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「幻日」 第2話

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 伊崎 朱音はこの事態をどうしたものかと考えていた。少し前に校内放送で呼び出され、何事かと職員室に向かうと、朱音を呼び出したはずの担任がとても言いにくそうに目線を泳がせていた。あー、とかうー、とか無意味な音を出している。なにがあったのか全く予想ができない朱音は、「なにがあったんですか? 教えてください」と強めに詰めより、やっと口を開いた。
「伊崎の絵が、壊された」
「……はぁ?」
 予想外のことだった。

 そのまま担任と美術室へ向かう。朱音は放課後いつもここで絵を描いていた。美術部の部員は少なく、朱音がひとりの時も多い。しかし顧問の林は絵画に詳しく熱心な先生で、よく朱音の絵を見に来ていた。
 美術室の扉を開くと、林は朱音の絵を見て沈痛な表情をしていた。
「林先生、どうですか」
「どうって……どうにもなりませんよ」
 担任からの言葉に林はうんざりしたような声を出していた。朱音はコンクール用に描いていた絵に目をやる。描かれているカンバスが切り裂かれていた。それも執拗に、ずたずたに。何度も切り裂いたであろうことに執念を感じて朱音はぞっとした。
「伊崎……こんなことになって申し訳ない。昨日も帰りには鍵をかけていたはずなんだが、今来たときは開いていた」
 林はずっと痛そうな表情をしていた。朱音自身より、この絵を失うことを悲しんでいるように見える。
「通報しよう。こんなことは許されない。内部犯かもしれないし、不審者である可能性もある」
「いえ、そんなことまで……きっとただのいたずらです。まだコンクールまでは時間があるので、描き直します」
 正直、朱音にとっては大事になるほうが嫌だった。担任の顔には、「大事にしないでくれ」と書いてあった。これが内部の犯行だった場合、まして同じクラスの生徒が犯人だったりしたら……なんてことを考えているのだろうと朱音は想像する。担任は、朱音の言葉に勢いよく首を縦に振る。
「そうですよ、鍵の管理をしっかりしたら大丈夫です。そうだ、しばらくは林先生が持って帰ってはどうですか」
 鍵を壊されていたわけではないことから、おそらく職員室にあった鍵が使われたのだと担任は考えているのだろう。鍵は職員室の奥にある。生徒が借りるときは先生に声を掛けるのだが、生徒や教師でごった返す昼休みなどは、誰にも言わず鍵を取りに行っても「誰かが許可を出したのだろう」と見咎められることは少ない。誰にも言わず、美術室の鍵を開けることはそう難しいことではない。
 思惑はどうあれ、朱音にとっても担任の提案はありがたかった。
「大丈夫ですよ、先生。私、もっと良い絵を描きますから。警察の調査に協力する時間があったら、新しい絵を描きたいですし、そうしないと間に合いません」
 そういうと、林は担任に対しては不遜な視線を投げてはいたが、しぶしぶ頷いた。どちらにしても新しい絵を描かなければいけない。それなら時間はもう少ない。そう言えば、林は頷くしかないだろうと朱音はわかっていた。
「ありがとうございます。母には言わないでくださいね、大事になってしまうので」
 それについても、林はしぶしぶながらも頷き、担任は願ってもないと言わんばかりに勢いよく頷いていた。
 それでも今日はさすがに絵を描く気力はなくなったので、帰ることにした。林は帰り際にも、「素晴らしい作品だったのに……」とぽつりとつぶやく。「ありがとうございます」と朱音は返す。林よりも悔しがれない自分は、ちょっとおかしいのではないかと思うほどだった。

 朱音にとって絵は、生きる糧だった。それは大げさではなく、今の生活を得るための手段だった。絵が好きかと言われたら、今は「はい」と即答できない。昔は、あんなにも描くことに夢中で、大好きだったのに。今は、完成直前だったコンクールの絵をズタズタにされても、また描かなきゃ、という気持ちしか浮かんでこなかった。もう一度描くことは、特段苦痛ではない。ただ、さすがに時間がないので、今日一日で切り替えて、明日からは集中して取り組まなければ。

 そう思っていたはずなのに、ふと、ズタズタになったカンバスが頭をよぎる。誰の仕業だろうか。今までもたまに嫌がらせらしきものはあった。だけど、さすがにあれは行き過ぎだろう。朱音を貶めたいという意図を強く感じる。
 朱音の家庭の事情を知ると同情され、絵が評価されると羨まれたり、妬まれたりしていた。そんな感情を好き勝手にぶつけてくる人たちにうんざりしていた。朱音にとってはもう、描くしかないから描いているにすぎないのに。だけど、評価されることを渇望してる人間からしたら、朱音のこんな考えは決して許されないものなのだろう。
 美術部の人間だろうかと考えはするけれど、実のところ犯人になど興味はないのかもしれない。実際にやった人が目の前に現れても、どうせ動機は「気に入らなかった」とか、そんなものだろうし、誰がやったかなんてどうでもいい。ただ、ほっといてほしい。今だからまだやり直しが効くが、これがコンクールの締め切り間近だったら、と考えるとぞっとする。そういう意味では犯人を捕まえたほうが安心なのかもしれない。でも、同じようなことをする別の人間がまた現れないとは限らない。

 ふと、先日クラスで行った課外授業を思い出す。課外授業とは名ばかりの、遠足のようなものだった。クラスメートに親しい友達を作っていない朱音は行きたくなかったが、「行事に参加する単位」というものがあるのでさぼってばかりもいられない。特にやることもなく、バスで大きな公園に向かい、そこで自由に過ごして持っていったお弁当を食べて帰ってくるだけだ。朱音はどうせやることがないと思い、スケッチブックを持って行っていた。クラスメートがそれぞれグループに分かれて思い思いに過ごしている中、朱音はスケッチブックを持って景色のいい場所で写真を撮ったりスケッチしたりしていた。考えようによってはこういう場所にただで来ることができるのだから、絵を描くという意味では悪くないように思えた。公園は広く、見渡すかぎりの緑に、良く晴れて澄んだ空。あまり外にスケッチに出ることがない朱音は、いい機会だと思い、帰る時間までただひたすら描こう、そう思っていた。
「こんなときにまで絵を描いてるの?」
 そんな朱音を見つけて声を掛けて来たクラスメートがいた。名前は思い出せなかったが、いつもクラスのグループの中に溶け込んでいるような子だった。
 質問の意図がよくわからず、「そうだけど」とそっけなく返事をすると、その子と同じグループの子たちに見つかった。
「なにしてるのー? あれ、伊崎さん? こんなときも絵描いてるの?」
「さすがだね、天才少女って言われてるんでしょ? ねぇサインもらおうよ、将来すごい価値になるかもよ」
 いやーないってー! と朱音の反応など待っていないように笑い出す人たち。見下していることを隠そうともしない。不思議なことに、この手の人たちは中学時代には居なかった。壁を作られている、同情されていると感じることはあっても、バカにするような人たちはおらず、こういうあからさまな悪意に晒されるのは高校に入ってからのほうが圧倒的に多い。年齢は上がっているはずなのに、幼稚な行為をする人が増えるのは、不思議なものだなと朱音は思う。
「え、なに? 無視? ほんと感じ悪いよね。そりゃ友達もできないって」
 そしてまた不思議なことに、朱音の反応など全く無視で盛り上がっておいて、こちらが反応しないと気分を害すのだ。本当に不思議な人たち。
「私になにか用があるの? なに? 早く言って」
 そう問うと、笑っていた笑顔が固まる。ここまで悪意を示しておいて反論されることを彼女たちは想定していない。
「はあ? 話しかけてあげたのになんなの、もう行こう」
 そう言って去っていく。
 朱音は高校に入って、たまに起こるこの現象が一体何なのか最初は理解が出来なかった。彼女たちに嫌われるようなことをした覚えはない。まともに会話した記憶もほとんどなかった。しかし時が経つにつれて気が付く。彼女たちは「異端者」を嫌うのだ。クラスに馴染めない、馴染もうとしない人。普通じゃない経歴を持っていて、それを取り繕おうともしない人。朱音のような存在を、とにかく気に入らないのだろう。その理由はいまいちわからなかったが。「そういうものなのだろう」と思うことにしていた。
「莉乃、なにしてるの、早くおいでよ!」
 その声にふと朱音は顔を上げる。莉乃と呼ばれた、最初に声を掛けてきた女の子が名残惜しそうにこちらを見ていた。悲しそうな表情をして朱音を見て、もう一度呼ばれると、みんなが行った方向へ走って行った。

 どうして放っておいてはくれないのだろう。カンバスを切り刻んだ人間も、あからさまに見下して悪意をぶつけて来るクラスメートも。

 ーー私を、放っておいて。そうでなければ、いっそ殺してくれたらいいのに。

 ふとそんな気持ちが頭をよぎる。考え事をしていたら、いつの間にか駅のホームまで来ていた。
 頭が痛い。考え過ぎたのだろうか。目の前が暗くなる。これは貧血だ、と自覚した時には遅かった。倒れる、と思った瞬間、がくりと膝から力が抜ける。
「危ない!」
 倒れたと思ったと同時に後ろから声がした。肩を掴まれて後ろに引かれる。朱音の身体は自然と二歩ほど後ろへ下がった。その瞬間、目の前に電車が到着した。
「あ……」
 気が付くと誰かに身体を後ろから支えられていた。
「ごめんなさい」
 朱音は事態に気づいて慌てて身体を離す。が、まだ貧血が治らず、力が入らない。
「危ないって! いいから一旦ベンチに座ろう」
 若い男性の声だった。再度身体を支えられ、ベンチに促される。朱音が座ると、男性は一度離れ、戻って来て朱音にペットボトルの水を差しだす。自動販売機に行ってくれたようだった。
「ありがとうございます」
 そう言って朱音は財布を探す。
「いいから、とりあえずこれ飲んで休んでて」
 ちょっと呆れたように言われてしまった。目の前が真っ暗で、ちょっと気持ち悪い。俯いて目を閉じる。少し休めばすぐに良くなることをこれまでの経験から知っていた。水を飲んで、しばらくすると徐々に視界に色が戻る。まだ頭痛はするが、もう倒れるようなことはないだろう。改めて助けてくれた人を見る。思った以上に若かった。同じ年くらいに見える、男の子だ。
「ごめんなさい、もう大丈夫。ありがとう。お水のお金払います」
「いいよ、って言っても引かなそうだね、もらっておく」
 そう言って手渡した二百円を男の子が受け取る。
「……体調が悪かったの? 自殺するのかと思って驚いた」
「自殺……?」
 そう言われて驚く。朱音が今倒れたのは貧血だった。間違いない。だけど、自殺したかったのかと言われたら、違うとは言えない気がしていた。あのまま倒れていたら、「死にたくない」と思えただろうか。実際、倒れそうになる直前に、「いっそ殺してくれたらいいのに」と考えていた。自ら命を絶つつもりはないが、そういうきっかけがあったら、全力で生きようとするだろうか。
 朱音は、自分自身の生に執着を感じられずにいた。時間をかけて考えて、コンクールに出すために描いた絵をずたずたにされても、怒りが沸かないくらいに。
「どうだろう、そうだったのかな」
 そういうと、目の前の男の子が驚いた顔をした。
「死に、たいの?」
「……死にたくなくはない、かな」
 今出会った男の子に、いったい何を話しているんだろうと思う。今出会って、もう会うこともないだろうからこそ、本音が漏れたとも言える。気を使えるほどの気力が、今の朱音には残っていなかった。
「なんで?」
「悪意をぶつけられて、疲れちゃった」
「悪意?」
 そう問われて、今日あったことをざっくりと話す。執拗に切り裂かれた絵。これまでの羨望と嫉妬、それに同情の目。本人にはどうしようもない、生まれ育った環境。朱音は、そのなにもかもに、うんざりしていた。
「ごめん、助けてくれたのにこんな話聞かされても迷惑だよね、本当にありがとう。名前聞いてもいい?」
「……いや、別に」
「私は伊崎朱音。高一」
「いや、名乗れって意味じゃなくて……俺は……おと……音弥。中三」
「音弥? 一つ下? ……そっか」
 そう言われて、朱音はふと懐かしい気持ちになる。それがいったいどういう感情なのか、よくわからなかった。
「本当にありがとう。死ななくてよかったと思うよ。もう大丈夫だから、電車乗って」
 そう言うと、なぜか音弥は立ち上がろうとせずに沈黙した。
「……お礼、して」
「え?」
 音弥が俯いてぼそぼそと話すから、朱音は聴き取れなくて顔を寄せる。
「命の恩人だから、俺。今度お礼して。連絡先頂戴」
 その物言いに、朱音はふと笑ってしまった。妙に言いづらそうにしてる姿が、可愛く感じた。
「いいよ、今度連絡する」
「あ、アプリのID頂戴。あとで俺から送る」
「わかった」
 その場で登録し合えるのに、そういう音弥に少し疑問は感じたが、なにか事情があるのだろう、深追いはしなかった。スマホにメッセージアプリのIDを表示させて画面を見せる。音弥はそれをカメラで撮影した。
「私はもう少し休んでいくから、もう行って。お礼は今度ちゃんとするから」
 そういうと、音弥は少し名残惜しそうな表情をして、ちょうど到着した電車に乗って行った。
 不思議な男の子だな、と朱音は思う。もしかしたら最後のはナンパだったのかな、と考えたが、不思議と嫌な気分にはならなかった。これは直感でしかないけれど、悪い人じゃないように思えた。あの引き裂かれたカンバスから感じる悪意から、少しだけ解放された気がしていた。帰ろう、と思い、立ち上がって次の電車に乗る。

 朱音には、両親がいない。どちらも幼いころに亡くなった。
 母親は病死で、父親は朱音をかばって死んだ、と聞いている。父が死んだ理由は、不倫をしていたことがきっかけらしい。そういうことを知識として聞かされていた朱音は、父に対しての感情を上手く整理できずにいた。また、事件当時のことを、朱音はよく覚えていなかった。ショックからだろうと医者に言われている。その前後の生活のことも、ぼんやりとしか思い出せない。気づいたら児童養護施設にいて、中学の途中までそこから学校へ通っていた。施設では、幼いころから一人でノートやチラシの裏に絵を描くことが好きだった。友達付き合いが得意ではなく、絵はひとりで没頭できた。時間を忘れていつまでも描いていた。だからひとりでも平気だった。それは朱音にとって大切な時間だった。
 施設には本があって、その中に印象派の本があった。朱音はそれを夢中になって読んだ。絵自体に惹かれたことはもちろんだが、その時彼らがどう戦っていたかを知るのも楽しかった。他の子たちはほとんど見なかったので、朱音はそれを自分のもののように大切にして、何度も何度も繰り返し読んでいた。
 中学では、迷わず美術部に入部した。運動部と違い、美術部は多少の消耗品だけでも活動できたというのもありがたかった。

 美術部に入って、デッサンや水彩画などを描くようになった。水彩絵の具は授業で使ってるものを使った。デッサンも、色鮮やかに自由に描ける水彩画も、朱音にとってはどれも楽しかった。クラスメートたちは芸能人や恋愛、流行のものに夢中になっているが、朱音はそれらに興味が持てなかった。それについていくにはお金も時間も必要になることはわかっていた。それに、本来そういう性格じゃないのかもしれない。それは諦めだったのか、朱音の意思だったのか、今もよくわかっていない。そのどちらもあったのかもしれない。
 中学の美術部はあってないようなもので、ほとんど朱音一人で活動していた。幽霊部員は何人かいるようだったが、その名のごとく、年に一度くらいしか見たことはなかった。しかし顧問には恵まれた。中学の美術部の顧問、雑賀隼人は朱音のデッサンや水彩画を見て感嘆していた。聞けば雑賀は昔、美術の道を目指していたそうだ。今も趣味で描いているという。雑賀は朱音に何かを感じたのか、自分が持っているあらゆる知識を朱音に聞かせてくれた。技術的な指導もたくさん受けた。美大を卒業している雑賀は、そこで習った様々な技術を身に着けていたし、教師という立場で教え方も上手かった。何より、朱音は雑賀の描く絵がとても好きだった。風景画が多いのだが、その絵は優しく、明るく、繊細だった。特に色使いが面白く、タッチは優しいのにビビットな配色をする不思議さ。優しく、明るい、光に満ちた世界。それは朱音に、この世界は嫌なことばかりじゃないよと語りかけてくるようだった。その絵は雑賀自身の人格を表しているかのように見えた。
 ある日、雑賀は朱音に「油絵を描いてみないか」と言った。雑賀が描いているのは油絵だったし、大好きな印象派の絵画もそのほとんどが油絵だ。いずれやれたらいいなと思っていた。しかし、きっと今よりお金がかかる。雑賀は朱音の家庭の事情を知っていたため、自分のものを使っていいと言った。ただし、問題になるといけないから学校には秘密で、と。
 素直にありがたい、甘えたいと思う反面、なぜそんなに良くしてくれるのかわからなかった。そう尋ねると雑賀は交換条件を出してきた。
「その油絵で描いたものを、コンクールに出品すること」
 朱音はそんなことかと安堵して、油絵の具の使い方を雑賀に習った。油絵は、思った以上に面白く、どんどんのめりこんでいった。

 絵は、朱音にとって救いだった。思い出せない過去も、今の環境も、自分の存在も、すべてカンバスにぶつけていた。カンバスはそれを受け止めて、形あるものに変えてくれる。
 クラスメートとは当たり障りない関係を保っていたが、その目には同情を感じた。「施設の子」という一線を引かれているのを、常に感じていた。特にそれを理由に加害されることはなかったが、「可哀そうだから優しくしてあげなきゃ」と思われているのを感じるのが苦痛だった。朱音からも、彼女たちに必要以上に踏み込もうとはしなかった。
 その思いもすべて、カンバスにぶつけて形にすると、素晴らしい、もっとうまくなる、もっといろんな表現をしよう、と導いてくれる。雑賀は、朱音にとって唯一信用できる大人だった。
 朱音は約束通り、初めてコンクールに出品し、優勝した。それは、全国規模の大きなコンクールだった。朱音は信じられなかった。雑賀はと見ると、朱音以上に喜んでいた。学校もこの事態には大層驚き、称えた。クラスでも、全校集会でも表彰され、地域で配られる広報はもちろん、地域の新聞にも掲載された。その絵は、地域の人が集まる文化会館にしばらく展示されていた。
 この受賞から、学校全体の朱音を見る目が変わった。同情から、嫉妬や羨望も混じるようになっていた。朱音のいた中学は素行の悪い人も少なく落ち着いた学校だったので、その視線を感じるくらいで済んでいた。
 雑賀はそれを機に学校と掛け合い、美術部の予算を増やしたようで、部費で油絵の具やカンバスをたくさん買った。朱音に、好きなだけ使っていいぞと笑顔で差し出してくれた。朱音が快挙を成し遂げたことで、存在すらあまり知られていなかった美術部に入部希望者が何人か来たが、つまらなかったのか、すぐにやめてしまった。結局卒業まで、朱音は雑賀と二人で絵を描くことになった。

 朱音の人生が変わったのは、そのコンクールから十ヶ月後のことだった。
 施設長から呼び出され、話を聞くと「朱音を引き取りたいという人がいる」ということだった。いきなりどういうことかと朱音は身構えた。小さなうちに里子として引き取られて行く子は多いが、中学生にもなってそういうことは珍しい。朱音はもうそんなことに期待することもなく、施設にいられる年齢までここで過ごし、そのあとは働いて自立するものだと考えていた。
 聞くと、朱音を引き取りたいという人は、文化会館に飾られた朱音の絵を見て執心したという。作者に会いたいと周りに相談していくうちに、朱音がこの施設にいることを知って連絡してきた。
 絵に感動してくれるのはまだわかる。だけど、そこから子どもとして引き取りたいというのが朱音には信じられない話だった。その夫婦は夫が実業家で、子どももなく、すでに年齢は40歳近いことでもう子どもを望むことは諦めている。妻が昔美術を志し、今も絵画鑑賞が趣味だという。絵画を続けることに、少なくないお金が必要なことを、その夫婦はわかっていた。朱音の状況を知り、この才能が世に出なくなる可能性を考え、いても立ってもいられなくなったのだという。すでに里子を受け入れる条件はクリアし、何度も講習を受けている。とても熱心で、経済的にも人格的にも問題ないという結論が出ていた。あとは、朱音の気持ち次第だった。一度会ってみたらどうか、と言われて、朱音は疑心暗鬼だったが、会うことにした。施設は万能じゃない。いつだって金銭面でのやりくりに苦労している。朱音一人が抜けられたら、きっと他の子が助かる。そうであるなら、朱音が施設を出る事にも意味がある。少なくとも施設側は、それを望んでいるように思えた。

 雑賀に相談しようと話をすると、彼はすでに知っていた。というより、この話に大きく噛んでいることが分かった。雑賀も、朱音の将来を心配していた。絵を続けて欲しい、朱音なら、雑賀が出来なかったことを成し遂げられるかもしれない。だけど、朱音の現状を考えると、そんなに簡単なことではないと雑賀は考えていた。美大や芸大に行ってほしい、だけどそこに行くには技術だけじゃない、お金もかかる。行きたい美大に合わせて多くの練習も必要だ。大体の生徒は、行きたい大学に合わせてデッサンを教えてくれる予備校に通っている。雑賀は高校生になる朱音を支えることはできないと、歯がゆい思いをしていた。そんなときに耳にしたのが、朱音の話を聞いて回っていると噂されていた、伊崎 綾子のことだった。美術部の顧問として一度話がしたいと申し出ると、綾子は飛び込むようにやってきた。伊崎家の経済環境、なにより綾子の朱音に対する才能の評価に雑賀は大いに感心した。美術室にある、朱音がそれまで描いた絵を見せると、「この子は本物ね……」と呟いた。水彩画もデッサンも油絵も、なにもかもに感動していた。それは雑賀が最初に朱音に描かせてみて、朱音の手から生み出す予想以上のものに感動した日々と重なった。技術を教えるたびに、どんどん伸びていく才能に、雑賀は心から感動していた。伊崎綾子なら、その気持ちを分かり合える。雑賀はそう感じていた。
 雑賀は里親について調べ、綾子に提案した。綾子もその提案に乗り、すぐに自治体に相談に行き、必要な審査や研修を受けた。そしてその話がようやく施設に伝わったのだ。
「もちろん、自分の気持ちが一番大事だ。だけど、本気でこれから絵を続けたいなら、悪い選択肢じゃないと思う」
 雑賀がそれほどまでに朱音のことを思って動いてくれていることを、朱音はそのときはじめて知った。朱音は綾子と会う決意をした。

 綾子は、施設に面談という形で訪れた。
 四十手前と聞いていた。自分自身を飾るタイプではないのだろう、派手な印象はなく、品が良い人だった。静かで、丁寧に話す人という印象だった。
 朱音の第一印象は、「嫌いではない」だった。嫌いでなければ、何も問題はなかった。綾子は、ぜひうちにと熱心に誘ってくれた。朱音の芸術活動はできる限りの支援をする、と。朱音は、その時にはもうほとんど迷いもなく伊崎家の娘になることを決めていた。
 綾子の夫である伊崎 洋平は、それほど朱音に興味を持ったようには思えなかった。綾子と違い、絵画にも興味がなさそうだ。それでも洋平は綾子が望むならと、娘として朱音にできる限りの支援をすることを約束してくれた。
 朱音は、絵を描くことによって、言葉通り人生が変わったのだ。

 翌年、伊崎家の子ども、「伊崎朱音」として同じコンクールに出品すると、二年連続の優勝となった。有名な国内のアーティストが注目し、メディアに取り上げられたことによって海外でもちょっとしたニュースになったという。絵画を志す者の中では「伊崎朱音」という名前は、一部では「天才中学生が出て来たらしい」と噂になった。
 高校は、両親ーー伊崎夫妻とも話し合って美術に理解があるところにした。雑賀は、知り合いである林のいる高校を勧めた。雑賀にとって美大の先輩にあたる林は、雑賀と同じく画家を目指した時期もあり、また国内の美術事情に詳しく、横のつながりも広い。なにかと力になってくれるだろう、というので、高校を決めた。林なら、予備校レベルの指導ができる、ということもあった。できるだけ両親に負担をかけたくないという気持ちから、予備校には通いたくなかったので、林に甘えることにした。両親とは、本当に必要だと判断したらその時には予備校に通うという約束をした。
 朱音は、いつの間にか「絵を描くことをやめる」という選択肢を失っていた。描き続けなければならない。そのために、両親は朱音の家族になったのだから。朱音のような出生で、このような生活ができることはきっと稀で、とても幸運なことだ。施設で出会った子どもたちを思い浮かべ、朱音は常にそう言い聞かせていた。だから、絵を描き続けなければいけない。

 絵が切り裂かれてから三日後、朱音が新しいカンバスにコンクール用の絵を描き直しているときに、音弥からメッセージが届いた。すぐに連絡が来るかと思っていたら意外にも遅く、気まぐれで聞いただけだったのかなと思い始めた頃だった。「r」という名前だったので、一瞬誰かわからなかった。内容は、今日の帰宅時間に合わせるからなにかお礼して、とのこと。ふ、と呼吸が漏れて張っていた気が抜けるのがわかった。朱音は、この音弥という人物が嫌いではなく、連絡があるといいなと思っていたということを自覚した。今日は少し早めに切り上げよう。絵は、あまり順調ではなかった。以前と同じものを描けばいいと思いつつも、それでいいのだろうかという気持ちが邪魔をする。前に描いていたものが気に入らなかったわけではないのだが……そんな思いがぐるぐるしていたので、気分転換にちょうどいい。

 音弥が駅前で待っていた。制服を着崩して、少しダルそうに腰かけている。遠くから見ると、「ちょっとだけ反抗したい年頃の男の子」だ。朱音に気付くと、立ち上がってゆっくりこちらに向かってくる。ちょっと照れくさそうに見えるその姿が、朱音には微笑ましく感じる。年下だとわかったからだろうか。
 何を奢らされるのだろう、ファミレスか、ハンバーガーか、そのあたりで納得してもらおう、と思っていると、音弥が「こっち」と誘導するのでついて行く。駅前の自動販売機の前で「これ買って」とカフェラテを指す。朱音は「え? これ?」と言いながら、電車に乗るのに使ってる電子マネーで言われるままに支払う。ついでになんとなく自分のも買う。
 それぞれ自分のペットボトルを手にすると、音弥が「行こう」とまた誘導するので、大人しくついて行くことにした。てっきり中学生の男の子だから食べ物を奢らされると思っていた朱音はちょっと拍子抜けするが、とりあえずついて行こうと少し前を歩く音弥を追う。これからどこかのお店に入るかもしれない。しかしその場合、今買ったペットボトルが邪魔でしかないのだが……そう思いながらも、無言で歩く音弥をひたすら追う。どこに向かっているのかと聞こうとしたとき、駅から少し歩いたところにある小さな公園に入っていく。
「ここ?」
「今の時間ほとんど人いないから」
 ぶっきらぼうに音弥はつぶやく。そこは子どもが遊べる遊具や砂場があり、その周りには大人が子どもを見守れるようにベンチがある。もう子どもが遊ぶ時間のピークは過ぎたのだろう、誰もいなかった。とりあえずベンチに座る。
「ここで、お礼?」
「これ貰った」
 音弥はさっき買ったカフェラテを掲げて、蓋を開けて飲み始める。
「ファミレスでも行こうかと思ってたのに」
「いや……夕飯は用意されてるから」
 そういうことか、と朱音は納得する。
「俺、施設にいるんだ。みんなで当番制でやってるし、いらないとは言いたくない」
 突然の音弥の告白に、朱音は一瞬言葉に詰まる。朱音が音弥に感じていた親しみやすさはそのせいだったのだろうかと考える。音弥が朱音を誘ったのも、駅での一件で朱音が話したことに、なにかしら感じることがあったのではないか。はっきりと施設にいたということは言っていないが、家庭環境や出生に対してのもどかしさは口にしたような気がする。
「なんでそれを私に?」
「……なんとなく」
「そっか。私も施設出身だよ。この前の話でなにか勘づいた?」
「いや……そういうわけじゃないけど」
 音弥は視線を落として話すので、どういう表情をしてるのかは朱音からは見えなかった。ただ、その言葉や音弥の行動には朱音も察するところがあった。それは心の底に感じる、孤独、だ。
「朱音、は」
 朱音、と呼ばれて驚いて音弥を見る。視線は落としたままだった。その呼び方に、少しだけ意を決したような雰囲気を感じて、そこには触れないようにする。
「今は、施設じゃないの」
「そう、私は中学の時に引き取られたの。絵を描くことと引き換えに」
「それは、幸せじゃない?」
 問われて、朱音は音弥から目を逸らし、一度ゆっくりと閉じる。幸せ、なのだろうか。朱音の絵の能力を買ってくれたことは、幸運なことだと思う。施設にいる子どもたちは、ほとんどの場合将来を考えている。それは家族と共に暮らす同世代の子たちもそうだろうが、大体の場合その真剣さは比ではない、と朱音は思っている。つまり、将来を悲観してる子が多いのだ。そう考えると、朱音は幸せなのだろう。そう導いてくれた雑賀にも、今高校で真剣に向き合ってくれる林にも、感謝している。そのどこかの出会いが無かったら、今の朱音の生活はないだろう。
「幸運なこと、なんだろうね、そう思う。今の両親には感謝してる」
 どう言えば、音弥は納得するだろう。贅沢だと思われるだろうか。だけど、嘘はつきたくなかった。
「音弥は? 今、幸せ?」
 下を向いている音弥に問うと、驚くように顔を上げて朱音を見つめる。人に聞いたくせに、自分が聞かれるとは思っていなかったようだ。勝手だな、と朱音は苦笑する。
「どうだろ、わかんね」
 それは「心底わからない」と「どうでもいい」が混じり合ったような感情に聞こえた。その気持ちが、痛いほどわかる。自分の意図しないところで勝手に決まる環境、他の人と比較すると、選択肢の狭い将来。それに集まる好奇心や同情の目。考えれば考えるほど、すべてが「どうでもいい」と思ってしまうことを、何度も経験していた。
 それからは、しばらく無言のままただ時間を共有していた。出会ったばかりの、二度目に会った男の子。朱音は、今まで出会って来た人には感じなかった感情が沸き上がるのを感じていた。それは静かで、少しだけ心の底にある穴を埋めるような気がしていた。その穴は、普段は強く感じることはないけれど、ふとした瞬間存在を主張してくる厄介なものだった。朱音は勝手に、音弥にもそれがあるような気がしてならなかった。音弥の穴も、朱音の存在でほんの少しでも埋まればいい、そう思った。


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