アベマリア 第2章 検死官 神野一樹の死
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第2章 検死官 神野一樹の死
1
知り合いのダイゴ医師から、私の探偵事務所に連絡が入ったのは、ちょうど、素行調査の報告書をまとめ終わって、そろそろ昼食にでもしようかと考えていた昼の12時くらいだった。
「クニイチ君、今時間あるかい?」
「ああ、これから食事にでも行こうかと思っていたところだ。今日は、ダイゴ先生はクリニックがお休みの曜日だったね。一緒にごはん食べるというのなら歓迎だよ」
「確かに今日は、クリニックは休みなんだけど、ある死体の検案を頼まれて、今警察にいるんだよ」
「ダイゴ先生は、医者でもあるけど、検死官でもあるのかい?」
「いや、正確にいえば、検死官は、医者である必要はないんだ。
死体を扱うのに、医師免許はいらない。検死官の多くは、警察署勤務で医師免許をもっていない。
ただ、『死体検案書』を書けるのは、医師免許をもっているものだけ、と法律できめられているんだ」
「?」
「この街では、長い間、この街の警察の管轄する死体検案書を、一人の医師がすべて書いていた。大学の病理学教室の教授を退職した、一人の老医師がね。
一つ死体検案書をかけば、3万円ほどになる。人口が40万人くらいのこの街の規模だと、年間400体ほどの死体検案がある、一日に約1件だね。退職した医師のアルバイトとしては、いい仕事さ。極端にいえば、検死を警察の検視官がおこない、その結果をみて紙切れ1枚に書きこみをするだけで、その医師は1日3万円を手にいれる」
「そんなんなら、他に希望する医師がいてもおかしくない気がするが」
「毎日、死体をみるんだ。いくら死に近しい医師でも、多くの者は、敬遠するよ。それに、ここでみる死体のかなり多くが、普通の状態でない。
例えば、一人で住んでいて、死後1週間後くらいに発見された60歳の男性。8月下旬が死亡推定日時。連絡とれないと、子供が警察に連絡。9月4日に発見。そのときは、鼻がいつまでも記憶するような、強烈な、腐敗臭。どこから集まってきたのか「うじ」が体の表面をはいまわっている。みえないが体内には、充満?こういうとき「うじ」はオスも卵を生むらしい。
死体の皮膚は、薄紫で、薄い黄色あるいは緑がかっている。ペニス(海綿体)はとけている。腹部は膨満。皮膚はうすく、かろうじて、中身の散逸をふせぐ、ゴミ収集のビニル袋のよう。
こうなると、髄液や血液中のタンパク成分も腐敗。検査による死因検索は不可能。かろうじて、髪の毛を用いたDNA検定で本人確認は可能。
こうなると、日本と発展途上国とどこが違う?変わらないのでは?と、ふと頭をよぎる。
銃でうたれ、道端にころがっている死体、とこの死体との間に、どんな違いがある?
この仕事で、いいことがあるとすれば、それは、決して患者やその家族から訴えられるというストレスはない、というメリットが確かにあることだ」
「でも、今、ダイゴ先生は検死の仕事で警察署にいるんだろう?」
「実は、その、この街で死体検案書を書いていた老医師が、1年くらい前から体調を崩していて。その後、警察で、かわりの医師をさがしていたんだが、なかなかみつからなくてね。
それで、警察は医師会に頼み込んで、1年前から、医師会の会員が輪番制で、死体検案書作成にあたることになったんだ。そして、たまたま、今日が、ぼくがその当番さ」
「手術の手伝いかと思った」
私は、開業したあとも何回か、宇山病院でダイゴが腹腔鏡手術の手伝いをしているという話を聞いたことがあった。
「いや、そんなんじゃあない。ただ、今回、少しややこしい経緯があってね」
「ややこしい?」
「亡くなったのは、皮肉にも、一年前まで、ひとりで、この街の死体検案書を書いていた老医師本人だったんだ。名前は、神野一樹。クニイチも知っているだろう?」
確かに、私は神野一樹氏本人のことは名前しかしらないが、以前、神野家のある事件に関する依頼をうけたことがあり、そのときその名前を聞いた覚えはある。
「神野家の爺さんが、医者で検視の仕事をしていたことまでは知らなかったな」
「実は、この一年、体調が悪くなったこの神野先生のところに、ぼくは往診にいっていたんだ。最近は、弱っていて、いつ亡くなってもおかしくない状態だった。
なので、朝、ベッドの上で冷たくなっていた神野先生の死体を発見した後、もし家族が、往診医のぼくに連絡してくれたら、ぼくは家にでむき、自然死として『死亡診断書』を書いていただろう。
でも、その神野先生と暮らしていた、神野先生の息子のお嫁さんが、死体をみてパニックにおちいり、警察に連絡してしまったんだ。今日はたまたま主治医のぼくが検死当番だったから、ぼくが『死体検案書』を書くのだけれど、もし、ぼく以外の当番の日だったら、主治医のぼくではなく、その検死当番の先生が『死体検案書』を書くことになっていた。そちらのほうが、ずっと確率が高いから、ぼくに当たったのは、かなり奇跡だね。
一度、警察に連絡すると、自然死にほぼ間違いないとわかっていても、警察は実況見分をしないといけない。形だけでも、ね。
なので、今回も、警察は実況見分をおこなった。
そうしたら、思いもよらないことに、死亡した神野先生の息子の指紋が、数多く、死体の体や部屋からみつかったんだ」
「まあ、それは、当然のことだろう?」
「でも、その息子が、1年前に既に死亡していたとしたら?」
「ええ?」
私は、お腹が空いたせいなのか、よく働かない頭で、その状況を理解しようとした。
「息子は1年前に死亡していた。でも、その嫁が、神野先生と暮らしていた?」
「ああ。神野先生の息子は1年前に死んだが、彼には奥さんと3人の子供がいて、神野先生は、息子亡き後、息子の嫁と孫3人とで暮らしていたんだ。だが、部屋で一番多かった指紋は、亡くなっていた息子のものだったんだ」
「1年前の、指紋が残っていたんじゃあないかい?」
「まさか。1年の間、死んだ息子以外の人が、出入りして、1年前の息子の指紋など、消えてしまっているよ」
「死因は?首を絞められた跡があるとか。まさか、刺殺とか?」
「そんなだったら、クニイチ君にすぐに電話などしないよ。いや、そういう風でも、1年前に死んだ息子の指紋がでてきたら、連絡するかな?
死因は、不明だ。往診医の立場のぼくからすれば、老衰でいいような気がするが、一応、血液と髄液をとって心筋梗塞ではないか?薬物が検出されないかどうか?それは調べにだした。
最近、死因を死体のCT撮影をとって探す、というのが流行りのようだけど、ここの街では、そういうしくみはできてないんだ。TVや小説ではよくでてくるが、実際の日本の大部分の街は、うちの街と同じさ。車で2時間ほど離れた、少し大きな町の大学病院まで運んでいけば、死体のCTは、なんとか撮ろうと思えば撮れる。だが、ぼくは、死体をみて、それはやめでいいと思った」
「検死官がいくら優秀でも、CT撮影をしたとしても、1年前に死亡した息子の指紋が、部屋に多数発見されたということを説明することはできない」
「そのとおり」
私は、ため息をついて言った。
「それにしても、検死官って、CTやMRI撮影をしたり、DNA鑑定をおこなったり、AIの力を使ったり、最新の医療技術を駆使して、犯人をみつける、すごい職業だと思っていた。この街では、この街の開業医たちが、輪番制であたっているとは」
「興信所の私立探偵のクニイチ君が、何を、子供みたいなことをいっているんだ。フィクションはあくまでフィクションだろう?探偵の仕事だって、浮気調査や身辺調査が主な、地味なものだろう?」
「まあ、そうだが」
「ぼくとつきあってきて、病気に対して医者のできることは、世間で思われていたりフィクションに書かれていたりすることに比べて、そう多くないということもわかってきただろう?」
「まあ、そうだが。でも、ぼくが、今からそっちに行ってどうするっていうんだい?」
「1年前に死んだ人の指紋が、事件現場で発見される。この謎に取り組むなんていう刺激的な機会は、そうそうはない。だから、君に電話したんだ」
「そうだよな。ありがとう」
のんびりランチをとるという一日の中の大きな幸せを犠牲にして、私は警察署に向かった。
本日のランチメニューは、車を運転しながらのコンビニのおにぎりと缶コーヒーに化けてしまった。
2
私とダイゴは、その死亡した老医師、神野一樹宅を訪れ、同居していた嫁の神野美樹、その3人の子供の一人、長男の尚樹の話を聞いた。
1年前に夫をなくしたが、義父の一樹と、尚樹、由美、亜美の3人の子供を守っていた神野美樹は40歳前後だろうか?おちついた、上品な女性だった。子供の尚樹は高校生、由美は中学生、亜美は小学生だという。
長年、医師兼検死官としてこの街につくしてきた神野一樹も、この1年は、ほとんどベッドで寝たきりの状態だった。
「1年前、細菌性肺炎と間質性肺炎で、市民病院に入院して、3カ月後に退院して自宅にもどってきた後は、もうずっと寝たきりでした。
それから、約1年間。本当に、ダイゴ先生には、お世話になりました。ありがとうございました」
と、神野美樹はダイゴ医師にお礼を言った。
1年前、神野一樹は、ICUに1カ月はいり、なんとか、一命はとりとめたが、一時期、人工呼吸までも装着したという、激しい闘病後、彼の姿は別人のようになっていた。
入院中、長い間、ベッドで寝たままの状態でいて、全身の筋肉はおちてしまっていた。立ち上がることは、なんとかできても、歩く体を支えるほど、下肢の筋肉はもうなかった。
肺炎で傷んだ肺は、回復しても、もとの半分に満たない機能しか残っていなかった。たえず外から酸素を投与するという補助をしないと、その機能の落ちた肺では、生命を維持するのに必要な酸素を体に取り込むことができなかった。
「警察に連絡したので、大ごとになってしまいましたが、やがて、遺体は警察からここにもどってきますから」
「本当、私、気が動転してしまって。警察でなくて、主治医のダイゴ先生に連絡すれば、こんなことにならなかったはずですのに。はずかしいわ」
「びっくりされたからでしょう。慣れない状況ですから、仕方がないですよ。遠回り少ししますが、通常にいずれもどりますから。それにしても、警察にいろいろ聞かれて、お疲れになったでしょう?」
「ええ。何か、義父を失った悲しみが、どこかへふっとばされてしまったようですわ」
遺族によけいな心配をかけないよう、部屋から、1年前に死亡した神野次郎の指紋が数多く検出されたということは、妻の美樹にも、尚樹ら3人の子供たちへも、伝えないことに、警察とダイゴの間で取り決められていた。
その極めて不自然なことについては、折をみて家族に伝える、という話になっていた。
私も、死人の指紋が、1年後に、『現場』(殺人?・・・といっても、今回の神野一樹の死は、おそらく病死であろうが)から発見されるというミステリーは、フィクションではいくつか読んだことがある。
例えば、その一つの例では、「指紋やDNA鑑定のデータベースを管轄する部署もまた、偽装に協力していた」というトリックになっていた。だが、この街の、指紋管理部門が、そんなことまでするかどうか?
種明かしとしてすっきりするのは、1年前の神野一樹の息子の次郎の死亡が「偽装」、つまり「死んではいなかった」というものだが、今の制度で、その偽装はほぼ不可能だ。
昭和23年の「墓地、埋葬に関する法律」が施行されてから、日本では、死亡の偽装が難しい。
個人墓地の多くは、取り壊す必要はないが、新たに墓地として利用することは、ほとんど認められない。死者は、火葬され、公共(あるいは、公に認められた寺社)の墓地に埋葬される。火葬でなく土葬という選択も、手続きに制限が多く、今や日本では100%火葬が行われると考えてよい。
一方、死亡を認定する検死官や医者、あるいはその後の葬儀屋や火葬場の関係者たちがみな偽装に協力していた、ということであれば、「死亡の偽装」は理屈では不可能なわけではない。だが、実際にそう画策するとなると、大変なことだ。
それに、神野次郎は、そんな大掛かりな偽装工作が必要な「社会的重要人物」ではなかった。小さな町の、一介の薬剤師にすぎなかった。
もちろん、その親や妻や子にとっては、かけがえのない人物であったにせよ。
もし「死亡の偽装」でなければ、誰かが、死体から指だけをきりとって、冷凍保存しておき、「現場」に、その死体の指をもちこみ、それで「押して」、死人の指紋を残したか?
でも、そんなめんどうくさいことを、誰が、何故?
いずれにせよ、たとえこんな荒唐無稽なトリックでないにせよ、神野一樹の家族や、その周囲から、いろいろ話を聞くことは「死人の指紋が検出された」という謎をとくことの手がかりになるかもしれなかった。
3
今回の、神野一樹の家族への聞きこみは、警察とは無関係な、個人的な「お見舞い」という体裁でおこなわれた。
ダイゴ医師は、亡くなった一樹の往診医であり、神野家をクリニックでみる「かかりつけ医」だったというつながりがあったことはいうまでもない。
実は、私も、この家族と、知らない仲ではない。
昔こんなことが、あったのだ。当時は、まだ、神野美樹の夫の神野次郎はまだ生きていた。というか、今回の事件で話を聞くまで、私は、神野次郎が1年前に亡くなっていたとは知らなかったが。
当時、神野美樹の一番下の子供の、神野亜美は、小学生1年生。
新しく4月から通いはじめた学校の登校中、自分が誰かに毎日見張られているような気がしていた。
家から30分の道は、田舎道で人気がない。
しかし、人の気配が確かにして、でも、ふりかえってみるのだが誰も人はそこにいない。
母親の美樹に相談すると、
「心配なら私も一緒に学校まで行こうか?」
と言って何日か一緒についてきてくれた。だが、そういうときに限って人の気配はしないのだった。
「きっと気のせいね」
そういって、亜美のほうから頼んで、一緒についてきてもらうのをやめにしたのだが、やめにしたとたん、またそのような気がしてくるのだった。
「今度は、見えないように、亜美のあとをついていくわ」
母親は、心配性の娘のいうことを笑うようなことはなかった。
しかし、母親が隠れて娘を尾行しても、あやしげな姿はついに現れなかったという。
「母親は上手に姿を隠せていないんじゃあないか、って思うんです。その・・・犯人というか、その私をつけている誰かに・・・母親は姿を見られているんじゃあないかと」
「それで、私への依頼は?」
亜美は、まっすぐ私の目をみて言った。
「プロの方に、私を尾行してほしいのです」
私への依頼主は、神野亜美というおませな小学校1年生の女の子だった。
「尾行」ということばを知っているだけで、彼女は「おませ」なことはわかった。逆に、それは彼女の妄想癖が強いという可能性も意味している。
心配するから母親には黙っていてほしいという、彼女の希望をとりあえず私は守ることにした。
「おませ」な女の子といっても所詮は、幼稚園をでたばかり。依頼には報酬が必要ということは理解していても、それは1回あたりジュース1本分くらい。それでも彼女のお小遣いのすべてだった。
「早く、ボディーガードをしてくれる男の子の友達でもできるといいのにね」
そういう私の冗談が通じないくらい、彼女の訴えは真摯で、それがまた私が彼女の「ままごと」みたいな依頼につきあうことにした理由でもあった。
亜美は赤いランドセルを背負ってどんどん、ひとりで田舎道を歩いていた。
普段、都会の雑踏の中ばかり歩いている私にとって、坂があり、田んぼや林などを通っていくその30分の道のりは、昔なつかしい散歩のようであり、自分が、小さな子供の幼い依頼にまじめにつきあっているという、ある意味こっけいな状況を埋めあわせるには充分なものだった。
そして、道の両脇が、林に囲まれた道のところで、私は確かに人影を目撃したのだった。
その人影は、私とほぼ同時に私を見つけたらしい。
そのためか、私はちらり見えた人影を追ったが、どういう姿かたちかをとらえることはできなかった。ただ、私がそこにたどりついたとき、軽自動車が一台、全速力で遠くへ逃げていくのが見えた。
私は車のナンバーをひかえることだけはできた。
私は亜美のところへもどり、家に電話するように私の携帯をわたした。
電話した亜美から携帯をうけとると、私は、亜美の母親と思われる女性に、亜美から依頼があって今回尾行をおこなったクニイチ探偵事務所のもので怪しいものではないこと、はじめ疑っていたが、実際、尾行者とおぼしき人影と車を確認したこと、を手短に説明した。
探偵事務所の人にたのんだことを亜美は親に黙っていたらしい。
神野美樹です、と名乗ったその母親は驚いた様子で、しばらくしてこういった。
「まだ、主人が出勤前で家にいるんです。主人とかわるのでちょっと待っていただけますか?」
かわりに出た父親の神野次郎は、私の言葉にとても驚いた様子だった。
「警察に・・・警察にまず連絡しましょうか?」
「いや、まだ亜美ちゃんに実際に被害が及んでいないから、警察に届けるのは早いでしょう」
「しかし、事件がおこってからでは遅い」
「確かにそのとおりですが・・・お父さんは、なにか彼女がつけられるような事情にこころあたりはありますか?」
「いや、特に・・・でも、今は物騒な世の中だ。
登下校中に、小学生を襲ったり誘拐したりしようなんてことを考える見知らぬ奴がいてもおかしくない世の中でしょう?」
結局、我々は、警察に届ける前に一度会って話しをすることにした。
その父親は、ダイゴのクリニックのことを知っていたので、まずそこで事情を話し合うことにした。
4
待ち合わせの時間は、ダイゴのクリニックの夕方の診療時間が終わった後、8時くらい。場所はクリニック診察室だ。
私は、あらかじめダイゴに連絡をいれたが、彼はあまり気乗りしない様子だった。
「小学生の話を真にうけて、真剣に仕事をするなんて、クニイチも暇なんだな」
「でも、実際に、怪しい人をぼくは目撃したし、怪しい車のナンバーもひかえてあって、こっちは今照会中なんだよ」
「そうか。そんなけなげな努力に対する報酬は、依頼者の両親からでないと、とれないよな」
「報酬はもちろん大切だが・・・まだ小学生になったばかりのかわいい女の子の安全がかかっているんだよ。場所の提供くらい協力してくれたっていいじゃあないか」
そう言っているところに、亜美の父親がやってきた。
「はじめまして。連絡ありがとうございます。亜美の父親の神野次郎です」
「はじめまして」
私は、事務所の名刺をわたした。
神野一家は、ダイゴのクリニックにときどき来るらしく、ダイゴ医師の知り合いということで私のことを信用してくれたようだった。
その意味で待ち合わせの場所をダイゴのクリニックにしたのは正解だった。喫茶店だったら、むしろ私の方が疑われていた可能性もある。
「妻も来るはずなんですが・・・まだ来ていませんね。ちょっと電話します」
父親は、携帯で家に電話をしたが、少し怒っている様子だった。
「どうされました?」
「家内の奴、娘の一大事だというのに、お酒を飲んで遅くなるなら飲み過ぎないように、なんていうんですよ。言っておいたはずなのに完全に約束を忘れている。すぐ、こちらに来るように思わず怒鳴ってしまいましたよ」
「ほほー」
ダイゴが、はじめて今回のことに興味をしめした。
「クニイチ君、どうやら今回の事件の謎がだいたいわかったよ」
とダイゴはにやにやして私に言った。
「わかったって・・・亜美ちゃんをつけている人物もふくめて、これだけの話でわかったというのか?」
「たぶん」
ダイゴには自信があるようだった。
「しかし、いくつか確かめておかねばならないことがある。まず、お父さん。娘の亜美ちゃんにはお姉さんがいるんでしたよね」
「ええ。中学2年生になる由美という娘と亜美の二人姉妹です。その上に、高校生の尚樹というのもおりますが」
「それと、なんですが、お父さんはよく仕事がえりにお酒を飲んで遅くなる」
「ええ。まあ。でもいつも、遅くなることは家に電話しますから、まだいいほうでしょう?」
「今回みたいに」
「ええ。でも、こんな大事な約束があるのに、いつもみたいにお酒を飲んでいると勘違いする妻には腹が立ちますがね」
ちょうど、そのとき、クリニックの外に車がやってきて駐車する音がした。
「最後に・・・みんなで、ちょっと外へ出て、その人騒がせな亜美ちゃんとやらの母親をおむかえにいきましょう。そうそう、クニイチ君。君、亜美ちゃんをつけていた怪しい犯人の乗っていた車のナンバーを控えた紙をもっているよね。それを、ぼくに渡してくれないか?」
駐車場の車からでてきたのは、亜美ちゃんの母親の美樹だった。
「おい、いったい何やってたんだ」
「ごめんなさい。途中、工事中で通れない道があって遅くなってしまって」
「『お酒飲みすぎないでね』、はないだろう」
「?」
「まあまあ、お父さん。そう怒らないで。
それより、見てください。クニイチ君が、亜美ちゃんを尾行していた犯人なのでは?と疑って、書き控えた車のナンバー。どこかでみた覚えはないですか?」
「え?」
それは、亜美の母親が運転してきた車のナンバーにほかならなかった。
タネが明かされれば、たわいもないことだった。
小学校1年生に入学して、長い人気のない通学路を、娘が一人歩いていくのを、心配した母親が、娘が家をでたあと車で先まわりして林の影から、無事に娘が歩いているかどうか「尾行」していたのだった。
そういう意味で、亜美が、「誰かに見られているような気がする」と感じたのは鋭かったのだった。
クニイチがみた、走り去る車は、母親の車だった。
車のナンバーが動かぬ証拠だ。
「それにしても、いくつかわからないところがあるんだけど」
「なんだい?」
「その母親が現場から出て行った直後に、ぼくは亜美ちゃんの自宅に電話したとき、その母親と直接電話で話しているんだ。ということは、母親は、車に乗っておらず、家の中にいたということになるんだが」
ダイゴが答えた。
「ついさっき、クリニックでの約束した待ち合わせ時間に遅れている妻を呼ぶために、父親が家に電話したときに気がつかなかったかい?彼の電話に出たのは、彼の妻、つまり亜美ちゃんの母親じゃあなかったんだよ。電話に出たその女性は、今日、クリニックで、みんなで待ち合わせっていうことを知らなかった。だから、『お酒飲みすぎないでね』なんていう見当はずれのことを答えたんだ」
「でも、自分の妻の声を、ご主人がまちがえるはずはない」
「普通はね。でも、特別の場合はありうるかもしれない。例えば、電話の声が、中2の娘の由美ちゃんだった場合」
「娘と妻の声を間違えた?」
「ぼくは、その中2の娘さんもここで診察したことがあるんだよ。お母さんは若いし、娘さんは中2にしては大人びている。いわゆる、姉妹のような親子っていう奴だ。
それに加え、二人の声がそっくりなんだよ。双子の声がそっくりなのは当然だけど、双子のようにアゴや声帯の形が似ている母親と娘、っていうのはありうるだろう?なにせ、半分は双子、同じ遺伝子なんだからそういうことだってありうるし、実際ある」
「夫であり父親である彼や、妹である亜美ちゃんさえ気がつかないくらい?」
「たぶん、父親からの、『お酒を飲んで遅くなる』という電話に出ていたのは、母親だけでなく娘さんもそうなのだろう。一緒に暮らしていて、何回も電話のやりとりも聞いているんだ。その娘が母親の口調をまねるなんて朝飯前だろう。二人は普段からそういうことをけっこう遊び感覚でやっていたんだろう。
クニイチが犯人の車をみつけた、と家にかけた電話で話した相手も実は母親でなく、お姉ちゃんの由美ちゃんだったんだろう。いつもの癖でまねしちゃったんだな」
「そうか。そして、今、さっきの電話に母親のふりをして応対した、そのお姉ちゃんは、今日両親がここのクリニックでぼくらと約束があることを知らされていなかったんだ」
「そういうことだ」
「しかし、人騒がせな家族だな。こそこそ隠れずに、姿を現して娘をおくっていけばいいものを」
「それが、小さい子でもプライドがあるし、自立心を持たせるためにいい、って、親というのは考えるものなんだよ」
「でも、亜美ちゃんが、誰かにつけられてる、って相談したとき、私が見守っているのよ、ってどうして母親は言わなかったのかな?隠すようなまねをしたせいで、もう少しで、警察までまきこんだ、大事になっていたかもしれないんだよ」
「彼等も、まさか亜美ちゃんが、自分でプロの探偵に仕事を依頼するとは思わなかっただろうし、たとえ依頼しても大の大人が小学校1年生の言葉を真にうけて捜査をするとは思わなかったんだろう。
母親も『探偵ごっこ』気分を楽しんでいたのかもな」
「そうかもな。いつかパリで経験したみたいに、姿を現したままの尾行で、すれ違ってもしらんぷりしながら、振り返るとまだ尾行を続けているなんていう尾行にくらべれば、屈折してなくて単純でいいからな」
「そうだったな。ぼくも思い出したよ。でも、そういう尾行も、当事者にとっては恐怖だったけど、思い出としてふりかえればある意味笑える尾行のようにも思えるよ」
第3章 へのリンク: https://note.com/kojikoji3744/n/nbe260503f6fe
第1章 へのリンク: アベマリア 第1章 同業者の匂い|kojikoji (note.com)
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