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「52ヘルツのクジラたち」を読んで

20代後半の、貴瑚が九州の祖母が昔1人でくらしていた海が見える古い住宅に越してきて物語が始まる。携帯も解約し、全ての縁を切って、思い出のアンさんを想起して行く描写から、ただならぬ過去を感じ、お腹の傷から何やら恋愛関係の拗れから縁を切ったのだろうと想像して読み進めていく。また、自分のことを「ムシ」と形容する、痩せこけて、服も汚く、肌にはあざがいくつもみられ、声を出すことができない中学一年生の男の子と出会い物語が進んでいく。貴瑚の傷は恋愛関係が故の傷ではあるが、外傷以上に心の傷が深い貴湖の過去に、男の子の現状とが相まって、2人の心に寄り添って物語が進んでいき、引き込まれ、共感し、気づけば涙一杯で続けて読み終えてしまった。

特殊な境遇の2人を通して、自分の中にあたりまえにある、与えられていた愛情、あたりまえの日常、交流に感謝の念が禁じえない。

物語の中で、心に残った文に、
「人というものは、最初こそもらう側やけんど、いずれは与える側にならないかん。いつまでももらってばっかりじゃいかんのよ」
とおばあさんが話すことがある。

“大人になる“ってどういうことだろう。
自分でお金を稼いで生活が自立できること、社会の中に溶け込むこと、人に迷惑をかけないこと。いろんな定義はあると思う。
本書を読んで、
“与えることができる人になること”
与えることができる人は、そもそも自分に対して与えることができており、心身ともに自立している。これこそが“大人になること”なんだとはっとさせられた。

物語の中には、無性の愛を与えてただ、貴瑚の幸せに寄り添って、時には怒って、時には涙してくれる友人、大切な人が登場する。“優しさ”とは、相手を嫌な思いにさせないことではなく、“相手を思い、本心で幸せになってほしいと思う心から行動すること”なのだと、自分の在り方に対して再考するきっかけとなった。

アンさんという、貴瑚に対して無償の愛を与えていた人の手紙に、
「私は不完全な人間です…—わたしは彼女の心身の両方を満たせる自信はなく、そんなわたしが彼女を望めばいつか彼女を苦しめるでしょう」
と綴られていた。
アンさんにも事情がある上での手紙だが、自分と照らし合わせると、
人は皆不完全、人を愛するのに必要なのは、資格でも資質でもなく、覚悟なんだと思う。アンさんの遠くで幸せをただ願う態度に、自分の弱さやコンプレックスを曝け出す覚悟、その上で相手を愛する、愛し合う覚悟がないだったのではないかと読んでいる途中思っていたが、手紙の最後の、
「自分は過去の登場人物にならなければいけない。」という、自分の思いや欲望に蓋をして、相手を真に思うが故の強さもあるのだと感じ、自分の気持ちや思いを表出することが素晴らしい、それをしないのは勿体無い、存していると思っている自分の浅ましい価値観に気付かされた。

人との繋がり、心のあり方、生き方、愛と友情、家族、傲慢と嫉妬、優しさと罵倒、承認欲求と他責思考いろんなことを感じさせてくれる本で、出会えて本当によかったと思う。

“本当の優しさ”を持って、“与えられる人”になっていきたい。

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