先生と花見(BL小説)

 どんな格好をしていけばいいのかな、と、久しぶりに迷った。普段友達に会うようなのは落ち着きがない? でも落ち着いた服ってなんだ。俺は服は嫌いじゃないけど、派手な服を着るタイプじゃない。モノトーンとか、紺とか、そういう地味な色が多い。体をある程度鍛えていて、筋肉もあるので、服装はある程度シンプルな方がバランスが取れると思っている。
 結局服じゃなくて本体の問題なんだよな。ため息をつく。
 白いシャツにグレーのパンツ、黒のジャケット、という、手持ちの中ではいいものだけど印象は普段と同じようなコーディネートをして、姿見の前に立つ。
 この間二十三歳になった。多分、二十五歳ぐらいには見えるだろう。でも見ようによっては学生に見える。何をしても無駄だ。二十三歳なんだから。諦めよう。
 待ち合わせ場所まで歩く。二人ででかけるのは久しぶりだった。行き先は公園だけど、それでもなんだか嬉しくなる。もっといろんなところに行きたいな、と思って、それが若造のエゴなのかもな、と思って落ち込む。若造。別に若いのが悪いわけじゃない。若いのが悪いわけじゃないけど、先生と、全然歩調が合わない。まあ、40歳以上違うんだから合わないのが当たり前、とは思う。それはそうなんだけど、その当たり前が苦しかった。当たり前とか言い出したら、そもそも恋人になんかなれない人だ。
 普段は休日でもあまり人通りのない道にも浮かれた気分が漂っている。道沿いの桜が白くて重たい花をたっぷり咲かせていて、みんな上を向いてスマホでぱしゃぱしゃやっている。今日は空の色もよくて、綺麗に花が撮れそうだ。俺も撮ろうかな、と思って、やめておいた。去年は俺も撮っていたし、今年のスマホのほうが写真は綺麗に撮れるけど。なんだか。
 それにしても桜って、明らかに他の花とは違う。コンクリートに落ちた花弁の白さを見る。こんなに風景も人の行動も変えてしまう花なんて他にない。俺もなんだか足取りが普段より早くなる。花を楽しみたい、というより、花を楽しまなくては、という、義務に近い気持ち。桜はあまりにも美しくて、すぐに去ってしまう。身勝手な花だ。振り回されてしまう。
 公園についたのは約束の十二時より十五分は早かった。でも先生はもう待っていてくれた。
「先生!」
 うれしくて駆け寄る。先生は笑っている。
「なんですか君は」
 先生の恋人ですよ。と言いたくなったけど、外なので言えない。代わりにへへへ、と笑う。外で見る先生は新鮮で、本当に、好きだなと思った。綺麗な人だ。クリーム色のシャツに茶色のカーディガン。グレイのチェックのズボン。
「髪切りました?」
「よくわかりますね」
「わかりますよ。いいですね。春らしい」
 うなじがすっきりと見えている。生え際の短い髪の感触を確かめたい。外で会うのは嬉しいけど、すぐにそうできないのがもどかしい。
「はい」
 先生に紙袋を渡される。さっき買ってきた、というのじゃなく、家にある紙袋に何かを入れてきたようだ。
「なんですかこれ」
「クッキーですよ。焼いてきました。そこでコーヒーでも買いましょう」
「クッキー! やったあ!」
「クッキー好きですか?」
 聞かれたので考えてから答える。
「いや、そんなには。先生が好きなんです」
「それはそれは」
 流されてしまった。でも本当に、先生が好きだから、クッキーが嬉しいだけなのだった。
 公園の入口にあるコンビニで、コーヒーを二つ買った。二つで二百円。俺が払う。
「おごってくれるんですか」
「奮発しました」
「ありがとうございます」
 先生は笑いながら、慣れた様子でコーヒーマシンを操作する。
「よく飲むんですか?」
「たまに。向こうにパン屋があるんで、パンを買ったあとここでコーヒーを淹れて公園で飲みますね。どうぞ」
「どうも」
 俺も先生もコーヒーはブラックだ。あったかいカップを持って公園に行く。
「すごいですねえ」
「すごいです」
 すごい桜だった。この時期じゃなきゃ木が生えていること自体そう意識しないのに、花が咲いたとたんに公園全部が桜になる。子供たちが走り回り、大人がビニールシートで酒を飲むうえに、もこもこと白い花の塊が、花びらを振り撒いている。
「座る場所ありますかね」
 全国的な名所ほどすし詰めというわけではないけど、ベンチは全部埋まっているだろう。
「ビニールシートありますよ」
 準備万端だ。
「よく来るんですか?」
「昨日も来ました」
 桜を見て目を細める。目尻にも、目の下にも皺が出る。先生の皺が好きだ、と思う。つるつるした肌についた余計なものではなく、先生という人に、皺というかたちで美しさが彫りこまれているように感じる。素晴らしいものを見ている。時間が皺を作ったのなら、時間というものが美しいと思う。美しくて、俺には手が届かないもの。
「桜が好きというか、桜が咲いていると思うと、見に行かなくては思うんです」
「強迫観念?」
「近いかもしれません」
 老い先もそんなに長くないからですかね。
 先生はそう言って笑うけれど、俺はうまく笑えない。眩しそうに眼を細める先生は綺麗だ。好きで好きでたまらない。老い先。長くないって、二十年とか? 俺は四十過ぎ。そのあとずっと先生なしなの? それを考えると未来が何にも見えなくなる。そして恐ろしいことに、これでさえ多分、選び取れる未来の中では最善なのだ。多分二十年も一緒にいられない可能性のほうが高い。信じられない。今の感情の大きさと、現実的な未来の予測のギャップが大きくて、怖い。
「このへんはソメイヨシノですけど、あっちには違う桜もありますよ」
 寂しいような苦しいような愛しさで、うまく言葉が出なくて、うなずく。桜は、特にソメイヨシノは、他の何とも違うやり方で気持ちを揺さぶってくる。満開になった瞬間に散っていく花。空を白く染めるほどの花の量。なんのせいなのか、正確にはわからない。それでも桜の下には桜の下でしか生まれない感情がある。
 いつもよりも速足の先生についていくと、少し開けた場所にたどり着く。色の濃さのまちまちな桜が何本も植えてある。それぞれ種類が違うようだ。子供たちがその間で走り回っている。
「平和ですねえ」
「ね」
 適当な場所を見つけて、先生が紙袋からシートを出して敷いてくれた。緑色の無地のビニールシートだ。
「昨日コンビニで買いました」
「花見にはコンビニですね」
 少し冷めたコーヒーを飲む。
「どうぞ」
 ウェットティッシュを出されたので、手を拭く。そしてタッパー。丸い大きなチョコチップクッキーがたっぷり入っている。
「これはすごい」
「作り過ぎましたね」
 先生は一つつまんで、小さくかじりついた。
「甘いです」
 そう言って、コーヒーを飲む。俺もクッキーを食べる。
「甘いですね」
 そう言って、甘いって、美味しいということなんだなと思った。先生のクッキーはぎっしりとしていて、齧るとぼろぼろ滓が落ちる。ゆっくり齧って、ゆっくりコーヒーを飲む。
「クッキーたべてるの?」
 びっくりした。幼稚園児ぐらいの子供が俺の手元を覗き込んでいた。
「はるとくん。こんにちは」
「おじいさんこんにちは!」
「知り合いですか?」
「お友達ですよ」
 先生はそう言って、ベンチに座る若い男女に目をやった。脇にベビーカーが置いてある。二人も先生に気づいたのか笑って小さく頭を下げている。「はるとくん」のご両親なのだろう。
「はるくんとおじいさんはおともだちなの。おにいさんは?」
 どう答えればいいのか、どう答えてもいいのか迷っていると、先生が答えた。
「僕のお友達ですよ」
「なかよしなの?」
「仲良しです。一緒にお花見に来たんですよ」
「はるくんもね、おかあさんとおとうさんとあかちゃんとおはなみにきたんだよ。はるくんのあかちゃんちっちゃいんだよ。ねんねしてるからはるくんしずかにしなくちゃだめなんだよ!」
 口元に小さな人差し指をあてて、「しー!」と言った。はしゃいでいるのか、全体的に声が大きい。
「はるとくんはお兄さんなんですね」
「はるくんはおにいちゃんなんだよ! ねえ! はるくんこれたべたいなー!」
「お父さんとお母さんに聞いてらっしゃい」
「おとうさんとおかあさんにくっきーたべていいですかー? ってきくの?」
「そうです。いいですよって言われたら食べてもいいですよ」
「おとうさんとおかあさんにきいてくるのするね!」
 ててて、とかけていき、「くっきーたべてもいいですか!」と大きい声で聞いているので、お母さんに「お声小さくしてね」と言われている。はるとくんは口の前で指でバツを作って、
「くっきーたべてもいいですかっ」
 と勢いのいい囁き声で尋ねた。先生が立ち上がって、タッパーをもってそちらに行く。何かお母さんと話して、それからはるとくんをつれて戻ってきた。車の絵が描かれたプラスチックの水筒を持っている。
「おじゃまします」
「どうぞ」
 はるとくんは靴を脱いでビニールシートに上がる。小さな足だ。こんな足で歩いているんだと思うと不思議だった。
 先生が差し出したウェットティッシュで手を拭いて、はるとくんがクッキーを手に取った。
「いただきます」
「はいどうぞ」
 はるとくんの口はとても小さい。当たり前だけれど、近くにいると本当に何もかもが小さいものだ。
「おいしいです! ちょこれーとのあじだ!」
「おいしいですか。嬉しいです」
「おいしーいです!」
 はるとくんは半分ぐらいクッキーを食べると、
「おなかいっぱーい」
 と言った。口元にチョコレートがくっついてる。
「うーん。じゃあ、持って帰りますか?」
「おじいさんにはんぶんあげます。どうぞ」
 先生は苦笑して受け取る。
「ありがとうございます。おてて拭いてください」
「ごちそうさまです」
 はるとくんはウェットティッシュでまた手を拭いた。口は拭かないので、先生が拭いてあげた。
「もうあかちゃんとこいくね!」
「もう起きちゃいましたかね」
「おきたらないちゃうかもしれないからね! よしよーしってしてあげるんだよ! はるくんはおにいちゃんだからね!」
「優しいお兄さんだね」
「はるくんはやさしいおにいちゃんです!」
 靴を履くと、振り向かずにベビーカーに一直線に走っていった。そして、思いがけない優しい手つきで、ベビーカーの中の赤ちゃんをそうっと撫でていた。
「元気ですね」
「いい子ですよ」
 それは見ればわかる。
「これ食べますか」
 半分のクッキーを差し出されたので、ありがたく受け取った。小さな歯型がついていて、なんとなくそれに舌が触れないように齧って食べた。甘い。なんか、クッキーの良い部分は全部はるとくんが食べたほうにあって、残りはただの甘いカロリーって感じだ。
「おなかいっぱいですか?」
「結構」
「いいことです」
 二人で黙ってコーヒーを飲む。はるとくんはお母さんと二人で手をつないで歩いている。赤ちゃんはまだ眠っているようだ。お父さんは横でぼうっとしている。それはすごく平和で、当たり前で、幸せそうだった。俺には全然関係のない幸せ。ああいう「当たり前の幸せ」を手に入れるために、どれだけのことをしなくちゃいけないだろう。考える。別に、あれがほしいわけじゃない。ほしいと思ったこと、そんなにない。子供がほしい。ない。子供、と、ほしい、という言葉、合わないようにも思う。自分が妊娠するわけでもないのに、ほしい、って。普通に使われる色んな言葉が、俺には合わないと思う。でも、そんなに自分がそこからはじかれる幸せでも、周りが俺をそこに入れようとするので、一応考えたりしてしまう。考えるたびに、あー、となる。あー、無理。無理なことに、少し安心したりする。
「先生って」
 とぼーっと口にして、やべ、と思ったけど、
「はい」
 と言われてしまったので、逃げられない。
「子供ほしいと思ったこと、ありますか」
「ほしいというか、いますね」
「え」
 え?
 先生は笑った。
「嘘です」
「……びっくりした」
 ふふふ。
 先生は笑う。笑ってる場合か。
「ようやく逃げ切れた感じですね。うるさいんだみんな」
 先生の横顔は清々しい。それでも俺は、なんとなく先生の子供のことを想像してみる。綺麗な顔をした、先生の面影のある子供たち。それは尊い、ようでも、少し、気味が悪い想像だった。でもそれは俺たち二人の現実と、どっちが気味が悪いんだろう。まあ、どうでもいい。全部気味が悪いと言えば悪い。
「先生との子供ならほしいかも」
 気味が悪いついでに言ってみる。先生は噴き出した。
「それは……ごめんですね」
 ちょっと引いてる。俺も笑った。まあ、俺もごめんかもしれない。
「君で手一杯なのに、子供までは無理ですよ」
 そう笑うと、さて、と唐突に先生は膝を立てて、シートに上半身を横たえた。眼鏡を取って脇に置く。
「ちょっと寝ます」
「ええ?」
 ぱさぱさと色んな方向に散る髪の毛を指で払って、俺に微笑む。色の薄い瞳が光る。青い空の下でそうしていると、見慣れた先生が、見覚えのない生き物のようだ。悪戯で魅惑的で、子供っぽい。目を閉じる。普段は見えない瞼の縁までよく見えた。柔らかい肌のライン。白いまつ毛。花弁が、鼻先に落ちた。俺は指先でそれを払う。
 俺はただかがみこんで、そのいとしい生き物に、花弁が降るのを眺めていた。空も、周りの人も、全部目に入らない。ただ、先生を眺めていた。

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