見出し画像

ひとりごと


思い出をひとつ、話そう。

卵焼きの隠し味はチーズ。言い当てた僕を見るその微笑みが温かかった。

思い出をひとつ、話そう。

白くて柔らかな指先は、視界に入る度に僕を惹きつけた。

思い出をひとつ、話そう。

部屋の残り香に包まれて、遠い景色に吸い込まれた。

思い出をひとつ、話そう。

真摯な眼差しの約束は、今でも耳に残っている。

思い出をひとつ、話そう。

彼女の口癖は「大丈夫」。


思い出がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

シャボン玉のようにふわふわと、僕の周りで浮かんでいる。

僕はそれを、眺めるだけ。

手を伸ばしてしまったら、少しでも空気が揺れたら、

それらはそっと遠くへ飛んで行ってしまいそうで、

息も吹きかけないようにして、僕はただずっとそこに佇んでいる。
細く長い呼吸を続けながら、このまどろんだ世界の中に、ずっといる。


「辛くない?」
辛くないよ。ここはとても温かい場所だ。
彼女の笑顔が思い出せる、唯一の場所。

「悲しい?」
悲しくないよ。彼女は僕にたくさんの思い出をくれた。
いつでも僕を励まし、慰め、癒してくれる。

「寂しくない?」
いいんだ。
彼女には、もっと大事な、行くべき場所があるから。
ここには来ない。
それを知っているから、わかっているから、もういいんだ。


僕は、大丈夫だよ。


ふわふわと ゆらゆらと 虹色に滲みながら揺蕩って、

離れては戻って僕を包み込む。


それでも、

時々どうしても、

目を閉じてしまう。


まぶたが熱くなって、光が弱くなっていく。

黒く暗い世界。

許してほしい。


話せない、離せない君が、まだ在ることを。



思い出をひとつ、離そう。
飛び散った硝子窓。

思い出をひとつ、離そう。
届かなかった左手。

思い出をひとつ、離そう。
酔っ払いの死神。

思い出をひとつ、離そう。
不意打ちの青白い報せ。

思い出をひとつ、離そう。
白く刻まれた君の名。


あともう一つ。
掠れて消えた僕の鳴き声。


すべては赤い雫となって、僕の足元に波紋を落とす。


この雫は、いったいどこから、と、
歪な波を覗き込んだ。
そこには、僕の顔じゃない僕がいたーーー



ふと どこからか ふわふわと
シャボン玉がひとつ、迷い込んできて
暗がりの中、頭の上でそっと弾けた。

飛散する粒のひとつひとつが
ひらりと、薄紅の花片に変わって
夜を彩る。


長い長い髪をなびかせて
薄明りに照らされる、繊細な君の輪郭。
視線の先、同じく見上げた夜空には
月がささやかに昇っていた。

手の届かない遠い星を、真っ直ぐな憧れを込めて見つめる。

君の瞳の

うつくしさ



思い出せ

本当に悲しかったのは誰だ
本当に辛かったのは誰だ
本当に悔しかったのは誰だ

本当に生きたかったのは、誰だ


立って

進め

前を

向け

泣いても

いいから

転んでも

いいから

熱の巡りを

思い出せ


血が滲んで沁みるのは、

僕がまだ

生きているから



『大丈夫』



ほら、だから早く、

目を------




ーーーーーふわふわとしゃぼん玉が、僕の周りを漂っている。


「あいたい」


空っぽの言葉は、しゃぼんの隙間を少し揺らして、消えていった。
彼女には、行くべき場所があるから、ここには来ない。
そんなこと、わかっているよ。


思い出に掬われて

思い出に救われる

その繰り返し

僕はまた、立っているだけ。



ただのひとりごとの世界。







----------画像----------
フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)
photo by kailow


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?