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第10回「うしろメタファー」

いまいち正確な肩書のわからない長髪のおじさん、みうらじゅん氏の造語は数知れない。


マイブーム、ゆるキャラ、クソゲーなど、これほど新陳代謝の激しい流行語を生みだしながらも、いずれも古びることなく健在なのだから驚くべきヒット率と精度である。なんといっても時代の隙間に埋もれている素朴な概念を見つける慧眼と、それにキャッチ―な名前をつける戦略的な感性の両方がなくては成し遂げられない偉業だろう。とはいえ、氏の発明した言葉は一般に定着したものばかりではなく、使いどころの不明な用語も山ほどある。なかでも「うしろメタファー」はずいぶん昔のテレビで聞いたときからやけに耳に残っているくせに、ほとんど用途が想定できない珍妙なワードだと思う。


氏曰く、うしろメタファーとは「うしろめたい心のメタファー」らしい。なんだかわからないので、具体的なシチュエーションを思い浮かべてみたい。たとえば、学校でテストが返却されてすこぶるごきげんな点数だったが、先生の解説を聞いているうちに実はとんでもない採点ミスが起こっていることを察して血の気が引き、しかし申告する勇気がなくついには黙って下校してしまったときの疚しさだったり、あるいはシンプルに隠しているアブノーマルな性癖が他者に見つかったときの恥ずかしさだったり、さまざまなうしろめたさを覚える象徴的なものがうしろメタファーと呼ばれているようだ。


無論、辞書に用例が載っているわけではないので、このシチュエーション自体が的外れであるかもしれないが、なんであれ大半の場面は「うしろめたさ」で代替可能であるし、根本的に「これ、メタファー(隠喩)じゃなくね?」と思うのだ。比喩表現でなく、むしろ「うしろめたさ」を辞書で引いたときに出てきそうな用例っぽい直接的な説明ではないか。


「おい貴様、黙って聞いてりゃみうらじゅん氏にいちゃもんつける気かよ」と激憤しているファンがいたら恐いので、及び腰で白状してしまえば、穏便にのれん分けの申し出である。石油や食料と同様に言葉も資源であるのだから、ひとつの造語成分として、べつの用法も取り入れてもらえないか、と言いたいのだ。もしくはスカウトかもしれない。修辞学の旗頭であるメタファーくんが活躍できる舞台は、いまや創作物の世界にあるのではないかね、と。


こと映画においてメタファーは縁の下の力持ちである。表層的なストーリーに深みを与えるためには、メタファーはなくてはならない調味料だ。よく「物語に描かれていないことを勝手に推察するなよ」といった向きの批判もあるが、逆説的にメタファーはすべて「描かれていない物語を推察させるための手段」であるのだから仕方がない。たとえば『ズートピア』の主人公、ウサギのジュディが「現代社会における女性像」を象徴していたり、『魔女の宅急便』や『スパイダーマン』で扱われる魔法やヒーローパワーが「思春期の第二次性徴」を表現していたりするが、これらはストーリーを追う上で必須の知識ではないし、そもそも誤読である可能性だって多いにある。しかし、なんとなく感じ取れたりするだけで、なんとなくいい感じに理解が深まって、ぐぐっと話が面白くなるものだ。


そしてこれこそが「うしろメタファー」そのものであると言いたい。性にまつわるメタファーに代表されるような際どいモチーフを、まともに表現しようとしたら生々しくて見ていられないし、実際にやったらひどく調子の外れたばかばかしい描写になってしまう。その滑稽さを想像しやすそうな具体例で考えてみよう。


ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』のラストシーンだ。ケーリー・グラントとエヴァ・マリー・セイントがなんだかんだあって危機的な状況から生還し、場面転換して寝台車のベッドで抱き合う。と思ったら、トンネルに入っていく列車の遠景に切り替わり、いきなり終幕してしまう。すでにシミリ(直喩)と言ってもいいくらい下品な演出だが、具体的な性表現でなくメタファーであることで観客はどひゃーと笑い転げることなく、「なんだかいいもの観たな」と満足して劇場を去ることができる。本当は描きたいことがあるのに、肝心な箇所を伏字にしてしたためる恋文のような「うしろメタファー」が、露骨に潜んでいるのだ。


さらにメタファーには有効範囲がある。「局所的なメタファー」「全体的なメタファー」だ。と、さも確立した用語のように断言しているが、どちらも完全に僕の造語である。うっかり他所で使うと通じないので気を付けてもらいたいが、ともあれ便利な言葉である。


例を挙げれば、人の頭に鈍器を振りかざした次のカットで潰れたトマトに虫がたかっていたり、猿の投げた骨が軍事衛星に切り替わったり、こういったジャンプカットで繋ぐ比喩表現はほぼその瞬間、その場面でのみ機能する「局所的なメタファー」といえるだろう。ほとんどの場合、潰れたトマトや軍事衛星はもう出てこない。


たいして、そうでないメタファーは「全体的なメタファー」となって複数回にわたって画面に登場し、作中、ずっと作用し続ける。いちど「現代社会における女性像」を背負ってしまったジュディに、終盤で「理想の女性像」を付加されることはあっても、「思春期の第二次性徴」といったまるっきりべつの概念へと変化させられることはない。というより、そういったことがあったら作品内での整合性が取れなくなってしまうので、その場合は作り手の失敗や、想定されていない受け手の誤読だと判断されてしまう。解釈は人間の数だけあって正解はないものの、明確な間違いはあるものだ。


だが誤読にも、正しい誤読がある。不覚にも「小さな巨人」「ブラックマヨネーズ」みたいな撞着語法なってしまったが、さておき「【ス】からはじまるアメコミヒーローは?」と問われたら、スパイダーマンと答えてもスーパーマンと答えても間違いではないのである。なんでもかんでも解釈は十人十色でみんな違ってみんないいよね、ではなく、こうして「整合性の取れている別解さがし」こそ、解釈の面白味がぎゅうぎゅうに詰まっている魅力なのだ。


ちなみにここまで読んでみて、「ひょっとしてこの書き手、アブノーマルな性癖がばれてしまった経験があるのでは?」と目ざとくうしろメタファーを読み取った人がいたら、残念ながらそれは間違った誤読である。人生は長いのだからそんなことくらいあってもいいとは思うけど、断じてないのである。


      映画凡人が綴りし駄文~「うしろメタファー」~

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