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二叉路 第5回

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第5回 六→耕

 第五回。ようやく話題が散ってきた感があって、かえって安心している。「真に受ける加減を適当に調節してほしい」だなんて言い訳はしなくてよろしいから、好きなように脱線したらいいし断言したらいい。二叉路に脱力と推敲の極があるとしたら僕が後者で[1]、真に受けたいところを受けて饒舌になるのだから、いずれにせよ恰好はつく。

 「碌でもなさ」の「総じて」について、僕が言おうとしていたのは一つの倫理的な極限についてであった。他者が望むように、ないし他者に誓うように自分があることの根源的な不可能、そしてその自覚という問題の必然が「総じて」なのだ。この問題系では、欲望は少なくとも二つ以上ある。私のそれとあなたのそれだ。他人の欲望の転写が私を確実に誤らせるのだ。

 小池の読解はそれとはちがって、自分の能力の現実態と理想態との乖離についてであって、肥大した理想を「断念せずに断念する」するための葛藤だと捉えている。ここでは、たとえどれほど欲望が不明瞭であっても自分のそれしかなく、その意味で欲望は絶対的に一つである。

 この対照は相当に重要なものだと僕は考えている。他人依存的な充足と絶対的な自己充足。たとえばスポーツと睡眠。性欲と排泄欲、そしてその中間としての食欲。セックスとマスターベーション(ただし非代替的な)[2]。二者は確かに「家」という場において交差するだろう。さらに人類史のスケールでは、生活がひとつで立っていたことなど一度もなくつねに育児と介護という未熟な他者の包摂と結合したわけで、それを「イエ」と呼ぶ。サザエさん一家から野原しんのすけ一家へ、そして・・・『パーフェクトデイズ』的一人暮らしへ?「イエ=家」というほとんど普遍的な慣習上の等式結合はすでに壊れつつある[3]。育児と介護から解放された生活をそのまま生活と呼びつづけることに一体どんな文化的な正統性があろうか。

 ふたたびカイヨワを経由しよう。小池は、「わたしに対する家の制約性」を身体のそれよりも小さいものとして捉えているが、ここではそれを逆転することを企てる。

 『神話と人間』においてカイヨワは、昆虫の「擬態」の説明と人間心理との類似の発見に執心している。なぜ昆虫はおぞましい鳥の眼や干からびた葉や、節ばった小枝に似た身体をもつか。淘汰説・生存進化説はこれに満足した説明を与えない。たまたま似ている?それも相似でなくてほとんど酷似だし、どうしてここまで個体によって多様な形態をとるのだろうか。さらに決定的には、敵から姿を隠せるという防御的説明は人のように視覚に頼る敵に限っての話である。多くの捕食者は動くものに反応する。防御の第一は似せることでなくて死んだように動かないことであり、そして何より出くわさないことだ。防御効果はほとんど皆無であるか、あるいはおまけである。とすれば、擬態は生存の手段でなく目的でしかありえない。すなわち、生物は環境に誘惑されて模倣それ自体を享楽するのである。

 生物の身体は、環境に対してみずからの輪郭を保つために、すなわち生きるために、緊張と弛緩の極を行き来するビートを刻んでいる。慣性とは大小の揺れのスクラムであり、身体とは相対的に濃い感覚の束でしかない。他方、緊張の高まりとは疲労の濃縮であって苦しみそのもので、「身体が足りない」のでなく身の置き場がないのが問題なのだ。そのため生物は生きることを欲しつつ生の放棄もまた望む。有機物は無機物へと誘惑されるのであり、崩壊への欲望を留めることができない[4]。昆虫の擬態は、人間の表象上の行為の遂行=神話に対応して、この欲望を生きながらに満たすものなのである。

 そのとき身体は思考から離れ、個人はその皮膚の境界を越えて出て、五感のむこう側に住む。身体は空間の任意の一点から、何とか自分を見ようとする。身体はそれ自身が空間になったように、物を置くことのできない暗黒空間になったように感じる。身体は似ている。何かに似ているのでなく、ただ単に似ている。そして身体は空間をつくりだすが、その空間は身体を「痙攣的に所有」するのである。

[5]

 性の衝動もまたその一つ。オルガズムという極度の緊張は最上の弛緩の訪れを約束するものであり、その運動は死という一回的な現象を模倣している。

 ここまでくると、家と身体のフィギュアが意味するところは多彩や能力の有ではない。それはむしろ途方もない無気力を思わせる。実際、僕や小池そして多くの「生活愛好家」はこの無気力に少なからず蝕まれていることだろう[6]。それは人生や家庭や部活や教室や教会といった強固な自己や身体のイメージから自由になるために無自覚に払った代償である。部屋の壁の染みは前の住人そのものとして私に侵食してくるし、映像は物質よりも刺激的にわたしの視覚を奪って網膜というスクリーンを染めあげる。逃走は不可能だ。なぜなら身体は何にだって似るのだから。

 立ち向かうこともまったく同様にできない。とすれば、ありうべきファイティングポーズはいかなるものか。ここでパス。

注1:このごろ(240205)
この日記の本歌取り。短歌とベルクソンの混じりあい。

脱力が左矢印、推敲が右矢印だとして、作歌のときの行動可能範囲が右と左に一歩ずつ広がってる感じがある。

注2:ここに「生と死」を付け加えることができる。最もコンセプチュアルな二者の例として。死は関係からの絶対的な脱落として捉えられる。また「家」において、表象としての死は分解されて僕らは味わうことを許されていないという点は、思考の一つの特異点になるだろうと思う。ムラにおいて典型的な自宅葬は今日どれほど一般的か。隣人がほとんど不審者と同じように観念される場合、自宅葬は心理的負荷が高い。地域でも担わず完璧にサービス化された死。それはほとんど「退場のしるし」にしかならず、死者は、不在という、時に存在よりも強力であるような力を持つことはない(幽霊、妖怪的なもの)。

 食欲を性欲と排泄欲との中間に置いたのは、食らうものが人格以下のものでありながらも生物であり、そこに他者(の残滓)を見出せるからである。そして分かちがたい死との結合(鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい/木下龍也)。あるいは、家と身体との話題においては、家で料理をして食事をすることは、そのまま「家を食べる」こととして捉えられる。いかに身体と環境との区別が恣意的であるか。料理/食事については小池とともにもっと掘っていけると思う。

注3:「一月のこと2:国事」「京アニ放火殺人から」の項を参照のこと。
2022年の日本の世帯割合。夫婦二子世帯は一割以下。単独世帯が38%を占め、高齢者に限った単独世帯率は42.4%。ちなみに高齢化率は29.1%。
「もうすでに」おひとりさまが多数派である点を踏まえられたい。

注4:生命の本質とは何か。アニメ『進撃の巨人』最終話後編におけるジークとアルミンの対話がこれを整理する。
 自己保存および自己複製(ジーク)/上に見たような自己破壊性。文明のゆがみがこれに力を与えすぎることが一つのテーマであると言える(エレン)/なんでもない記憶や体験がもっとも価値あるものに思えるという逆説。〈対象ならざる対象に人の欲望は向かう〉(アルミン)

注5:久米博訳『神話と人間』1975年、せりか書房、p116、117より。

このあいだ、実家に帰ったら玄関の段差やトイレの電気の場所、物干し竿の高さ、冷蔵庫の規模、あらゆるものが我が家(つくばの一人暮らしの部屋)と違いすぎていることに驚いた。身体が家の形になっている、と思った。あくまで流動するのは暮らしではなく身体の方だ。

10/8 使いこなしたい

[6]
YouTuberはみんな躁鬱‐Aomatsu
出口はない。逃れられない。壊れつづけるしかない。その強靭なマニフェスト。

 あるいはまた、岡倉天心はこう言っている。

しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁。」弘法大師いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。なにゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであろうか。この二者はただお互いに相対しているものであって、梵(ブラーフマン)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。

『茶の本』

福田六個のnote↓

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