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お前と剣道したかったなあ

父は剣道の経験者だったが、ほとんど剣道の話をしなかった。父が高校の剣道部のOB会の案内の葉書を、晩酌をしながら眺めていたことくらいしか、知らない。

父の勧めで、弟は町の剣道教室に通っていた。弟の稽古の送り迎えは母がしていたし、試合の応援も母がひとりで出掛けて行った。
父が弟に剣道を教えることはなかったが、たまに縁側で静かに弟の防具や竹刀の手入れをしていたのは、見たことがある。

私が高校に入学して剣道部に入部したときも、特に父は何も言わなかった。剣道着と竹刀を買うときも、防具を買うときも、お金の入った封筒を、「大事に使え」と渡してくれた。女の子はピアノを習って、高校を卒業したら短大に通ってゴルフを習って、銀行に就職しなさい、と私の特性や学力を無視して本気で言っていたので私は呆れて聞き流していた。だから、父の理想から外れた私の剣道を特に応援するでも反対するでもなく、防具を担いで試合に行く私に興味はなさそうだったし、剣道をする姿を見てもらえなかったし、試合の結果も聞かれたことはなかった。

私は高校を卒業して、短大に通ってゴルフを少しだけ習って、その後は父の思う通りにならなかったけれど、私の木刀と防具は実家の物置に父が大切に保管しててくれていた。
小学生の次男が剣道を始めたいと言い出して、私もついでに一緒に通うことになって、実家に防具を取りに行ったら、庭仕事をしていた父はこれで竹刀を買いなさいと、昔みたいに私の名前を書いた封筒にお金を入れてくれた。 持って帰れと出してくれた弟の小さな防具と私の防具は、丁寧に手入れされていた。

子どもたちと稽古に通って半年後に、私は二段に合格したと報告したら、生意気だと叱られた。子どもの習い事にふらりとついて通い始めたお前が二段を頂くなんて、剣道連盟は甘いと機嫌の悪い八つ当たりで見苦しい。そういえば私が高校1年の冬に初段を頂いたときも、生意気だなと呟いていた。

そんなことがあったので、三段に合格したことは、じいちゃんには秘密にしてねと言っていたのに、じいちゃんが好きな次男は、私が留守にしているときに、電話でうっかりしゃべってしまったのだ。次男は、「じいちゃんが喜んでいたよ、お前のママはすごいねえ、偉いねえ、頑張ったねえってご機嫌だったよ」
父に誉められたことがないので、はしゃぐ次男を抱き締めて泣いたら、次男がびしょびしょになってしまった。

私が四段に合格したことは、父の墓前に報告をした。父は軽井沢でゴルフをして、スイスにスキーに行って、オーストラリアにスキューバーに行って、とても元気に忙しくしていて健康診断をサボったら病気を見逃してしまい、見た目は元気だったのに余命1ヶ月と宣告をされて、ぴったり1ヶ月で亡くなってしまった。
亡くなる少し前に、「いいなあ子どもと剣道の稽古が出来て。俺もお前と孫と稽古をしたら良かったなあ、明日も稽古に行くんだろ、今日はもう帰れ」と手を差し出したから、握手をした。私と同じで指の短い小さな手だった。

父の葬儀で叔父たちに話を聞いた。戦後、竹刀や防具がなかなか手に入らなくて、貰った古い竹刀を手入れして、大事に使っていたこと。高校の剣道部を立ち上げるために、武道場の掃除や片付けをしていたこと。一回り歳の離れた叔父たちの進学を助けるために、アルバイトが忙しくて大学では剣道が出来なかったこと。だから、娘が孫と剣道をしていることをいつも嬉しそうに話していたこと。

私たち親子が喪中の間は稽古をお休みすると連絡すると、亡くなったお父さんが喜ぶからもしよかったら稽古においで、供養になるよ、子どもたちは稽古をしたいでしょ、と道場の先生方は声をかけてくださった。

父から様々な話を聞きそびれた私は、道場の先生方の若い頃の剣道の話を聞かせてもらったり、手記を読ませてもらったりしている。支部長先生は、父の母校の剣道部の活動の記録の中から父の名前を見つけてくださった。先生方は自分も昔のことを話しそびれるといけないから聞いてくれるか?と私を娘みたいに思って接してくださる剣道の父たちだ。

父のお墓参りに行くとお寺に隣接している男子校から、剣道の稽古をする声や竹刀を打ち合う音が聞こえる。私と剣道は出来なかったが、空の上で竹刀を振っているのだろう。