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「幻日」 第1話

あらすじ:

伊崎 朱音は、最近誰かに見られているような気がしていた。それも複数の視線に追われている。 複雑な家庭環境の中、絵画の才能を持つ朱音は、ある日コンクールに出す絵を壊され、駅のホームで背中を押され「音弥」と名乗る男の子と出会う。不思議と音弥に惹かれる朱音は、彼をモデルに絵を描こうと決める。
 犯人が誰かわからないまま、十年前の事件をにおわすような手紙が届く。

 深沢 朋奈は、子連れ同士で再婚した史也と上手くやっていたが、最近夫が浮気しているのではないかと疑い始める。子どもたちは可愛いが、二人の子どもが欲しいと考える朋奈は、史也との意識の違いにどんどん病んで行き、やがて事件は起きる。

プロローグ

 記憶にあるのは、いつも泣いてる母の顔だった。
 どうしたの? ママ、何で泣いてるの……? そう声を掛けると、その瞬間顔が歪み、伸ばした手をぱしっと払いのけられる。そして悲しげだった顔が歪んでいく。

「あんたのせいで」

 睨みつけてる母の顔。

「あんたがいなかったら」

 払いのけられた手を悲しげに見つめていると、反対に母の手が伸びてくる。その手が首に回される。
 なにがなんだかわからないまま、泣いている母親にすがりたくて手を伸ばす。しかし届かない。首に回る手に力が入る。――苦しい、と思うと瞬間母の手は消える。
 そして次の瞬間、包丁をこちらに向けて泣き続ける母の顔があった。

 ――何度も、何度も、何度も繰り返し見る、夢だった。

 はっ、と悪夢から目が覚める。いつもの夢だとわかっていても、何度見ても慣れない。
 伊崎 朱音は悪夢を振り払うように頭を大きく振り、時計を確認する。六時二十分。あと十分でアラームが鳴るところだった。目覚めは最悪だが、そのまま起き上がる。
 着替えて部屋を出る。二階にある自室から、リビングのある下の階へ降りる。
「おはよう」
 朝食の準備をしている母ーー伊崎 綾子と、朝食を食べている父ーー伊崎 洋平に声を掛ける。
「朱音、おはよう」
「おはよう」
 綾子が朱音を見て笑顔で声を掛け、洋平もそれに倣うように声を掛ける。
 キッチンにいる綾子のところへ行き、自分の分のごはんをよそう。お茶を入れ、テーブルへ戻る。
 朝食の横には、洋平と自分の分のお弁当がふたつ並べられている。
 朱音には、この生活こそが夢ではないかと思う時がある。朝食を取り、自分の分のお弁当を袋に入れて「行ってきます」と声を掛けて外に出る。「行ってらっしゃい」と声がする。平和な日常だった。
 しかし最近、朱音には気になることがあった。
 誰かに見られているような気がするのだ。それも、複数の視線に。

1.

 夫のことを信じられなくなったのはいつからだろう。深沢 朋奈は考える。あんなにも決心して、今度こそ幸せになると思ったのに。いつからか、「仕事で遅くなる」という言葉が嘘に聞こえるようになった。自分じゃない誰かと会っているんじゃないか、家にいるのが息苦しくなって避けているんじゃないか。そんなことばかり考えてしまうのだ。
 朋奈は三年前、夫である史也と再婚した。前の夫は、朋奈が妊娠中に浮気をしていて、出産後にそれが発覚した。乳児を育てることは幸せなこともたくさんあったが、あまりにもか弱い存在を朋奈一人に託される責任感と物理的な負担で限界だった。それでも愛する息子のため、夫のためと必死に子育てをしていたが、そんなときに夫の「妊娠中からの不倫」が発覚したのだ。朋奈の心は一気に限界を迎え、崩れ落ちた。離婚を迫ると、夫は意外なほどあっさりと不倫を認め、離婚を承諾した。息子の親権すら求めなかった。そのことも、朋奈の心を蝕んだ。養育費も慰謝料も払うという。――元夫は、自分のことも息子のことも、求めてなどいなかったのだという現実に打ちのめされた。ドラマや漫画では、不倫を突きつけると夫は妻に縋ってくる、そうであると思い込んでいた。離婚という現実と求められていなかったという感情に引き裂かれそうだった。その上、慰謝料は支払われたが養育費は二度で止まった。息子の将来を考えると戦うべきだと思う一方、もう限界だと心が悲鳴を上げる日々。そんなときに出会ったのが、今の夫である深沢 史也だった。
 史也とは同じ保育園で出会った。彼は奥さんと死別しており、娘をひとりで育てていた。誠実で優しい人だと感じたが、育児については限界を感じているようだった。保育園で出会ってからお互いの悩みを話したり、助け合ったりしてるうちに、惹かれ合い再婚に至った。息子、諒の将来のことももちろんあったが、なによりも朋奈自身が頼れて、甘えられる相手が欲しかったと史也に出会って気づいた。今度こそ幸せな家庭を作ろう、子どもたちふたりを幸せにしよう、そう思っていたのに。

「やめてよ! 返してよー!」
 リビングからバタバタと走り回る音と悲鳴が聞こえる。またケンカしているのか。
 再婚して一年と少し、息子は四歳、娘は五歳になった。再婚後、ふたりはすぐにお互いに慣れ、良い遊び相手になった。同時に、良いケンカ相手にもなっていた。この年頃の子どもは、いつも走り回っていて目が離せない。
「諒、音ちゃん! ケンカしないの!」
 声を掛けると一瞬ぴたりと止まりこちらを見上げる。
「だってぇ……諒があ……」
 そして娘が朋奈に助けを求めるかのように涙目になる。
「また諒が音ちゃんのものを取ったの? 諒、だめでしょう、諒のはこっちにあるでしょ」
 諒は構ってもらえるのが嬉しいのか、とにかくいつも音に纏わりついていた。離婚しなければもうひとり子どもが欲しいと思っていた朋奈にとって、諒にきょうだいができるのは歓迎だったし、ふたりを見ていると間違いじゃなかったと思う。
 ただ、最近そこにもやもやとした感情が沸きあがることを、朋奈は自覚していた。
 ――この子は、夫と前の奥さんが愛し合って生まれた子なのだ。
 そんな思いがちらつくようになった。諒は、前の夫が朋奈を愛していて生まれたわけではなかった。簡単に手放せる存在だった。そんな思いに悩まされ、朋奈はそれを振り払う。自分と史也の子どもができたら、こんな考えからも抜け出せるだろうか。
 ケンカしていたと思ったらもう仲良く遊んでいるふたりを見て、朋奈はそっとため息をついた。

 夕食を作り、子どもたちに食べさせ、お風呂に入らせて、隙間を見つけて皿洗いをする。慌ただしく家事をこなして行くうちにスマホの着信が鳴る。開いてみると夫から『今日遅くなる』というメッセージだった。すでに子どもたちが夫と一緒に食事をすることは諦めていたが、そのメッセージを見て朋奈は落胆する。『お疲れ様』と返信して、子どもたちが遊んでいるところへ行く。
 このところ、帰りが遅くなる日が増えた。平日に、一緒に夕食を食べたのはいつのことだったか。なにより、そのことに毎度落胆する自分にもうんざりしていた。いつものことだから、気にしなければいい。そう言い聞かせるのに、毎度落胆し、そしてちょっと夫を腹立たしく思ってしまうのだ。
 仕事が忙しいのは知っている。史也は三十六歳。責任のある立場になって、部下を育てながらプロジェクトを成功に導かなきゃいけない。そういう大切な時期なのだ。史也からも何度もそう説明を受けている。頭ではわかっているのだが……

「ママ? どうしたの? 元気ないの?」
 スマホを握りしめて下を向いていたら、テレビを見ていたはずの子どもたちが朋奈を覗き込んでいた。その不安そうに並んだ顔に、いつの間にか不安と苛立ちで張りつめていた感情が緩むのを感じる。子どもたちに心配を掛けてはいけない。ふたりの頭をぽんと優しく撫でる。
「元気だよ。ありがとう。向こうで一緒に絵本を読もうか。歯を磨いてからね」
 そう言うと、パッと表情が明るくなって洗面台へ走り出す。二人とも本を読むのが大好きで、ふたり分の仕上げの歯磨きを終えると、大事そうに絵本を抱えて布団へ走る。ママ、早く、と呼ぶ声が聞こえる。諒はいつも後を追っている。
 最近はひらがなを覚えてきたので、「自分で読む!」と言って延々と聞かされることも増えて来た。今日も「ママに読んであげる」と笑顔で本を抱きしめている。
 布団の上でうつぶせになって本を開いて、たどたどしくひらがなを読む音。それに続いて、真似をするように声を上げる諒。「上手だね」というと、輝くような純粋な笑顔でこちらを見てくる。その表情を見て、朋奈は心から癒される気持ちになる。この子たちがいたら大丈夫。ふたりが眠そうになってきたのを見て、優しく読み聞かせをすると、静かに眠りにつく。

 ふたりとも眠りについたことを確認して、そっとベッドから抜け出す。途中になっていた皿洗いを終わらせる。時計は九時を差していた。きっとそろそろ史也が帰ってくる。
 子どもたちは可愛い。史也と元妻の間に生まれた娘も可愛い。五歳になって意思の疎通がしやすくなった。良くしゃべるし、ごはんもちゃんと食べる、危険だからやめなさいと言い聞かせれば無茶なことはしない、育てやすくいい子だと、朋奈は思う。そしてその後をついて回って、何でも真似しようとしている諒にもいい影響を与えている。三歳くらいまでは話すのも歩くのも周りと比べると年齢の割にちょっと遅くて、朋奈はいつもハラハラしていたが、再婚してからはぐんぐん上達した。音をよく見て真似ているからだろう。
 そして音は外見もとても可愛い。史也と、見知らぬ元妻に似ているからだろうか。そんなことも思ってしまう。音は何も悪くない。だけどあの子を見てると無性に不安になる。手がかからなく、いい子であればあるほど、なぜか史也の元妻を感じてしまうのだ。どんな人だったかも知らないのに。
 あの子たちを分け隔てて育てるのは絶対に良くない。だからこそ、自分には史也との子どもが必要なのだ。史也も忙しい中、朋奈の考えを尊重して協力してくれている。それは理解できている。だけど、この一年子どもはできなかった。そろそろ、病院に行った方が良いかもしれない。史也にも話してみよう……そう思った時、玄関の鍵が開く音がした。

「おかえりなさい、ごはん食べる?」
「ただいま、うん、貰おうかな」
 史也がスーツを脱ぎながら「おなか空いたよ」と情けない声を出す。朋奈は作ってあったおかずを温める。史也は、会社の飲み会がある時以外は遅くなっても家でごはんを食べる。遅くまで仕事をしていたらお腹が空くだろうが、「朋奈の作ったご飯が食べたいから」と言う。一人で外で済ませてくるのは、日付が変わるくらいの時間に帰宅するときだけだった。ただ、それは最初からそうだったわけではない。夜遅くなって食事を済ませて来た史也に、当初朋奈は浮気を疑ったのだ。元夫とのことを引き合いに出し、思い出して不安になると訴えた。その結果、史也は深夜にならない限りは家で食事をするようになった。そのことを、朋奈はありがたく思う反面、申し訳なさと、「無理にそうさせているのではないか」という気持ちが振り払えずにいた。
 食卓にごはんとみそ汁、温めたおかずとサラダを並べて、朋奈も向かいに座る。遅くなった日のコミュニケーションは、史也がご飯を食べてるときに取る。スーツを脱いで着替えた史也が向かいに座って「いただきます」と手を合わせて食べ始める。この、毎回しっかり手を合わせる仕草を見たときに、丁寧な人だなあと感じたことを思い出す。
「忙しそうだね」
「そうなんだ、子育て任せっぱなしで申し訳ない」
「それはいいんだけど……二人ともいい子にしてる」
 そう言うと、「そうか」とほっとしたように呟いた。
 朋奈は今短い時間だけスーパーでパートをしているが、それほど負担にはなっていない。金銭面で働いているというより、働かないと保育園にふたりを預けられないという理由のほうが大きい。一日中子どもたちと向き合う体力がないということもあるが、それよりも小学校へ上がる前に集団に慣れて欲しい、という気持ちのほうが強い。
「ただ、やっぱりもうひとり欲しくて……そろそろ病院に行ってみようと思うの」
「ああ……そうか、そうだな、一度相談してくるといいよ」
「そうしてみる。音ちゃんがしっかりしてるから、諒もしっかりしてきたし、もう一人きょうだいができても大丈夫だと思うの」
 そう言うと、史也の箸がぴたりと止まる。
「まだそう呼んでるのか……」
「可愛いでしょう」
 史也の言わんとすることはわかるが、わからないふりをした。朋奈にとって、子どもと向き合うにはどうしても必要なことだった。史也が納得が行っていないのも分かっていた。そんな朋奈の空気を察したように、史也も黙った。「あなたもそう呼んでね」と念押しすると眉根を寄せて黙ってしまったが、史也はきっとそう呼ぶのだろう。

 三日後、朋奈はパートの時間を早く切り上げてもらうように調整して、婦人科へ行ってきた。医者には、結婚して一年以上自然にできないなら、不妊治療を考えてもいいでしょうと言われた。いわゆる二人目不妊というやつだ。一人目が自然に出来た朋奈は、子どもが出来づらいことはないと思っていた。だけど、二人目不妊には色々な影響があるということを知った。加齢に伴う妊娠率の低下やホルモンバランス、年齢が上がるごとに起こりやすい子宮や卵巣のトラブル。実際、今日の診察でも子宮筋腫があると言われた。様子を見ながら不妊治療を考えましょう、という先生の提案で、色々と資料も貰って来た。帰りのバスの中、朋奈はため息をつく。不妊治療が大変なことは、同世代の友人や前の職場の人たちからもたくさん聞いていた。金銭的な負担に加え、体力的にも精神的にも追い詰められると。それに加え、朋奈にはふたりの子どもの育児もある。やって行けるだろうか……と不安になるが、朋奈はどうしても史也との子どもが欲しかった。今のふたりの子どもたちは、「史也と朋奈の間の子ども」ではないのだから。
 時間がぴったりなので、保育園の近くのバス停で降りて、そのまま子どもたちを迎えに行く。
 保育園について子どもたちを呼んでもらうと、ふたりとも勢いよく走ってくる。朋奈を求める純粋な子どもたち。なぜこの子たちで納得できないのだろう、ふたりともいい子だし愛しい。「もう一人子どもが欲しい」と思う自分に罪悪感がちくりと襲う。だけど、ダメなのだ。どうしても史也との子どもが欲しいと思う気持ちが消えない。
「帰ろうか」
 ふたりに声を掛けて、右に諒、左に音、両手で手をつなぐ。このふたりを愛したままなら、問題ない。愛してる人との間に子どもが欲しいと思う気持ちは、自然なことだ。なにも間違っていない、と心の中で呟きながら。


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