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[連載7]アペリチッタの弟子たち~文学のファンタジー~第2部 魔法使いの通信本 ~ハウルの動く城/呪いをかける魔法と呪いをとく魔法/A=Bか?A→Bか?/回想するということ

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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第2部 魔法使いの通信本
 
ハウルの動く城
 
 スタジオジブリ製作の宮崎アニメは、日本人にとって、恒例行事の娯楽作品として認知されていた。約30年前、アニメージュで「風の谷のナウシカ」が公開されたころからファンだった僕からいわせれば、前作の「千と千尋の神隠し」から、宮崎アニメが、非常に抽象化してきているような印象をもっている。その抽象性を、うすめる(ごまかす?)ためかのごとく、視覚的なおどろきや美しさは、以前にまして増加している(もちろん、久石譲の音楽も忘れてはならない)。だが、瞬間的なおどろきが去ったあと、残るのはずいぶん抽象的なもの。わかりやすいストーリーは消えてしまった。
 なのに、なぜ、沢山の人々が宮崎駿の映画を観に行ったのだろう?子供をふくめた、老若男女が、絵画の印象派の作品を観にきて美術館があふれかえる、というようなことが現実に映画館でおきたのだ。もちろん、観にいった者それぞれが、それぞれの感想をもち、それぞれの楽しみ方をするのが、宮崎アニメのよさだ、ということで、話の決着はつく。そして、「文学」に対するHSPの傾向をもつ僕は、映画にでてくる「ハウルの城」が、人の心の内部を象徴しているように感じ、そこが気になったのだった。
 「ハウルの城」の表面や内部には、さまざまな部屋がつぎはぎになっていて、その部屋は、均一で、清潔なものではない。その部屋には、小窓がついている。部屋の中はがらくたの山だ。もちろん掃除可能な。このがらくたの風景には、僕のような、ある程度年をとってきたものにとっては、ぐっとくるものがある。記憶?思い出?沢山の徒労におわったこと、あるいは思い。無駄でなかったと思っても、他人に結局認められないまま、光を保ちつつ(と思いたい)部屋の中にうちすててあるもの。宝石のかけら。映画の中では、すべてが臆病者のつくった、城を守るための過剰な魔よけ、と一言でかたづけられてしまうのだが。
 また、それぞれの部屋は、外の様子をそこについている小窓をあけてのぞく、という程度だけの外とのつながりをもっているのではない。城を残し、外に飛びでることができるし、なんといっても、違う場所に同時に存在する。城は、時と場所により変形する。状況に応じて、様々に形や内装をかえ、様々な通路をもつ。そして、なにかを機に、まったく崩壊してしまうことだってある。板切れひとつ残して。
 人間の固定した人格、あるいは主体、それとも、確固たる人生観、というのがあるわけではなく、(一時的にあるにせよ)それらは単に、城を維持するための作戦にほかならない、ということが容赦なく描かれている。そう僕は感じた。
 
呪いをかける魔法と呪いをとく魔法
 
 「ハウルの動く城」には、原作があって、原作と映画の比較は興味深い。原作と映画の違いのひとつに、この映画の主人公のソフィーは、原作では、荒地の魔女が最後に倒れた後、やっと老婆に変えられた魔法がとかれたのに、映画では、魔力を失った荒地の魔女のめんどうをみることになっている。そして、しかけられた魔法は自然にとかれていく。ハウル、カルシハー、マイケル、そしてかかし。いずれもひと癖ありそうな面子。だが、城の中で、一番の後釜でおとなしい感じにもかかわらず、ソフィーは、皆から受けいれられ、信頼される存在になっていく。特に、かかしに対して、映画では原作より、ソフィーはとても寛容だ。原作では、あまり前面にない、赦し。赦しの神と裁きの神。寛容と排他。などの言葉が映画では連想される。
 ハウルがかんしゃくをおこし、どろどろになるシーン。ハウルはカルシハーを自由に解放したが、カルシハーは結局またもどってくるシーン。カルシハーの残骸を、ハウルの胸にもどすシーン。ハウルの城は、同時に何箇所にも存在するところ。これらは原作にも映画にも共通である。
しかし、ソフィーがところどころで若いソフィーに戻るシーン(これは印象的である)。戦争の中をハウルがとびまわるシーン。ハウルに流れ星があたるシーン。王宮への階段を、ソフィーと荒地の魔法使いが一緒にのぼるシーン(これは笑える)。ハウルの城がこわれるシーン。かかしがソフィーにキスされもとの王子にもどるシーン。などなど、映画独自で印象にのこるシーンも数々ある。
 総じて、原作のほうが、ストーリーがより複雑だ。言葉の飛躍に映画はついていけないので、映画のストーリーは簡略化される傾向があるのだろう。また、例えば、「ソフィーはかかしに乗って空をとんだ」といえば読者が勝手の想像してくれる一行も、映画では細部を決定しなければいけない。個人個人の想像力は、人それぞれ違いがあるので、一行が映画より豊かになる場合もあれば、逆に、言葉のイメージにくらべて、映画の中の映像の方がインパクトのあるイメージを与えることもある。また、映画ではおのずと映像むけのシーンが採用され、場合によっては新しいイメージも挿入もされる。印象派あるいはイメージのコラージュのような、映像のイマジネーションの連続に加えて、原作にない宮崎駿独自の視点、解釈、大げさにいえば思想がとりこまれている。例えば、先ほど書いた「赦し」ということ。
 だが、このモチーフは両者共通だ。
「呪いを解く魔法は、呪いをかける魔法より、ずっと複雑でむずかしく時間がかかる。とくに、呪いをかける魔法と同時に、呪いを解く魔法のカギが思い出せなくなるような、魔法までかかっているときには」(DWJ「魔法使いハウルと火の悪魔」)
 一般に、呪いを解くことは、呪いをかけることに比べて、時間がかかり、成功が困難だ。ひとりひとりの心の中にある、コンプレックスを解くことがなかなかできないように。
 のろいを解く魔法の難しさは、言語のもつ非生産性という弱さを思い出させる。
 もう、言語の限界でなく、限界の言語について語ることは、時代錯誤といえるかもしれないが、強いて言えば、呪いをとく魔法は限界の言語のひとつだ。
 
A=Bか?A→Bか?
 
 一方、ハウルの生きる社会では、単なる魔法使いの力はずいぶん弱まっている。情報をもつ魔法使いこそが力をもつ。データベース、組織力。この分野でも、ひとりの天才の時代は去ったようだ。荒地の魔法使いが、いとも簡単に、王宮の魔法使いペンステモンにまけてしまうように。
 現代、魔法の呪文に一番似たものは、コンピューターのコマンドかもしれない。日本語なのに、ほとんど意味内容がわからないコンピューター関係の専門雑誌や本は、魔法の教科書に似たところがある。魔法によって、大地に命令を与えるように、プログラム言語は、機械に命令をつたえる。
 「呪文には注意深く目をとおすこと。全体の形式からけっこうわかることがあるからね。たとえば、ただ書いてあるとおりにすればいいのか、まず謎をとくのか。あるいは、ただ唱えるやつか、身振りをしながら唱えるか、なんてことだ。それがわかったら、繰り返し読みながら、書いてあるとおりでいい部分と、謎々になっている部分とを見極める」(DWJ「魔法使いハウルと火の悪魔」)
 そして、現代においては、われわれはA=Bについて語るのではなく、AからBへの対応について語ることが多くなっている。概念について語るのでなく、データベースについて語るのだ。
 A=Bに代表される、科学的言語や隠喩的言語の、上向き下向きのベクトルによる現実を開示する作用、こそ「文学のファンタジー」とよべる力だ、と以前述べたものの、実は、現代において、こうした、「現実っていったい何? What is real ?」というような光についての話に興味はもたれなくなってきてしまっているかもしれない、と僕は危惧している。
 現実の中の非現実的なものに対する興味は、社会や日常生活からはじきとばされ、ファンタジーの世界の魔法にしかないものとして、ファンタジーの世界に閉じ込められてしまってはいないか?
 
回想するということ
 
 すべての基本的なしくみは、14歳までに無意識のうちにわかっていたような気がしている。その後は意識化される作業あるいは、ハウルの城を維持する作業の積み重ねだった気がする。
 城に住んでみなければ、城のこわさや居心地のよさはわからない。動いてみなければ、危険や感動はわからない。意識化する?解釈する?評論する? かつて、ぼく自身、これらの言葉に、非常に敵対し、嫌悪感をもっていた、またはもとうとしていたことがあった。評論を筆頭とする、解釈することの不毛さ、いいかげんさ、無責任さ、を悪しきもの、としていた。時がながれ、今や、こうやって、評論を書いている自分には、少し、解釈をするということへのやさしさがうまれていることを、僕は告白する。
 キリスト教に、「悔い改める」という言葉がある。日本にはなじみのない発想であり、キリスト教特異のもので、日本人には役に立たない発想なのであろうか?たとえば、キリスト教徒にしても、死ぬ間際に、人は、自分のいままでの人生をまったく否定するような形で悔い改めることができるのだろうか? 思うに、悔い改めるということは、過去の自分の人生を振り返り、それに対し解釈をし、自分で自分の評論をすることなのではないかと思う。その評論は、後悔であったり称賛であったり、なんでもよい。ルールはない。
 ただ、この過去の自分に対し解釈をほどこすという行為自体が、人にとってなんらかの慰め、癒しになるのではないか? もし、そういうことなら、「悔い改める」ということは、日本でも通用する。
 一般に、解釈や評論は、非生産的な行為と思われる。とくに、若い人が、単に解釈や評論にとどまって前に進まないというのはあまりほめられたものではないだろう。彼らなら、むしろ、行動すべきだ。解釈や評論でなく、対象を解析し作戦を考えるべきだ。頭の中だけで、自分を変えるのでなく、頭がのった自分そのものを変えていくべきだ。
 しかし、年をとっていくと(極端な状況、例えば、高齢者、あるいは癌の末期患者を考えてみればわかりやすいかもしれない)その時間はないし、その必要もない。逆に彼らがいくらそうしようとしても不可能なのだ。過去の 
 人生に対してどう考えるか?いいことをみるか、悪かったことやできなかったことばかりみて後悔するか?
 実はその内容だけでなく、過去の人生をゆっくりふりかえるという行為そのものが、癒しとなるのではないか?評論が、(作者自身にとってだけでなく)その読者にとって、それを読むことがそのような回想のきっかけになればよい。癒しの評論というものがあってもいい。
 
 ぼくは夢想する。
 1冊の本がでる。それが、人にわたる経路は、通販経由でも、数少なくなってしまった書店でも、それはかまわない。ただし、ネット上で読める本ではなく、装丁がほどこされた、箱のような本でなければならない。
 読者が、その本を手に取り、ページを開くと、それが「魔法使いの通信本」とわかる。
 インターネット回線を通じなくても、経済原理とは関係のないところでも、作者と読者、そして読者と読者の間に、「あるもの」が伝わる。
 なぜなら、それは「魔法使いの通信本」なのだから。  
                                 
   


                                                                

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