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たくさんの人に支えられて、親になる。生きることに向き合った生衣さんの言葉【#わたしたちの厄年 インタビュー】

この記事は、2021年に本厄をむかえたライターふたりによるインタビューサイト『わたしたちの厄年』に掲載した内容を、一部再編集したものです。現在、サイトの公開期間は終了しており、noteでのみ記事を読むことができます。内容は原則、公開当時の情報となります。

いまの気持ちを、言葉にして残したい——。そう、話してくれた生衣(うい)さん。

2021年6月にふるさと・秋田で暮らしていた父と、最期のお別れをしたばかりでした。そして、12月にはお子さんの出産予定日を控えていました。

お父さんたちと一緒にまわった築地や上野を歩きながら、生衣さんが生きることや家族について向き合ったいまだから思うことを、言葉にしてくれました。

会いたくても会えなかった、父との別れ

——今回、指定してくれた築地本願寺は、お父さんと一緒に訪れた思い出の場所だとうかがいました。

そうですね。2年半前に父の病気がわかってからセカンドオピニオンや意見を求めに、ここの近くの病院に来る機会が何度もありました。

それで、築地本願寺にも家族で来たことがあります。

父は「胸腺がん」という10万人に1人ほどの珍しいがんでした。症例が少なく、治療法も確立されていないのに加えて末期がんだったので、専門の医師のもとを訪ねたんです。

いろいろな思いを抱えていたので、何を願ったらいいのかわからないときもありましたが、父のことを願うために手を合わせてきた築地本願寺には思い入れがありますね。

——会いたいときに会えない状況になってしまったのは辛かったですね。

秋田にいた父と直接会えたのは2019年の6月が最後でした。2020年の年末に母から父の余命が春までと言われたときは、すごく会いに行きたかったです。

でも、父本人が「自分はまだ大丈夫だから」と言うので、無理に行けませんでした。最後の最後まで「今はまだ世の中の様子を見た方がいい」と言っていたのもあり、亡くなるまで結局会えませんでしたね。

正直、そう言われても行けばよかったという思いもあります。これだけは、未だに気持ちの整理ができていなくて落ち込みます。どの選択をしても、きっと後悔はあったと思いますが。

——葛藤があったのですね。お父さんと最期のお別れはできましたか。

2021年の6月に父は亡くなったのですが、わたしはビデオ通話をつないで父の最期を見守りました。

病室が個室だったこともあって、家族や親戚は面会できたようです。

——画面越しで同じ時間を過ごせたのですね。そのあとは秋田に行けたのでしょうか。

PCR検査で陰性を確認して、父の葬儀には行きました。

コロナ禍なので、大々的に「葬儀に来てください」とは周りに言えなかったので「身内で行います」とアナウンスしました。

それでも「行ってもいいですか」と連絡をくださった方々には来てもらったんです。そこで、改めて父の人柄について思うものがありました。

長く町の福祉に関わる仕事をしていたので、知り合いは多いだろうなとは思っていました。でも実際に葬儀に関わってくださる方の多さを目の当たりにして、想像していた以上に周りの人たちに恵まれていたんだなと実感しました。

いい関係を築けていたことを、ありがたく感じましたね。

新しい命がくれた希望と「支えられている」実感

——生衣さんは12月が出産予定でしたね。お父さんもそれを知っていたのでしょうか。

父には子どもができたことを伝えられました。本人も孫を抱くことを楽しみにしていましたね。わたしにとっても「父に子どもを見せたい」という目標ができて嬉しかったです。

ですが、それが叶わなくなってしまったことで、東京に帰ってきてからは不安な日々を過ごすようになっていました。

父が亡くなったあと、出産に対する”モチベーションが下がった”、と言うとすごく語弊があるのですが……。とにかく、人間を産み、育てることが本当に不安で、怖くなってしまって

——その不安は続いているのでしょうか。

いまも不安はあります。

でも、わたしの周りに「大丈夫だよ」とか「楽しみだね」とか言ってくれる人たちがたくさんいたんですよ。

「自分以外にも、子どもが産まれるのを待っててくれる人がいる」ってわかって、それでいまは安心して不安がっている感じです。

この言葉は漫画家のおおがきなこさんの受け売りです。今年の8月に出産されて、Instagramでコロナ禍の妊娠生活のエッセイを投稿されていたのをみて、すごく感銘を受けました。

そこにあった「安心して不安がれる」というフレーズがすごくしっくりきたんです。

——周りの人の存在のおかげで、「安心して不安がれる」のですね。

自分1人でいるときだと、大きくなってきたお腹を触っても「動いてるなー」って思うだけだったんです。

でも夫が一緒にお腹を触りながら「ここにいる?」「いま動いた?」って言っているのを見て「あぁ、親になるんだ」って感じました

父の葬儀でも、父を通して自分もたくさんの人に支えられていたんだと気づいたんです。

ふるさとだけじゃなくて東京にも、わたしを支えてくれている人たちがいる。コロナ禍で人と会う機会が減ったからか、減ったからこそか、自分は人に支えられて生きてるんだなって感じる1年でしたね。

看護師になってはじめての大きな挫折

——もう産休に入られてはいますが、お仕事のことを教えてください。

一般的な保険診療と、シミシワなど美容皮膚科も対応している皮膚科クリニックで看護師をしています。

2018年のクリニック立ち上げ時期から入ったのですが、ずっと通ってくださっている顔馴染みの患者さんも多くて、産休に入ると報告したらあたたかい言葉をたくさんもらいました。

——開院したばかりの皮膚科クリニックで働くに至るまでのお話も聞いていいですか。

高校を卒業した18歳のときに上京して、看護の専門学校へ3年間通いました。大学附属の学校だったので、卒業後はその大学病院に就職しましたね。

でも、1年半で退職したんです。

——そこで働いている間になにがあったのでしょうか。

わたしは結構ラッキーで生きてきた人間なんですよね。人間関係に恵まれて、勉強もそんなに頑張らなくても及第点はもらえるくらい。国家試験も実はあまり勉強しなかったくせになんとか合格出来たんです。

すごーくギリギリでしたけど。(苦笑)

でも、それがよくなかった。そのあとにつまずいてしまったんです。

どの分野にも当てはまるとは思いますが、常に最新の知識を学び続けなければいけないのに、ついて行くのが大変で……。そもそも勉強の仕方も身についてない状態で、素直にまわりに「教えてください」とも言えなかったんです。

思うようにいかなくなって、「こんなはずじゃない」と空回りしてしまって。

2年目に部署移動をさせてもらって、はじめからやり直そうと思いました。でも、心の中では「1年の積み重ねがあるはずなのに」と焦ってしまってうまくいかず……。

辛かったけど、それ以上に恥ずかしかったです。

「頼れない」自分を変えた、人生の転機

——「もっとうまくできるはず」という気持ちと葛藤した日々だったのですね。大学病院を退職されてから、現在のクリニックに入るまでの間はどうされていましたか。

せっかくとった資格なので、最初に配属された皮膚科の分野で環境を変えて続けてみようと思いました。それで入ったのが、美容皮膚科寄りの個人のクリニックだったんです。

ここでの経験が人生の転機になったと言えます。

そのクリニックも当時立ち上げられたばかりで、最初のころは手があくタイミングがあったんです。その時間にいろいろと教えてくれた先輩がいました。

——大学病院では、周りに聞けなかったと言っていましたが、教えてもらうことに抵抗がなくなったのでしょうか。

美容については看護学校では教わらないので、ちゃんと勉強しようと思ったんです。あと、大学病院では聞けなかったがために失敗してしまったので「今度はちゃんと質問しよう」と。

時間もあったし、知らないのが前提だったのであれもこれも聞きました。今思うとわたしの若さや未熟さも汲んで指導してもらってましたね。

先輩からはピリッと言われることもあったけど、わかりやすく教えてくれたおかげで皮膚科の中でも美容が楽しくなりました。

——環境を変えたことで、今度こそ「はじめからやり直す」ことができたのですね。

あと、もともと奉仕の心があるタイプなんだと思います。

誰かの喜びが自分の喜びになるというか。自分がしたことで誰かによい影響を与えられることや、信頼された・心を開いてもらえた経験に支えられました。

——なるほど。イメージですが内科や外科とは患者さんとの関わり方も違いがありそうですね。美容寄りの皮膚科であれば特に。

美容の治療施術は、エステとか美容院とかにちょっと近い感覚かもしれません。

健康な方が、よりよくするためにお金と時間を割いていらっしゃるので、より結果と満足度を求められるのかなと。

保険診療の皮膚科では、処置をしていると「こんなことさせちゃってごめんなさいね」「気持ち悪い肌でしょ」なんて口にする患者さんもいるんです。わたしたちがトラブルのあるお肌に直接触れるので。

「不潔に見える」「家族に気持ち悪いと言われた」とか、疾患で困ってるのに、さらに気持ちも落ち込んでる方は多いんです。

——自分から口にしてしまうくらい、ご本人も気にされているのですね。

患者さんから「ごめんなさいね」って言われたら「大丈夫、仕事ですから」って笑って返しています。

もしかしたら冷たく感じる人もいるかもしれないけど、そうではなくて。仕事としてプライドを持っているし、患者さんが信頼して任せてくれた分、責任を持って請け負いますという気持ちからです。

月並みな言い方ですが、できるだけ気持ちに寄り添うようにしています。少しでもよくなってきたら「調子いいですね!」「ここよくなっていますよ!」と声を掛けているんです。

疾患のことも、お肌のこともわかってますよ、ここでは気にしなくて大丈夫ですよ、って伝えたいですね。

——生衣さんの仕事への向き合い方も素敵です。働き方としては、1度環境を変えたあとはどうなっていったのでしょうか。

大学病院の後に働いた個人のクリニックで1年半くらい経ったタイミングで、大手の美容クリニックでも働いてみたいと考えるようになって、先輩に相談しました。看護師としてまだまだ半人前な自覚はあったのですが。

そのときに先輩が「あなたの人生だから」って、背中を押しくれたんです。自分が変わるきっかけになった先輩がくれた、その一言はすごく嬉しかったです。

実は夫と出会ったのは、その先輩の結婚式というのもあって、いまも家族ぐるみのお付き合いが続いているんですよ。

——それはすごい!その先輩との出会いは、たしかに人生の転機ですね。

自分の中の固定概念をくずしてくれた、夫の存在

——先輩に送り出されたあと、大手で働いてみた経験はどうでしたか。

最初はスタッフの多さに萎縮してしまいました。大学病院時代を思い出して、人との関わりを学び直した期間だったと思います。

大手のクリニックには4年間勤めて、推薦されて上の立場も経験させてもらいました。でも、そしたらまた空回りし始めちゃったんですよね。

——ある程度、経験を積んだ後でも壁は現れるのですね。「推薦を受けて」というのはメンタル的によくも悪くも影響が出そうです。

自分の外側で起こっていることすべてを、真正面から受け止めて「自分がなんとかしなきゃ」と思って板挟みになってしまう状態でした。

「期待に応えたい」「わたしはできる」と思って、頑張りすぎちゃったんですね。30歳になるころ、やっと肩の力を抜いて周りを見られるようになりました。

——そこから抜け出せてよかったです。きっかけはあったのでしょうか。

仕事に悩むようになっていたのと同じ頃に、夫と交際がスタートしていました。それが状況を変えてくれたきっかけでもありましたね。

と言うのも、わたしはずっと人の目を気にしながら生きてきたタイプでした。モラルとか、思いやりとか。キャラクター的には明るくて賑やかなのですが、ルールやマナーはきっちり守らないと心配になるんです。

夫はまったく逆のタイプです。マイペースで楽天家。よく「大丈夫っしょ」「なんとかなるっしょ」と言っています。

それに腹が立つときもありますけど。(笑)

でも、一緒に過ごすようになって自分が人に”謝りすぎている”ことに気づかされたんです。

——特に悪いこともしていないのに謝ってしまうというのは、責任感が強い性格からなんでしょうね。

夫の行動や言動から「ここは謝らなくていいんだ」「謝ることじゃないんだ」って。すごく目から鱗でしたね。変な表現ですが。(笑)

インドだったかな。どこかの教えで、誰だって人に迷惑をかけるのだから、自分も誰かを手助けしてあげて、というお話があると知ってその通りだなって思いました。

生まれてくる子どもには、「迷惑をかけるのは仕方ないこと。でも、そのときは『ごめんなさい』は言おうね」と伝えたいです。迷惑をかけている事実は受け止めないと。その上でちゃんと「ありがとう」を言おうねと。

そして「次はあなたが誰かを助けてあげてね」って伝えていきたいな。

「厄年だからこう」はない。右肩上がりの30代を

——生衣さんは早生まれなので、本厄を迎えるのは2022年ですよね。厄年に対してどんなイメージがありますか。

自分に起きたことを「厄年だから」と結びつける考えは特にありません。地元の厄年はイベントのイメージですよね。中学の同級生で集まって、一緒に厄祓いをするっていう。その後に同窓会もあって。

でも、わたしたちの代はこのご時世で中止になってしまいましたからね。

——となりまちのわたしの地元も同じくです。ちょっと成人式みたいな節目のイベントという感覚ですよね。だから嫌なものとかのイメージはあまりない気がします。

それにさっき言ったお世話になっている先輩が、前に「30代になれば右肩上がりよぉー!」ってカラッと笑ってしゃべっていたのが印象に残っているんです。

だから、正直これからどんなふうに右肩上がりになるんだろうって思うと、楽しみでしかないですよ。

先輩はちゃんとぬかりなく厄祓いに行っていましたけどね。(笑)

「頼る勇気を手に入れて」 - インタビューを終えて -

仕事で大きな挫折を味わいながらも、環境を変えながら挑戦を続けた生衣さん。「辛いというよりも恥ずかしかった」という当時の思いを率直に語ってくれました。

いま、仕事にやりがいを持って続けられているのは「誰かに頼ってもいい」んだと知り、肩の力を抜けたからなのでしょう。

取材中、生衣さんはお父さんのことを「とーちゃん」と呼んでいました。生衣さんがそう呼ぶたびに、お父さんの人柄や生衣さんとのあたたかい時間があふれて伝わってくるようでした。

悲しい別れもありましたが、あらゆる面で大切なものに気づけた生衣さん。

生衣さんがどんな家族を築いていくのか。右肩上がりでしかない30代を、わたしも一緒にのぼっていきたいと思います。

「厄年」という人生の節目に​​
​思うことをありのまま みつめていく


"コロナ禍"で始まった2021年
厄年をむかえたわたしたちは
この1年をどう過ごしていくのだろう

​不安も 悩みも 喜びも ワクワクも
ゆれうごく世の中も ライフステージも
ありのままの思いを 言葉にしてみよう

等身大のわたしたちのまま ここでつながろう

インタビューサイト『わたしたちの厄年』より

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