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手前味噌

「あなたは料理が上手ね」

私の作った卵焼きを一口食べて母が微笑んだ。そんな風に親に褒められたことがないから、素直に喜べずに困った顔をしてしまった。

「最近、頭がおかしいの」と母が揺らぎ始めたのは4年前だ。昔のことは懐かしそうにとても饒舌になるのに、少し前のことを覚えていない。日常的な身の回りのことはひとりで行えているけれど、母の記憶や行動や心の安定の補助が必要になってきた。

私が焼いた卵焼きを美味しいと微笑む母に、「私は母さんに料理を教わったんだよ」と答えると、「私は子どものときから料理は苦手、料理は姉、私は掃除の係だもの」と母はゴシゴシとシンクを磨きはじめた。そして「だから、あなたに料理を教えたのは私じゃない」と笑っている。

バターロールを山ほど焼いたり、親戚が釣ってきた魚を次々と捌いたり、私が子どもの頃には未だ珍しかったレアチーズケーキを作って人に教えたりして、実家の台所からは様々な音が響いていて、母が料理が苦手だとは私には到底思えない。けれども最近の母は料理の手順に戸惑ったり、傷んだ食材の廃棄が増えたりしたことで、料理が苦手、料理は好きじゃない、と苛立つようになった。

母の、卵焼きの一言をきっかけにして、徒歩2分の距離に住んでいる母に、私が夕食を作ることを提案した。野菜や魚を焼いて醤油をかければおかずになる、味付けはどうでもよくて、とりあえず栄養になればいいと諦めている母を見ていて、胸が痛んだからだ。

私の父は、12年前に急に体調を崩して余命1か月と宣告されて、父の好物のお蕎麦を差し入れを申し出たが、「もう食べられない、一口だけ食べても、もうきっと美味しいとは感じられない、だから蕎麦は旨かったなあという思い出と、いつかまた食えたらなあと希望があればいい」と言い残して逝った。私は何も出来ずに、笑ったような困ったような変な顔をするしかなかった。それが今でも私の後悔だ。

わが家は夫も息子たちも帰宅時刻は様々で、揃って団欒を囲むことはない。だから母の分が増えたところで、わが家に大きな変化も負担もない、むしろ私は張り切れるということを理由にして、私は母に提案をした。そして私が母の面倒をみるというニュアンスを消したくて、夕食を私が作るとは決めないで、一緒に作ったり、うちで一緒に食べたり、運んできたり、と選択肢を並べた。

それから1ヶ月、1キロの挽き肉を捏ねて100gを計って分けてハンバーグを作ったり、南蛮漬けにする30匹の小アジを卸したり、ジャガイモやにんじんや玉ねぎを剥いて切ってシチューにしたり、小さなお好み焼きを何枚もプレートで焼いたり、お皿の余白や野菜の色合いを意識して盛り付けたり、母が私と弟を育てる時に難なくこなしていた作業を、何十年かぶりに並んで、母は確認しながら慎重に丁寧に取り組んだ。

母は相変わらず数分前の記憶が不安定だけれど、換気扇やコンロのスイッチを手際よくつけられるようになり、いい匂いだね、おいしそうだね、おいしいね、ありがたいね、とあたたかくて丸い言葉が増えた。

子どもの頃に私は、実家の台所の隅に椅子を置いて、膝の上で宿題をしながら夕食を作る母から、手順は見て覚えなさいと教えられて、母の味を継いだ。「あなたは料理が上手ね」と母が食べている肉じゃが、(母さん、それはあなたの味だよ)と、 「これは一体何かしらね」と指差すキノコのアヒージョ、(それは私の味だよ) と、私は心の中で呟く。

今までは週に何度か母の家を訪れて、お茶を飲んで過ごしていたけれど、向かい合って座っているだけだと、昔話が変な方向に飛び火して、ネガティブな会話になって、口喧嘩になることもあった。菜箸や包丁を握って並んでいる時間は、母にとっては忙しくて緊張感があって、ワクワクするイベントになり、私にとっては懐かしいタイムトラベルになった。これが出来るだけ穏やかに、出来るだけ長く続くように、或いは急に消えてしまうことがあっても悔やまないように、私はレシピを増やしたくて料理本を2冊買った。「あなたは料理が上手ね」って、また言われたくて。