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映画イノセンス 純粋無垢なものの正体


わたしが高校生でまだ千日前に小さい映画館があったころ、新聞の夕刊に載っている映画の広告を見るのが好きでした。勉強についてくのでいっぱいいっぱいで観に行く時間もお金もなかったけれど、広告を見るだけでもなんだか楽しくてチェックを続けていました。今でもよく覚えてるキャッチフレーズ「イノセンス、それは、いのち」。当時いったい何のことかよくわからず、数年後に攻殻にハマったときに見たけどやっぱりわからなくて、いま中年になってようやく端っこを掴めた気がしたので備忘録としてしたためておこうと思います。
これから見る人にももう見た人にも、イノセンスって結局なんだったんだろうっていう気持ちになったときのちょっとした手がかり程度になれば幸いです。



攻殻機動隊って

イノセンスは攻殻機動隊シリーズのうちのひとつなのですが、この作品だけ見ると人物の関係や人柄などわかりにくいので、もし攻殻に触れたことがないならテレビ放送のSAC(スタンドアローンコンプレックス)や同監督の劇場版攻殻から見るのが導入として入りやすいかと思います。劇場版攻殻は冒頭でトグサが「トグサです」という挨拶にはじまり攻殻世界などの説明をたくさんしてくれます。やさしいね。
そしてもしできることなら原作を読んでほしいです。電子版だとどうなってるか知りませんが書籍はコマの外に士郎正宗氏の作品メモがかなり書き込まれています。先見の明にあふれた話やバイク乗りが事故するから六甲山の道にいたずらをするなという話までミチミチに書かれていておもしろいですよ。

イノセンスって

あらすじは暴走したアンドロイドが発する「助けて」という言葉の謎をサイボーグのバトーとトグサが追っていくというものです。こう説明するととてもシンプルです。
なのに鑑識のハラウェイという女性から人はなぜ人体の理想形として人形をつくるのかという話や、ハッカーのキムからおれは人間の理想的な状態を追い求めて全身義体化して人形みたいになってるんだぜという話を聞かされているうちによくわからなくなってくるのです。2人とも流れる水のように話すので視聴者としては置いてけぼりになりがちな部分です。わたしも初見は彼らの言ってることの2ミリもわからなかったです。

イノセンスは公開当時話題になった映像の美しさ、有名な西田和枝社中の謡、音響へのこだわりなど推せるポイントが多いのですが、先述の2人の話部分などとっつきにくいポイントも同じくらい思いあたります。正直なところ、押井守監督はなんでも難解にしちゃうっていう時々耳にする話もわからなくはないです。しかし監督がイノセンスで原作よりも生命倫理に一歩踏み込んだ点は攻殻機動隊映像化の最も大きな功績のひとつじゃないかと考えています。

アンドロイドの命

ではわたしがこの作品で心打たれたところの生命倫理観について話しましょう。
まずは事件のアンドロイドがどういうものだったか整理します。捜査の結果、実は暴走アンドロイドの頭脳には少女のゴーストをコピーした違法なものが入っているとわかりました。このアンドロイドにはセクサロイドとしての機能がついていて、ユーザーは生身の少女のような反応を楽しむことができたというわけです。ゴーストコピーは大量複写ができるけれどオリジナルの脳はいずれ破壊されてしまうため禁止された劇中の技術です。事件の真相はアンドロイド工場の関係者の一人が被害少女を助けるためにアンドロイドに細工をし暴走させることでSOS信号代わりにしたということでした。

救出した少女にバトーが尋ねるシーンがあるのですが、これが原作とイノセンスでは決定的に違っています。原作ではアンドロイドが暴走することで人的被害が出ることを考えなかったのかとごく当然のことを尋ねるのですが、イノセンスではセリフが変更され、ゴーストコピーされたアンドロイドそのものへの加害について言及されています。

「犠牲者が出ることは考えなかったのか。人間のことじゃねぇ、魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか?」

『イノセンス』バトーのセリフ抜粋

金属でできたアンドロイドが暴走すれば周りの人が被害にあうのは勿論です。そしてそのアンドロイドはさらなる被害を食い止めるために最終的には壊されるか機能停止させられるのは想像に難くありません。冒頭のバトーと着物を着たアンドロイドの戦闘シーンのとおりです。そしてここで問題が持ち上がります。もしアンドロイドの暴走を故意に起こしたなら、しかもそのアンドロイドがコピーされたゴーストを持っていた(魂を吹き込まれた人形)なら、それは命を持ったアンドロイドを殺すことになるのではないでしょうか?

ここが最も大事なところで、イノセンスではバトーのセリフからコピーされたゴーストを持ったアンドロイドが人間と同等に(少なくともただの機械としてではなく)犠牲者として扱われていることがわかります。原作マンガでは人的被害への言及だけで、このアンドロイド自身の命については触れられておらず、機械として処理されるだけにとどまっていました。一方イノセンスでは「人間のことじゃねぇ」という一言がセリフの真ん中に入ることで原作との違いが強調されています。

コピーされたゴーストは多少劣化するといえど元の少女と同様に感性を持ち、恐怖や嫌悪もするものなのでしょうか。事件のアンドロイドはセクサロイドとして機能するときに生身の少女のような反応をするのが評判だったそうなので、それを入れたアンドロイドが人間に近い反応をする程度にはコピーされたゴーストに感性があったのは間違いないでしょう。
そうであればアンドロイドに入れられたコピーのゴーストはかなり不本意な状態です。「自殺」が細工による暴走の結果なのかコピーされたゴーストの行動なのかはわかりませんが、彼女たちにできたのは傀儡謡の歌詞にあるように「怨みて散る」ことだけだったのです。

もっとも、コピーされたゴーストを持ったアンドロイドが他人から人間としてみなされるかどうかは意見の分かれるところだと思います。コピーされたゴーストは物理的な肉体がありませんし、コンピューター上で管理できるデータと化しているので人間とはみなされないのでしょうか。それともゴーストであることには違いなくオリジナルとは違うもうひとりの人間になり得るのでしょうか。
攻殻世界では基本的にゴーストの有無を人間と機械の境目とされているようですが、この場合、簡単に判断しかねる事案だと言えるでしょう。少なくとも、イノセンスにおいてはバトーによって「魂を吹き込まれた人形」と考えられました。

以上のことがらよりイノセンスは原作マンガよりロボットや攻殻世界を基準としたとき命について踏み込んで考えられていると言えるでしょう。攻殻を作った史郎正宗はものすごいけど、それをさらに押し広げた押井守もすごいんです。

ちゅうい
先ほどから話している攻殻用語の「ゴースト」ですが、簡単に言い換えるのが難しい言葉です。魂、精神(人間の精神のはたらきそのもの)、意識、人格、自我、自己、自己同一性、自分のことを認識する力…そういうものの複合だと捉えています。

人はどうして人形をつくりたがるのか

さて、私がイノセンスで推したいポイントは説明しましたので、次は難解なハラウェイとキムの話をなるべく簡単にかみ砕いていきたいです。けっこうなボリュームになりますが、2人のユニークな考えを一個一個読み解いていきましょう。そうするとラストシーンや円盤パッケージに描いてある人形と動物(バトーの飼い犬のバセットハウンド)の意味が見えてくるはずです。

アンドロイドの鑑識をするハラウェイは捜査に来たバトーとトグサに持論を披露します。アンドロイド、とくに愛玩用の暴走が多いのは「使い捨てをやめてほしいだけ」だと。
だいたいの意味をくみ取って書き出しますが、ハラウェイのセリフだけだとわかりにくいところがあるので()の中は私が補足しました。

愛玩用のロボットは功利主義や実用主義を無視して人体の理想形としてつくられるが、どうしてそんなものを作る必要があるのか?(それは人間は理想的な自分の似姿を作りたいという欲望を根源的にもっているからなのだ)

人間はロボット以外にも「人間」とはいえないものを作っている。それが子供である。「確立した自我を持ち自らの意志に従って行動するもの」を「人間」とするなら、(まだあやふやな自我しか持たず)明らかにその範疇から逸脱している子供は「人間」という定義にはあてはまらないのでは?

もしそうであれば、子育て、つまり子供という「人間でないもの」を育てるということと、理想的な自分の似姿の人造人間(ロボット)を作るということはどちらも同じく人間の根源的な欲望を満たす行いなのではないか?

だいたいこのようなことをハラウェイは言っていました。ハラウェイは子供も愛玩用のロボットも、人間の被造物として同じようなレベルでとらえているようです。このハラウェイの独特な考えについてバトーは、肯定も否定もせず娘を亡くした哲学者のデカルトが人形に名前をつけてかわいがったという逸話を引き合いに出しています。

後でも出てくるので、ここでデカルトという哲学者についてほんの少し触れておきましょう。
すごくざっくり説明するとデカルトは世界・ものごとを徹底的に数学的にとらえる姿勢の人で、世界は自分の精神と数学的にとらえられる(数字で計測できる)物質で成り立っている(心身二元論)と考えた人でした。
たしかにこの考えだとものごとを正確にとらえられるでしょうが、デカルトの心身二元論は他人にも自分と同じように精神のはたらきがあること(攻殻的に言うと他人にもゴーストがあること)を証明するにはちょっと説得力が足りないのです。亡き娘の代わりに人形をかわいがったのもこの思想によるものかもしれません。

話を戻しまして、妻子をもつトグサはハラウェイの話を聞いて子供は人形じゃないとちょっと怒ってしまいました。トグサはいい意味で普通の感覚を持つ人なので当然でしょう。

ちなみに壊されたアンドロイド、タイプハダリの「ハダリ」とはフランスの作家リラダンのSF小説に登場する人造人間の名前で、ペルシア語で「理想」の意味だそうです。

完璧な人間をめざして

では次にキムの話をたどってみましょう。事件の手がかりを探してやってきたバトーとトグサに対して、キムは人形に魂を吹き込むなんて無粋だと話しはじめます。キムの論によると「真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身の人間」なのだそうです。

わたしたち人間の認識能力は不完全です。見間違いや聞き間違いはだれしも経験があると思います(先述のデカルトはそれを克服しようとして数学的なものの見方を徹底したのです)。
認識能力が不完全だということは現実も不完全にしかとらえられないことになります。現実を完全にとらえられるとしたら完璧な認識能力のある神か、あるいは認識能力を全く持たない人形だとキムは言います。

ここで疑問が浮かびます。神を完璧な存在と想定しているなら納得ですが、キムはなぜ人形が神と同じく現実を完全にとらえていると言うのでしょうか。これは後述します。

キムはまた、こういうふうにも言います。人はいずれ死にますが、もしも生身の人形(魂を持たない生身の人間)の状態でいられれば、死んだ上で生きることができると。
死という事象を知ったうえでなお生きていることは普通の人間には成し得ないことです。それができるとしたら神なのではないでしょうか。キムが全身義体になって人形のように横たわり続けるのは少しでも完全に近い現実をとらえるため、言い換えていいなら少しでも神に近づくためと言えるかもしれません。

無意識の喜びとは


そしてもうひとつ、神と人形に匹敵するほどの認識能力を持つものがいるとキムは言います。それが「深い無意識の喜び」を持つ動物だというのです。どういうことでしょうか。これはキムが言うシェリーという詩人の詩を読まないとまったくわからないので、まずこの詩を読むところから始めましょう。

キムが引き合いに出す動物のたとえのシェリーのヒバリとは、イギリスの詩人パーシー・シェリー(2番目の妻がフランケンシュタインで有名なメアリー・シェリー)の詩に登場する「声の主」ことです。邦訳を一部抜粋して紹介しましょう。

教えておくれ声の主よ
お前が何を思っているかを
こんなにも清らかな歓喜にみちた
愛とワインの賛歌を
わたしはいままで聞いたことがない

お前の歓喜の叫びには
憂愁のつけ入る余地はない…

我々人間は侮ったり 憎んだり 自慢したり 恐れたりし
素直に鳴くようには
生まれついていないから
お前が喜ぶようには喜ぶことができないのだ

人間はいろいろなことを認識します。それゆえに様々なことを感じます。例えば人が自分からわざと他人に自慢をするときは、自分が他人よりも優れていると知っている状態で自慢をします。もしもほかの人と比べて自分が優れているかどうかわからなければ、そもそも自慢することができません。

一方動物はどうでしょう。動物の多くの行動は生存のために行われるもので、もし自慢のような高度で複雑な行動が行われるとしても高度な社会性を持つほんの一部の霊長類くらいではないでしょうか。
ヒバリがさえずりながら高く飛ぶのは縄張りを主張するからで、多くの子孫を残したり餌場を確保するためです。決して美しい鳴き声を自慢しているわけではありません。シェリーが詩に綴った「清らかな歓喜」に満ちたヒバリの声を、キムは「深い無意識の喜び」の例だととらえたのです。

無垢、知らないということ

つまりキムが言うところには、動物は人間ほど認識能力を持たないので、そのぶん簡潔に現実をとらえているのです。あるものごとの存在を知覚しなければそれは現実に存在しないのと同じということなのです。
人間は中途半端に認識能力が高いゆえに、知覚しなくていい余計なことまで知覚し、結果的に現実をあやふやにとらえてしまうのです。一方、動物は余計なものを知覚しません。
それは人間と比べて無知な状態(英語でいうイノセントです。ようやくタイトルにつながってきました)とも言えますが、同時に余計なことに毒されていない、汚れがない状態ともいえるでしょう
例えば人間におこる恨み、憎しみ、妬みといった高度で複雑な負の気持ちを動物は知りません。それゆえに彼らはこのような苦しい気持ちに苛まれることなく生きていられるのです。

以上のことがらより、完璧な人間を目指しての段落で浮かんだ疑問にも答えがだせます。キムが人形の認識能力が神と同じくらい現実をとらえているというのは、人形は一切を認識しないのでとらえるべき現実も一切ないからです。人形はまったく汚れのない世界に生きているといえるのかもしれません。なんだか少し屁理屈のようですが、キムの話す理論としてはこのように導かれます。

リバイバル人間機械論

全ての現実を100%としたとき、100%完璧にとらえる神と、そもそもなにもとらえる必要がない、つまり0%とらえるだけでかまわない人形。キムはこれらに完璧さを見出すのです。そして余計なことを知らずに喜びに満ちて生きていられる動物をそれらと同等として扱うのです。100か0か、極端です。キムにとって中途半端に認識能力を持ってしまった人間は完璧からは程遠く、美しくないのです。

そしてキムは捜査にやってきたバトーとトグサに人間機械論について話し始めます。

その前にまず人間機械論の前身と言える動物機械論について話しておきましょう。デカルトは心身二元論で人間には精神があるが動物には無いと考えました。そして動物を機械としてとらえる動物機械論を唱えました。

これはわたしがいつかの授業で聞いた逸話ですが、デカルトは勉強会に訪れた貴族のご婦人たちにこんな旨の話をしたそうです。
ボタンを押せば機械が反応するように、動物もある行動をすると決まった反応をするのです。例えば犬は傷つければキャンキャン鳴くものです。どうです?決まった反応をするでしょう?
そういってご婦人たちの前で犬を傷つけ殺してみせたそうです…。

このデカルトの動物機械論から発展して18世紀フランスの医師だったラ・メトリーは人間機械論を唱えます。人間にも魂なんてなくて、世界はすべて物質で成り立っているよという思想です。

しかし今こうして文章を読み書いている「自分」とはなんでしょうか。今まさに行動し感じている「自分」は簡単に否定されて消え去るものではありません。
18世紀の人間機械論に対して「自分」というもの(言い換えるなら自我、精神のはたらき、攻殻的に言えばゴースト)の存在は大きく立ちはだかりました。しかし攻殻の世界では人間が自分の肉体を義体に交換し、文字通り機械になることができます。精神のはたらきの中枢である脳にさえ電脳を繋げ、記憶をコンピューターに保存できてしまいます。

人間機械論の不安

こうなると、人間機械論の前に立ちはだかった「自分」の存在もかすんでしまいます。やっぱり人間はラ・メトリーの言うように機械と同じで、「自分」というものも錯覚なのでしょうか。
全身を簡単な部品に置き換えることができ、精神をつかさどる脳やそこに保存される記憶すらも編集できるものになってしまったなら、人間は人形とさして変わらないのでは?キムがトグサに投げかける疑問の「人間という現象は本来虚無に属しているのではいか」とは、こういうことです。

そして追い打ちをかけるように次のように続けます。人間は認識能力も不完全であるし、その肉体は機械でパーツの組み換えが可能になった。もはやそのゴーストも不確かである。人間が人形を不気味に感じるのは、そんな不確かな人間をもとに人形をつくるからであると。人間にとって真に望ましいのはその逆で、人形が人間のあるべき理想の姿であると説きます。

キムの言う「人間が完全なハードウェアを装備した生命という現象は幻想」だというのは、ゴーストの否定であり、デカルトの心身二元論の否定です。世界を物質のみでとらえ(これは唯物論といいます)、その中で限りなく人形に近い状態でいること。繰り返しになりますが、それが人間の理想だと定義するのがキムなのです。

守護天使

おのれの理想を語りながら2人に電脳へのハックを仕掛けるキムですが、バトーは騙されたフリをしているだけでした。「お前とは履いてる靴が違うんだよ」とはつまり思考の前提からしてまったく違う考えだということでしょう。

バトーがまったく揺らぐことなくゴーストの存在を信じられるのは素子の存在があるからです。素子は一切の肉体を捨ててネット上の存在となってなおゴーストを持ち、「守護天使」となってキムによる電脳への攻撃からバトーを助けました。素子の存在そのものがキムへのこれ以上ない反論になります。
かくしてゴーストの存在を信じる者が場を勝利したのでした。

それは、いのち

では、ハラウェイとキムの語ったことはまったく否定されるべきことなのでしょうか。イノセンスのラストシーンからそうとは言い切れないとわたしは考えます。ここからは私個人の考えです。

ラストシーンでフォーカスされるのは人形を抱くトグサの娘と、預かってもらっていた飼い犬のバセットハウンドを返してもらって抱いているバトーの姿です。押井監督はこんな不思議なシーンでイノセンスを結んでいるのですが、この2人の姿はよく似ていると思いませんか。

まず人形を抱くトグサの娘ですが、ハラウェイが言う人形遊びをしている女の子にそのまま当てはまります。そしてバセットハウンドを抱くバトーはこの子とそっくりなのです。
どんな犬もそうですがこの犬種はとくに手がかかるそうで、長い耳やだぶついた毛皮の汚れがたまらないようにしたり、栄養面でも気を付けないといけなかったり、飼育で気を付ける点が多いそうです。イシカワもバトーに向かって独身でこんな稼業のやつが手のかかる犬を飼うなと言っていました。バトーはこの子をかなりかわいがっているようで、危険を冒してまで半生タイプの餌を与えることにこだわっていました。

バトーの飼い犬のバセットに対する行いは女の子がままごとで人形をかいがいしく世話をしてかわいがる様子によく似ていると思いませんか。

勿論、命ある犬と人形の違い、犬の飼育と人形遊びは責任の重さの違いは理解しています。しかしキムが言う通り動物と人形が人間とは違って汚れの無い世界に属するというのは間違いではないように思います。さらにハラウェイの話にトグサの娘とバトーを照らし合わせるなら、二人とも「人間ではないもの」を育てています。
ハラウェイが話中で指した「人間ではないもの」は子供のことであって、トグサの娘が抱く人形とバトーの犬はハラウェイの言う「自分の似姿」というものとは外れます。しかし両者とも人間とは違い余計なことを知りすぎることのない無垢な存在で、キムがそうしたようにある種の憧れを人間に抱かせる存在です。

以上のことをまとめると、人形、犬(動物)、そして子供はすべて「人間ではない無垢な存在」にあてはめることができます。だとすれば人形も犬も、子供と同等な、少なくとも近しい価値を持ち得るものとは言えないでしょうか。
ハラウェイが言った「自分の似姿を作るという人間の根源的な欲望」とは彼女の論だけでは言葉足らずだったのです。より正確に言えばこれら無垢なものを育てたい、触れていたいという思いなのではないでしょうか。現実に生命があるかは問題ではなく、人間にこのような思いを抱かせる無垢なものをまとめて「いのち」と呼ぶのではないでしょうか。
わたしはキャッチフレーズの「いのち」の正体をこのようにとらえました。

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