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掌編小説「ガラシャ殺し」

ーー侍女清原糸曰く


ガラシャ殺しーー清原糸曰く
              こい瀬伊音

 その茶碗を、「夫」は時々取り出して眺めた。正座した膝のまえに置き、ぬかづくようにしながら眺める。曲線、粒だった肌。釉の加減でくるまれたところと地肌を剥き出しにしたところ。ゆっくりと愛でたあと手に取った。つるりと丸みを帯びた側面から指のはらを這わせ、ざらりとの境目を撫でる。そのときには目を閉じていて、いえ、開いているけれどどこにも像を結んではいなくて、喜びを神経の細やかな部分から存分に吸いだそうとしているのが見える。
 いかにももったいぶった尊大な手つきでふくさを折り畳み、茶杓をも撫で。釜には湯が。あれはそこを流れる清水だったもの。
 清原に流れる糸は汲み置かれ、朽ち果ててしまったという。

「ぜうす様へ懺悔いたします。わたくしは夫のいちばん大切にしている茶碗をわざと割りました。わたくしを桐箱のような部屋へただ閉じ込めるあのひとの世界を壊してしまいたかったから。あのひとはたいへんに怒り襦袢まで剥ぎ取ってわたくしを打ちすえたあと、茶碗をひとかけらものこさずに集めて笑ったのです。金継ぎにしよう。きっと趣があるだろうと。陶器のかけらでわたくしの脚に、ええ、つけねからふくらはぎへです、ずるりと傷をつけたのです。
 持ち物たるわたくしはそれを密かに誇らねばならない。けれど、どうしてもそのようには思えなかったのです。
 自慢の茶器はいっとう晴れの茶会でのみ用い、たったいちにち以外は箱へ込め誰の目にも触れさせぬことを好みました。たいへんに大切なのだと、喧伝する機会に、わたくしは何を思えばよいのでしょう。ひとびとは腹の底であれが三日殿下の娘よ、それでも離縁しないとは、と舌なめずりをするのです」
 まるでぱあどれに話すがごとく、女主人の懺悔が続く。屋敷はすでに石田治部の手勢に囲まれ、人質たれと使者がのたまう。
 今日の今日、なぜその装束を。
 打ち掛けの裾は可哀想な植木屋の赤黒い血で汚れている。「妻を見た」という罪で「夫」は人を一人斬り殺し、嫉妬に狂う刀をあの裾で拭った。執着を撥ね付けるように何日も「夫」が謝るまで脱がなかったあの打ち掛けを。
 最後の祈りをマリア、共に致しましょうと、ガラシャ様がいう。 
「ぱあどれはお濃茶はご存じかしら。同じ茶碗に濃く濃く点てた茶を飲み口を清めながら客どうし回し飲むのです。手捏ねの茶碗を用いて。
 ああ、マリア。そんなに顔を歪めないで。あなたの分までわたくしが懺悔しますから。
 この国では家臣に自分の女を下げることがあるのです。それを、教えに背いたと裁きますか。でしたらそれを心よりよしとする者どもだけを裁いてくださいませ。夫や、家臣たちをです。
 泣かないでマリア。あなたは神に背いてはいない。わが夫に抱かれ下げられたのは、洗礼前の糸の身に起きたことでしょう。
 なにを震えているの。わたくしに洗礼を授けるときはあんなに堂々としていたのに。
 さああなたがこのまま死ぬのをわたくしは許しません。この包囲を潜って、懺悔を。わたくしのかわりに」
 ガラシャ様はすべてを知っていて、すべてを許しているようだった。けれど信仰にもたれかかったその姿は、「夫」のすべてを、側室や手のついた女たちを、それは糸をも、きっぱりと拒んでいるようにも見えた。
「この脚を御覧なさい。鱗のようでしょう。この打ち掛けを」
 するりと脱ぎ落としたので、マリアは慣れた侍女のしぐさでさっと畳む。
 私は捨てたのに。あのとき血で汚れたものをすべて。泣くことも許されなかった。
 神よ。ましますならば。神よ。
 促されマリアは座敷を出る。ガラシャは立ったまま障子を閉め、すばやく背中を向けた。
「神よ」
 胸の前で手を組んだであろう、肩の線をよく確かめて。マリアが槍をまっすぐ差し込むと、障子紙は明々と染まった。

憎い。殺してやりたい。
 ずっとそう願っていたことに気がつきました。
 最後の最後の懺悔でまで、まざまざと見せつけられて。わたくしは金継ぎでそなたはお濃茶と。壊しても壊しても蘇り、いや増して愛される珠のように美しいおんなであると、盛大に誇ってから私の手にかかった。
 神よ……?
 ごつごつと分厚く武骨な茶碗も、練るように使う茶葉も、ほんとうは上質なのを知っていたでしょう。
 田舎ものの明智の娘には、金箔がえろうお似合いや。大猿のあしあとをいくら憎んでるいうても、いやらしいきんぴかなんはおんなし。器量よしと父の力で名門の細川に拾われ、ええ暮らしやったでしょう。
 私は漆黒を誇れる。帝を支える清原の家に生まれた女。
 けれどあなたの夫に千切られ、そして契ったのです。
 一度とてあなたの神に帰依したことなどありません。
 マリア。それは誰? 聖母などいるわけはないと、女なら誰もが知っているでしょう。それでも。
「神」が欲しい。
 身体ごと、よりかかってしまえるもの。こころごと、預けてしまえるもの。強くも弱くもないこの脚に道しるべを。誰か。
 誰か。


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