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筋トレをすると「楽しい」

 何をするにしてもやる気が起きないのは、単純に運動不足が原因であることに気づいた。家に引きこもり、誰とも会わず、外にもろくに出かけず、引き篭もってキーボードをカタカタしているだけの生活をしていたらそりゃ誰だって気力が無くなっていく。刺激があれば脳は活性化するが、刺激がないなら自分なりに頭へ刺激を送ってやらなければならない。

 大多数の人は同意すると思うのだが、家にいるのであれば筋トレは必須だ。しないよりはした方が良い。けれどもやるのがだるい。それが筋トレである。

 自分みたいな人間は筋トレをやる理由を見出しづらい。誰かにモテたいとか、体型を維持したいみたいな理由は特にないし、そもそも太りにくい体質なので適当に暮らしていても痩せたままである。今の生活に筋トレを加える理由が特にない。

 だが今の生活に流石に嫌気がさして試しに筋トレをしてみた。日常を変えるためには新しいことをやるのが一番手っ取り早い。やらない理由もなかったので渋々やってみた。身体も凝ってきており、だいぶダルい感じがしていたので、それも解消できれば良いなと思ったのも理由の1つだ。

 やってみて驚いたのは、筋トレをしたあとは「楽しい」という気分になったということだ。今の今まで「楽しい」気分を忘れていた。というか、喜怒哀楽のなかでも「楽」の感情は非常に分かりにくい。歳をとれば取るほど感情は薄れていき、どれがどの感情なのかすら曖昧で区別がつきにくくなる。筋トレをすると明確ではっきりとした感情の動きを得ることができる。

 「楽しい」という感情は大切だ。循環論法のようだが、楽しければだいたい何をしていても楽しいものだ。歯を磨くのすら楽しいかもしれないし、仕事をするのすら楽しいかもしれない。筋トレをしさえすれば楽しい気分になれるし、そうすれば全ての行為、ひいては生活全てが楽しくなるのかもしれない。

 逆に楽しくない時には何をしていても楽しくない。アニメを見てようがnoteを眺めてようが漫画を読んでようが、何をしていても楽しくない。受動的な娯楽の楽しさには上限がある。というよりも、こちらの気分に左右されるところが大きい。コンテンツが面白い、面白くないよりも、受け手が楽しければ楽しいし、楽しくなければ楽しくないのだ。十代に人気のコンテンツをおっさんが見た時に、これの何が面白いんだ、と訝しむ現象はこれによって起きる。

 つまるところ、今までに持っていた受動的な趣味をこれからも楽しむためには筋トレが必要なのかもしれない。能動的な趣味についても同様だ。能動性には気力や体力が必要であり、それは筋トレによって養える。いずれにしても筋トレをしていくに越したことはない。

 問題は、筋トレをやる効能については良く理解できていても、だるくて継続できない場合が多々あることだ。これは禁煙と同じかもしれない。禁煙による効能はたくさん理解できても、それが継続できるか否かはまた別の話となる。筋トレはキツい。キツいが、この1ヶ月間で何もしないで自宅勤務をしているとどんな精神状態になるのかが分かったので、それを防ぐため、という名目で続けることができるかもしれない。分からないがとにかくやってみよう。noteの日記が継続できているのだから、筋トレも継続できるでしょう。

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