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邦画『窓ぎわのトットちゃん』

 黒柳徹子が自身の幼少期を書いた『窓ぎわのトットちゃん』のアニメ映画を、小一の娘と観に行った。

 落ち着きのなさゆえに地元の公立小学校を退学となったトットちゃんは、自由な校風のトモエ学園に入学する。

 子供の自主性を重んじる校風というと聞こえはいいが、現実は綺麗事ではない。トットちゃんが汲み取り式のトイレにお気に入りの財布を落とし、柄杓で汚物を掬い取る場面がある。夢中になって作業を続けるトットちゃんに、校長先生は「元に戻しておけよ」と一言言うだけ。

 子供の意思を尊重し見守る教育は、なかなかできるものではない。個性を潰し、型に押し込めた方が楽だからだ。そういえばトモエ学園では教育勅語が一切出てこなかった。

 トモエ学園でのびのびと過ごすトットちゃんと仲間たち。だが幸せな時間は長く続かない。戦争の影が濃くなり、我慢を強いられる場面が増えていく。

 華美な服装は禁止、適性語の禁止などは有名だが、驚くのはこれらに法的な強制力はなく、国民が自ずと選択していたということだ。コロナ禍におけるマスクの強要や外出自粛と重なった。

 かつての反戦映画にありがちな「戦争を一方的に始めた軍部」と「無垢な国民」という図式は、この映画では当てはまらない。多くの国民も日本の勝ちを信じて戦争に加担していた。映画冒頭の提灯行列が印象的だ。

 コロナが落ち着いても「念のため」と今でもマスクをし続けている私は、この時代に生まれていれば、きっと進んで提灯行列の中にいただろうし、裕福な黒柳家の生活を「不謹慎だ」と思うことで溜飲を下げていたかもしれない。

 級友の死を経験し、弟が生まれ、トットちゃんは急速に成長を強いられる。疎開先の青森へ向かう汽車の中から見たチンドン屋は美しい幻のようで、悲惨な状況の中でも想像力を失わないトットちゃんなりの小さな抵抗なのだと感じた。

 戦争の不穏な空気を感じとったのか、映画を見た後の娘は、なんだか浮かない顔をしていた。それだけでもこの映画は作られた意味があるだろう。


『キネマ旬報』読者の映画評 一次通過

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