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稲穂のように

皆様お疲れ様です。
前回は母のことについて書かせていただきました。
たくさんの「フォロー」「スキ」をありがとうございます。
皆様の反応が今日の文章を書く勇気となりました。


本当にありがとうございます!


今回は私の暗い部分について書きました。

私の情けない部分でカッコ悪い部分です。


明るい気持ちになれるお話しではないと思いますが、言葉では伝えれないことなので書きました。

少しだけお付き合いしていただけると幸いです。

コーヒーを片手にいかがですか?※お酒でも可


また、感情的で読みづらい部分も多いかと思いますが、「文章下手だなぁ」と思いながらご拝読いただけると幸いです。

コーヒーの準備はできましたか?※お酒でも可


私が生まれたのは1987年1月

俗にゆうゆとり世代というもので
また最終的に失われた10年間といわれるものです。

ゆとり世代と一括りにされるのはあまり好きではありません。

何を持って失われているのか
何を持ってゆとりされているのか

なりたい職業No.1に公務員であることが
失われているのでしょうか。

さっぱりわからないまま、成長していきました。


いや、そもそもこういうお教育をしてきたのはその時の大人たちです。

自分たちで ゆとり世代を大量生産して
自分たちで 失われた世代と悲観して


私達はそこでどんな功績を残せばいいのだろう?
何をすれば存在を認めてくれるのだろう?

そんな矛盾の中で生きてきました。


私の父はいつも高圧的で
「子供達は親父の部下である」をモットーに言葉と力で押さえつけることを教育だと考えていました。


子供に手をあげることは愛情だという理論により、私達兄弟は少なからずトラウマを持っていると思います。


そんなことがあり、兄は高校時代から家出を繰り返し
高校卒業後は家族と離れて暮らしました。


それが原因か私には高校入試の選択肢は与えられず、
父の決めた通り地元の高校へと進学しました。

「親の言うことは絶対である」
「目立つような真似はしてはいけない」
「間違ったことをしてはいけない」
「失敗をしてはいけない」
「ルールを犯してはいけない」


私はそのような言葉ででき上がった人間でした。


何かを発信するタイプの人間でもありませんでしたし、
むしろ、発信して失敗しているのを見ながら
「ほら、やらなくてよかった。目立つようなことをしたから報いがあったのだ」

と胸を撫で下ろしていたような心の貧しい人間でした。


父の仕事が手一杯になってきたことをきっかけに、私は新卒22歳で父の会社へ入社しました。


父の会社は「実家のお米作り」「会社の営業活動」と大きく分けて二つの仕事があります。


畑仕事は私の性分に合っていて、穏やかな気持ちで稲の成長を見守ることができます。


空気は気持ちよくで、風は心地いい。
お日様もカラッとしていた心地良い。


「何もないけど全てある。」


そんな感覚を味合わせてくれる田舎の田んぼが好きでした。
地元の方から「田んぼを知ると言うことは人としての生きる道を知ることになるよ。」と

【実ほど頭を垂れる稲穂かな】


という素敵な言葉を貰いました。
成長すれば頭が下がり、謙虚になる。


私もそんな大人になりたいなと心底思いました。


しかし、営業部門ではとても四苦八苦しており、社長息子と言う立場もあり、数字を残す結果だけが求められました。


営業は苦手でした。
畑とは違う難しさと厳しさがありました。


父を囲む従業員、お取引先は凄腕の営業マンばかりで、私とは力の差も歴然でした。


私は揉まれながらも成長していく環境でいることを嬉しく思いましたが、父の周りは私がいることを気持ち良くは思ってないようでした。


なんとか周りに追いつきたくて死ぬ気で努力したつもりでしたが、周りの人たちが10年20年かけて築き上げた経験を1−2年で追いつくことは到底難しく、焦りばかり増えていったことを覚えています。


自分のスキルが周りに追いつけない焦りと、
出来て当たり前、出来ないと見放されるという社長息子という立場に心はすり減り、パニック障害を併発するようになりました。


それでも精神安定剤に頼りながら、自分を追い込み続け、なんとか食らいついていきました。



仕事ができると言われる人たちは、生き抜くために様々なスキルを持っていました。


営業の技術、人を見抜く力。

弱いものには容赦がなく、平気で出し抜く。
呼吸をするように嘘をつき、自分を正当化する能力は超一流。


道徳の授業はなんの為に習ったのか。
型にはまって正解を言えば優秀だと言われていた学生時代はなんだったのか。


私の受けていた教育と人間論は、彼らにとっては格好の餌でしかありませんでした。


調べればわかるような嘘も平気でつかれ、私が舐められていることは一目瞭然でした。

力を持った人は、その力で周りをコントロールし、さらに大きな力を得る。


とにかく自分の会社の利益になるように。
自分が会社の中で優位になるように。
自分が儲かるように。
自分が良ければそれでいい。


そこに振り切っている人ほど強い印象でした。


私は、こんな性格なので、さまざまな損害も受けました。


取引先の入金がないことはしょっちゅう。
「明日払います」といって翌日にはいなくなる。


計画倒産に巻き込まれることも。
初めから一円も払う気のない商売でした。


お金を失うのはまだいいです。
なんだかんだ勉強代として私の経験になりました。


お金よりも、その人がいなくなることの方が辛いかったです。


お金なんてゆっくり返せばいいのに、なぜ一緒にどうすればいいか考えてくれなかったのだろう。
真剣に相談してくれなかったのはなぜだろう。
今は苦しいけど頑張ろうねってビールを乾杯したことは一生の財産だと思っていたのに。


それがなくなったと思うことが一番切ないのです。


そんな気持ちとは裏腹に周りの信頼していた人達は、父の元をどんどん去っていきました。


「私の父の言い方が気に入らない」
「今の時代に合わない」
「あなた達はひどい人だ」


私にそう説明をして去っていきました。


去り方が異常にはっきりしているので、それを先導している人がいると知りました。

その人は私が入社以来、一番仲の良いと思っていたお取引先でした。


その人だけは「社長の息子」としてではなく「吉岡康仁」を見てくれていました。
仕事もプライベートも共にして、一緒に汗をかいて、一緒に笑ってくれた、そんな人でした。
その人とは何年も仲良くしていたつもりでした。


私がそう思っていただけで、したたかに計画していたのかもしれませんね。


そういったことが重なっていくうちに、社会の中で生きることは、こんなにも心が汚れていくことなのだなと20代の私は感じていました。


だとすると私はどうしよう。
どうやって戦おう?


「その人達よりも黒く生きるか」それとも「どれだけ喰われても自分の納得いくようにするか」

当時の私はその二つの選択肢しか思い浮かびませんでした。

どちらもしんどい人生になるのはわかっていましたが、結果的に後者を選びました。


自分が自分じゃなくなったら、何もかも終わらせてしまいそうな気がして。


しかし、やられるままのお仕事は、心に応えます。


落ち着かない心を、増えた精神安定剤で落ちつかせました。

精神安定剤を服用した方はご存知だと思いますが、
薬で安定した心は喜怒哀楽を失います。
悲しくない代わりに、楽しみが消えます。
怒る感情が減り、笑うことがなくなります。


感情が無くなっていった私は
ただ、生きているだけ。
淡々と仕事する。

そんな日々でした。


そして、父から会社を受け継いだ29歳の頃には、周りには誰もいなくなりました。



新規の取引先の獲得も難しく
「吉岡さんと関わっていては商売にならない」
「吉岡さんと関わる人とは取引しないと言われてる」

と変な噂話が広がっていることに気づきました。


去っていった人たちの影響でしょうね。

そうしているうちに、会社の業績はどんどん悪化していきます。


母が死に、周りに誰もいなくり、業績も下がったことで父は私によく当たるようになりました。

「お前のここが悪い。」
「お前は向いていない。」
「私の若い頃は。」
「だからゆとり世代は失われている。」
「精神薬が足りていないのじゃないか。」
「そもそも薬を飲むような心の弱いやつでは話にならない」
「お前は会社のお金を盗んでいるだろ。」


今、思い出しながら文字に起こしても、指が震えます。
呼吸が乱れます。


そんな言葉をほぼ毎日浴びました。


夜の11時であろうが12時であろうが関係なく注がれる言葉は私の心を蝕み続けました。


次の日には何もなかったように話しかけてくる姿にも、私にはしんどく思いました。


そして5年前の6月9日私はある決断をしました。

「もういいよ。この人のためにもう終わろう。」と


文章にしてしまうと意味のわからない言葉ですが、私は本気で思いました。


今まで29年間私はこの人の鳥籠の中で生きてきた。


小さい時から、社会人になった今でも言うことを聞いてきた。
それに答える努力もした。
周りには薬を飲みながら必死にやっている人なんていないのに私はそれをしてきた。
それでも私は報われない。
きっとこの人の言葉に支配され続ける。

でも、私が死ねば流石のこの人も気づくでしょう?


社会人になったら通用しない教育をしといて、
通用しないことで然りあげて。
それが間違っているとは思いもしない。
私が死にでもしないと気づかない。
あなたの人生で一番いうことを聞いてきた私が死ねばこの人も変わることでしょう。


そうやって「この人の為に死のう」と本気で思いました。

どんなに他人に騙されとうと、死までは想像しなかった私だけど、その時いなくなりたいと思ってしまった。


親からの言葉は心の奥まで砕くのですね。


自分の命に尊さは感じませんでした。
それは父に「無能」と烙印を押されていたからでしょう。


亡くなる前に母に挨拶をしようと、仏壇に前に手を合わせました。
「そろそろそっちへいくね。」とお話ししました。

そこで見た母の表情は、いつもと違って見えました。


いつもと変わるはずのない写真が、どこか、悲しい顔をしてました。


笑っているけど、悲しんでる母親特有の表情。


その時になぜかわからないけど、一瞬だけ
「死ぬには少し早い気がする。」
と思いました。


なぜそう思えたかはわかりません。


わかりませんが、仏壇の前でポロポロ涙が出てきたのを覚えています。

「私が命を落とせば全てうまくいく」と決めていた覚悟が涙とともにどんどん崩れていきました。


本当に不思議な感覚でした。


少しだけ心に隙間ができた私は思い出しました。


母の最後の言葉を。
生きているだけで感謝をしてくれた言葉を。


私は自ら命を落とすために生まれたんじゃなかった。


母が亡くなったとき、母の分も生きようと決めたのだったと。


私はもう少しだけ頑張る決意をしました。


頭を垂れる稲穂のように、どんなに打たれても、騙されても揺れる稲穂のように受け止めていく。


穏やかで強い稲穂のように凛としていたい。


自分を稲穂のようになりたいと思えた時、自分を少しだけ愛らしく感じる事が出ました。


ほら、私はゆらゆら揺られていますよ。
どうぞどうぞ揺さぶってくださいな。
どうぞマウント取ってください。
あんたが天下です。
私はどんなに揺れても立派に生きてますよ。


そうやって自分を稲穂に例えたことで、悲しいことも受け流せる人間になったのかもしれません。


そこから、父の放つ罵声も、自己利益のために出し抜いていく人を見ても、落ち込むことは無くなっていきました。


「あの時人生終わってたな。」という経験があるからこそ、今の自分がボーナスタイムのような気がします。


そうすると、父の今までの言葉を全て受け入れる域に達しました。


そして、傷ついた言葉も父の愛情表現の言葉と認識することができました。


もちろん傷つけたいだけの言葉もあります。
どんなに思い返しても「あの一言、絶対いらんやろ!」って思う言葉もあります。


でも、その言い方しか知らないのだから仕方ないな。
って思えるようになりました。


最後に皆様にお伝えしたいこと。


もし、私と同じように皆様がご両親や上司に傷つけられた方がいたら、全力で励まさせてください。


あなたの悲しみ、悔しい気持ち、諦めしまいそうな気持ちとってもわかります。

でも、これだけはどうしても伝えたい。


あなたは被害者です。

あなたは悪くありません。


周りの環境があなたを追い込むように設計されているだけです。

絶対に生きてるだけで尊いです。
絶対です。


しかし、彼らもまた被害者です。


その言い方しかできない彼らは、知らない間に友達を失っています。


その人の大切だった人も、自分の伝え方の悪いせいで心が離れてしまう、そんな被害者です。


「こんなに愛しているのに、なぜみんなは離れていくのだ!」
そんな矛盾を抱えて生きているでしょう。

とても寂しい気持ちだと思います。



だからこそ
私は「失われた世代」とバカにされたとしても、「かわいそうだな」って受け入れてあげます。


「私達の頃は」と語りが始まったとしても
「うんうん。」と聞いてみます。


騙されて悲しい夜を過ごしたとしても
「騙した人は今頃心が空っぽになってないかな。」
「きっとそうする戦い方を選ばざる得ない人生だったのだな。」

と心配します。


人に迷惑をかけながら生きている人もきっと傷つきながら生きています。


力強い稲穂のように。
謙虚な稲穂のように。

良いものにも悪いものにも、ゆらゆらと揺られながら、生きましょう。


あなたは尊い。


長文のご拝読、誠にありがとうございました。


▼田植えの動画をアップしております。ご覧いただけると幸いです。

https://youtu.be/WxiU-yL33Bg

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