もないクラブがその全ての要求に応えることは、人的、物的、経済的に困難なのはいうまでもありません。しかし、現時点で、それぞれの要求を機能的にどれほど応えられているか?また、今後、どのような機能を備えるべく計画、活動するべきなのかを知る手かがりになるもの。それがクラブの外形的評価基準であると考えています。これは、全てのスポーツに当てめることができるものです。

昨今、声高に言われている「プレーヤーファースト」。プレーヤー中心のスポーツ活動。それを実現するためには、個人や団体のモラルだけに頼るのではなく、「プレーヤーファースト」の活動になっているかをユーザーであるプレーヤー、その家族、地域などのステークホルダーがある程度、判断できることが必要です。


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