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第11回「新規性と親近性」

今年から開始したさほど映画に関係のない映画エッセイも、はやいもので第11回まで到達した。いやはや廃寝忘食の思いで精励恪勤に続けてきた甲斐もあって、まさに古今独歩の快挙である。おやおや、たったの11回ごときで意味不明な文字列を並べ立てるほど欣喜雀躍できるものですかね、と呆気にとられる方もいるかもしれない。ところが、僕の今年のテーマは「死なない程度に腐敗堕落」である。人生なんかに期待せずいつだって酔生夢死でいたいのだ。そもそもこれほど無為徒食な男にとって、新しいことを11回も続けるなど妄誕無稽の極みとしか言いようがない。三日坊主でさえ立派な坊さんとして崇めているし、Windows11も実装された日からそのまま仏壇に供えて帰命頂礼している。

とまあ、これで11個くらい四字熟語が入っていればよいのだけど、こんな風に1から順に10の下積みをこなし、コツコツと歩んだものだけに、ようやく燦然と輝く「11」の勲章が授けられるわけだ。なにかと苦労するのだから、これからは道行くすべての「11」に最敬礼をしたくなってしまうが、気を抜くなかれ。ときどきズルを働く輩もいるので、それだけは先に取り締まっておかなくてはなるまい。

ご存じ、スティーブン・ソダーバーグの『オーシャンズ11』は、図々しくも「11」からスタートしたシリーズである。1960年のルイス・マイルストン版『オーシャンと十一人の仲間』がどれほど謙虚な邦題であったか。ともかく人気を集めたおかげでオーシャンは仲間と資金を増やしながら、『オーシャンズ12』『オーシャンズ13』と着実に作品数を重ね、代表的なケイパー映画としての地位を不動のものにしていったのだ。

……はて、いったいなんの話題につなげようとしていたのか。さっぱり忘れてしまった。長い前置きを終えたまではよかったのに、気づけば思考がぐずぐずになって空中分解してしまっている。困ったぞ。たいてい11回も書いていれば話の構成力は上達していくはずだし、あらゆるセオリーが身についてしかるべきなのだが、いかんせん無知蒙昧な男に新たな能力が身につくことなど期待できないようだ。言いたいことがまとまらないし、このまま行方のわからない文章を読み続ける人もしんどいだろうから、今日のところはこれにて解散!

なんて事態に陥らないために、物語には「型」が求められるのだ。ケイパーを含むあらゆるジャンル映画というものは、おしなべてセオリーに則った作品形態だと言える。お約束があるからそれを共有したファンを獲得できるのであって、逆を言えば一定のファンがいるからジャンルとして確立しているのである。ゆえに「二人乗りの巨大ロボットで怪獣と対決する話」や「隕石を破壊するために掘削員が宇宙飛行士になる話」など、どんな話も、要約すればだいだい二、三行で説明できるようにできている。

こういった作品群を、脚本のお医者さんとして知られる三宅隆太氏の用語によれば、「ハイコンセプト」と呼ぶらしい。一方、そうでない作品群は「ソフトストーリー」と定義されている。一見するときっちり二分できているように思えるが、実態はかなり大雑把である。だって円を描き、その塗りつぶした領域がハイコンセプトなる集合であって、その円の外側がすべてソフトストーリーだなんて、ずいぶん乱暴ではないか。生命の宿る星は地球しかないのじゃ、と主張することと同様に、無限の物語空間にぽつねんと存在するハイコンセプトがあたかも奇跡的な希少種なのだと言われても信じようがない。

では文芸のほうではどう区分されているのか。直木賞に代表されるようなエンターテインメント性の高い作品を娯楽小説、芥川賞に代表されるような芸術性の高い作品を純文学と呼び分けている。なるほどこっちはしっかり分類できているぞ、とつい錯覚してしまうが、よく考えれば「芸術性」という指標が具体的になんだかわからない以上、三行で説明できる「エンターテインメント性」から外れたものがソフトストーリーだよね、と認識することと本質的に差がないのだ。

もうなんだかわからない。だとしたら、両者を正しく区別するものなんてなにもないじゃないか、とどこかのだれかを糾弾したくなる。過去には、松本清張『或る「小倉日記」伝』のように、直木賞候補だったものが紆余曲折あって芥川賞を受賞するといった両者の境界を行き来するものも例外的にあるのだから、はっきりと線引きすることは難しいのだ。そのなかで、あえて作り手のアプローチのみに着目すれば、もしかしたら「型」で説明がつくかもしれないぞ、と思いついたのが今回のエッセイの趣旨である。長かった。蜿蜒長蛇に迷走したあげく、末尾に「完」と置いて棄甲曳兵する寸前だった。

ここからの主役は「新規性と親近性」である。音も字面もなんだか似通っていて混乱しそうだが、こいつが驚くほど万能な指標なのだ。受け手はこのバランスにさえ注目していれば、面白い作品を探求するうえで方向性を見失うことはなくなる。もし「新しさ」が強すぎたら理解できなくてわからないものになるし、反対に「親しさ」が強すぎれば既視感だらけの刺激がなくてつまらないものになる。だから「新しさ」と「親しさ」のバランスの取れた物語を人は面白いと感じるのだ。

作り手が物語を生み出すとき、この出発点がどちらに置かれていたかで作品の性質が決まっていく。つまり、親近性とは「型」を利用することにほかならない。型は先人たちの研鑽によって積み上げられた論理の蓄積であり、淘汰されずに残った偉大なる集合知なのだ。このパターン化された知恵を使って新しい物語を紡いでいく方法が、ずばり「ハイコンセプト」なのである。言い換えれば、親近性から出発して新規性を模索していく行為がエンターテインメント性なのだろう。

対して、「型」に囚われないアプローチが「ソフトストーリー」である。新規性から出発し、やがて人々に理解できるような親近性を目指していくわけだ。ある種の不親切なわからなさが芸術性の肝なのだろう。型を使わないならまだしも、ときには型そのものを破壊して発展することもある。近代美術史で例えるなら、マティス、ピカソ、ポロック、ドゥシャン、ウォーホル、そしてバンクシーなど、彼らは型を疑うことで「型破り」な作品を築いてきた。時折、100パーセント感性に委ねて作られたものが新しさに満ちて光を放つこともあるが、かなり稀であって、ほとんどが再現性のない「型なし」に終わる。映画でも文芸でも似たようなことはごまんとある。

個人的には新規性と親近性の割合が7:3くらいになるものにワクワクするものの、このエッセイ自体が10:0の型なし、劣悪なる駄文なので、書いてあることは蛙鳴蝉噪の妄言である。空前絶後の曖昧模糊で、郢書燕説で煙に巻いているだけかもしれないので、みなさまには気をつけていただきたい。ちなみに使用した四字熟語はいずれも読み方も使い方もよくわからないものばかりなので、なんという意味なのかは聞かないでほしい。四字熟語とやらは、実に不親切で芸術性が高いものだね。

   映画凡人が綴りし駄文~「新規性と親近性」~

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