Gを逃した夜に思うこと

Gを逃した。

風呂上がりに冷蔵庫を開け、グラスに注いだ麦茶を飲み干そうと顔を上げた瞬間、視界の端に黒い塊が入り込んだ。天井付近に張り付くそれが意志を持った生物であると理解することと、鼓動が早まり背中にはじっとりと汗が滲むのはほとんど同時だった。

幸いすぐ近くに保管してあった我々人類の化学兵器「ゴキジェット」を携えることはできたが、スプレーの噴射ノズルを押す勇気が出ない。脳内でゴキジェットの噴射力と天井付近のターゲットとの距離を雑に計算すると、勝ち筋が読みきれなかったのだ。強力な武器を保有していても肝心なときに使うことができない、これは何かの皮肉なのだろうか。

そうこうしているうちに、そんな私を嘲笑うかのようにGは忽然と姿を消していた。Gからすれば、逃げる隙を与えてくれたという方が正しい。GのDNAには、人間は間抜けな生き物であるという情報がまたひとつ刻まれてしまっただろう。Gと対峙する全ての未来人に懺悔の念を抱きつつ、私はそっと台所のドアを閉め、ドアの前にゴキジェットを備えてそっと自室に逃げ帰った。

ちょうど時を同じくして、Gと戦っていたというBuzzFeed Japan Medicalの記者・編集者である岩永直子さんのツイートを拝見した。

飛んで挑んできたヤツに勝ったというご報告に敬意の念を示すとともに、姿形が似たカブトムシやクワガタはいいのに、なぜGはダメなのか問題を考えてみた。

カブトムシやクワガタはいつの時代も子どもたちに大人気だ。夏の昆虫の代表格として君臨し、ネットでも高値で取引されている。
しかし、いくらカブトムシやクワガタとGの姿形が似ていようと、我々人間がGを受け入れられないひとつの理由として、自身の体験に基づく一説を提唱したい。

その昔小学校へあがる前くらいの頃、当時住んでいた家でカブトムシを飼っていた。父が知り合いから譲ってもらったとかで、虫が好きだった弟が幼虫の状態から育てていたのだった。カブトムシの幼虫は暖かい土に包まれながら越冬するのが望ましいという。外に置いたのでは寒さで死んでしまうかもしれないし、けれどもリビングや寝室に置くのは早くカブトムシに会いたい弟が土をほじくり返してしまうことを防ぎたかったからだろうか。我が家のカブトムシを入れた虫かごは、自宅のトイレの隅に隠すように置かれたのが事の発端だった。

迎えた夏。

いつものようにトイレで用を足してトイレットペーパーに手をかけると、ちょうどトイレットペーパーが切れるタイミングだった。替えのロールを取ろうと予備ロールに手をかけようとしたその瞬間、黒いボディが光った。Gではない。お察しの通り、成虫となったカブトムシである。

絶叫。号泣。お尻への防衛本能が働き瞬時にパンツを上げ母親の元へ泣きつく。騒動を聞きつけ別室から駆けつけた父と、煌々としたツノを携えたトイレ産カブトムシに歓声をあげる弟。私の記憶にカブトムシのトラウマが植えつけられた瞬間だった。


普通、私たちは家の中でカブトムシに出会うことはまずもってない。カブトムシやクワガタといった昆虫は、こちらが向こうの生息地に出向いていって初めて出会える存在だ。すなわち、それはこちら側もこれからカブトムシやクワガタに出会うかもしれないという心の準備ができることをも意味する。

一方、Gはどうだろう。彼らに特定の生息地という概念はなく、むしろ人間の生活圏内すべてが活動フィールドだ。そこにはルールも秩序も存在しない。人間に見つからずに家に棲みつければラッキーだし、人間の目に留まり仕留められてしまうこともある。すなわち、こちら側の生活圏内に気づかぬうちに入り込まれ、思いもよらぬ場所とタイミングで出会ってしまうことこそが、Gへの恐怖や嫌悪感を増幅させているのではないか。おそらく、Gを全く知らない人がその辺の樹木にとまるGを見たら、やたらと移動スピードの速い昆虫くらいの認知で済み、さほど気に留めないんじゃなかろうか。

トイレ産カブトムシの事例は、Gが持つ「人間の生活圏内に突如現れる」というカブトムシやクワガタには本来なし得ない機能を担ってしまった特殊な出来事だ。しかしそこには、人間が長年にわたりGを忌み嫌う理由を垣間見た気がしている。


そしてきっと今この瞬間も、わが家のGはどこかに潜んでいるのだ。

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