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二叉路

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福田六個と小池耕の公開される文通
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2024年4月の記事一覧

二叉路 第8回

二叉路 第8回

前回↓



第8回 耕→六

 第6回はたしかに混乱していた。自分でも原稿を送ってから「やばいかも」と言うか迷った。「ありうべきファイティングポーズとはいかなるものか」を突っ返す読解と勇気がなかったのは僕の落ち度だ。「あるいは僕もろとも一緒に転んでいるか?」いやいや。僕が(人が)転んでいるときにちゃんと「なにしてんねん」と言ってくれる人はなかなかいない。すまない。ありがとう。

 さて、しかし

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二叉路 第7回

二叉路 第7回

前回↓



第7回 六→耕

 第四回から第六回まで同じところをループしている。

 この身体の輪郭の危機には、言ってしまえば結論なんてない。部屋には入口も出口もない。小池は第四回の終わりの時点ですでに「定型を振り切ることができない以上(できたらつまり死んでいる)、定型を最大限逆手にとって、裏をかきたい」とまで言っていたわけで、ならばファイティングポーズという言葉に反応していいはずがなかっただ

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二叉路 第6回

二叉路 第6回

前回↓



第6回 耕→六

 前回は「他人依存の充足と絶対的な自己充足」という対比を用いながら家の話に入っていた。僕の考えでは自分にとっての理想、期待、欲望、充足はある意味では「絶対的に一つ」であはるけれど、ある意味ではいくつもの位相の自分において存在するし、第1回の福田の言葉を借りるなら、小池耕は何人もいる。と断ったうえで、「家」に対する福田の捉え方には概ね同意する。『PERFECT DA

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二叉路 第5回

二叉路 第5回

前回↓



第5回 六→耕

 第五回。ようやく話題が散ってきた感があって、かえって安心している。「真に受ける加減を適当に調節してほしい」だなんて言い訳はしなくてよろしいから、好きなように脱線したらいいし断言したらいい。二叉路に脱力と推敲の極があるとしたら僕が後者で[1]、真に受けたいところを受けて饒舌になるのだから、いずれにせよ恰好はつく。

 「碌でもなさ」の「総じて」について、僕が言おう

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