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隠者または泉の女神のような人に話を聞くことは本を読むに等しい価値がある

わたしには尊敬してやまない愛しい上司がおり(女性である)、今の仕事においてわたしを重宝してくれ、あらゆるものから守り、配慮をしてくれ、そして作るものを慈しんでくれる。ありがたいことこの上ない。

部署の移動があり、フロアが別れ、隣の席だった頃に比べお話する機会がめっきり減ってしまっているのだが、今日久しぶりにお話する機会があり、改めて「魅力的な人だなぁ」としみじみとしていた。

そして今日改めて気付いたのだが、ひとは、相手に合わせてその在り方を変えるものである。わたしに対する上司の発話の仕方と、わたしでない人へのそれとは同じにはなるまい。それ自体は誰もがそのようにする振る舞いのひとつであり、別段取り上げる部分ではない。(この「対象次第で出力の種類を選び実行する」機能が弱い場合、多くは限定的関係性の中で永遠に固定される生き方となる。わたしはそれらは御免こうむる…というより、単純にそのようにある在り方を獲得できないままここに居るだけとも言える)

示唆に富んでいたり、おかしみを与えてくれる彼女の言葉はしかし、ご当人いわく「可愛げがないでしょうからね、こういうのは」と苦笑なさる。

よくひとはひとを印象で決めるという。聡明さや知性はなぜか「かわいげ」のなさというなんの役に立つのか意味不明のジャッジを下される。印象なんぞで生き死にを判断するなど、余程生に対する執着が薄いのが、多く大衆の心理なのだろうか。自分にはできないこと、自分には見えないものを、提示されることなんて僥倖以外の何物でもないのに、ひとは自分の想定の範疇に収まっていることを遍く望むというのだろうか。予測しきれることに自らをおき、それをこそ自立自律と規定するのは、愚かなことだ。なにか知りたいことがあるとき、ひとは自分にそれがないことを認めているから、本を探し検索をしどうにか情報にリーチせんとするわけだが、それが隣の人からほいと与えられたら、感謝しないのだろうか?

彼女の持つ情報・観察の結果とその分析・指摘を、得られた場合と得られなかった場合とに起きるその後の明暗について今日は思いをめぐらせた。分かれ道にたった時、その場になにも判断材料が無い時に、ひとはなにをもってして選択をするか。自身の経験の集積からはじき出す予測に賭ける、わけだが、その時に頭に過ぎるいつか出会った隠者の印象深いひとこと。または分かれ道の真ん中に水を湛える泉、の女神。彼は、彼女は、こちらを見てその言葉を選ぶ。われわれは、対面するかれらに、はたして生き延びるための知恵の言葉を与えてもらえるものであるだろうか?

これの恐ろしいところは、現実であるということ。現に彼女は本の中の存在ではなく、いま、ここに、同じ時代に同じ空間に紛れもなく存在しているひとなのである。そして、彼女のような隠された光る叡智は、彼女がよしと思えたものにしか姿を見せないわけだ。

寓意は極限まで抽象化しただけの事実・現実そのものなのだから、さて。


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