いい授業ができない理由 — 教科書ではなく、教育企画と教育実践という発想を!

 日本語の先生でTwitterをしている人がけっこうたくさんいます。そんな発信でよく聞かれるのが、「いい授業ができない!」という嘆きです。この嘆きは、たいてい基礎日本語(いわゆる初級日本語)の教育をめぐってのものです。(いわゆる初中級から中級前半くらいまでも含めてもいいかもしれません。)
 この嘆き、よく見ると2種類に分類できるように思います。

(1)「うまくいい授業ができない」
(2)「文型積み上げの教科書ではいい授業ができない」

です。前者は、まだ教育経験が浅い人の嘆きで、後者は、すでに一定の教育経験がある人の嘆きです。
 そして、後者はさらに、

(2)a「文型積み上げの教科書を使いながらもあれこれ工夫してやっているがなかなかいい授業ができない」
(2)b「文型積み上げの教科書では決していい授業/教育実践はできない(のではないか)」

に分けられそうです。また、(2)bについては、

(2)b① 日本語教育専門家の「裁断」(!?)
(2)b② 教育実践者の苦悩の叫び

に分けられます。そして、(2)b②は以下のようなことになります。

1) 文型積み上げの教科書では決していい授業/教育実践はできないことを(うちの学校の)多くの人はわかっているのに、あいかわらず同じ教科書を使っている。
2) 文型積み上げの教科書では決していい授業/教育実践はできないと思って(うちの学校では)教科書を変えたが、やはりなかなかいい授業/教育実践はできない。
3) 他に適当な教科書がないかとさがしているが、なかなか適当なものがない。

 (2)bになって、「いい授業」が「いい授業/教育実践」と変わっていることに注意。ここから、「ぼちぼち」筆者の見方が始まっています。
 本エッセイでは、いい授業/教育実践ができない理由を整理整頓して明らかにし、その状況を打開する方向について考えを述べたいと思います。

1.教育実践者((2)b②)の苦悩の内実
1-1  「教育実践の脈絡」と「授業の脈絡」
 多くの先生たちは「わたしの授業」に関心が集中しています。それは、一教師として当然の関心であるとは言えます。しかし、よく考えてください。
 1コマの「わたしの授業」は、1つの課やユニットの一連の授業のうちの1つですね。そして、一連の課やユニットがコースを成しています。端的にいうと、「わたしの授業」は、「コースの中の『課/ユニットの中の1コマ』」の授業です。ですから、「わたしの授業」で期待されていることは、「コースの中の『課/ユニットの中の1コマ』」としての役割を十全に果たすことです。そうなると、

(1) 当該の課/ユニットのエンドでできるようになることや、その課/ユニットを通して増強されることが期待されている日本語技量をしっかりと捉えていること
(2) コースのエンドでできるようになることや、コースを通して育成されることが期待されている日本語技量をしっかりと捉えていること

が必要になります。こうしたことをここでは「教育実践の脈絡」と呼ぶことにしましょう。「教育実践の脈絡」は、そのコースで設定された最終ゴールの日本語力を形成する経路の中の現在の授業の位置、となります。

1-2 教科書と「授業の脈絡」
 基礎日本語(いわゆる初級日本語)のコースで教科書を使わないで教育実践をしているところはほぼないでしょう。そして、一般的な教科書には、文型・文法事項を例示する会話文があり、形を練習したり使い方を練習したりする練習が付いています。最近では、「こんな活動をしてください!」という形でいわゆるタスク練習なども付いています。そして、授業スケジュールでは、各コマで教師は教科書の特定の部分が配当されます。これを「授業の脈絡」と呼びましょう。このように整理すると、冒頭の(1)の先生や(2)aの先生は、「授業の脈絡」で悩んでいるということになります。
 一方、(2)b②の先生は、教科書が形作る「授業の脈絡」を嘆いているということになります。そして、(2)b②の先生はその課題を、1)から3)のように、「よりいい教科書を見つけること」で克服しようとしています。ここが、重要点です。

1-3 付きまとう「授業の脈絡」
 市販されている教科書はたいてい、多かれ少なかれオーソドックスな教育・指導方法がイメージできる「親切な教科書」です。「親切な(教科書)」というのは、上で「一般的な教科書には…」と説明したようなもので、要は、形の練習もついている、使い方の練習もついている、タスクもついているという「親切な教科書」です。そして、そうした練習やタスクは相応にオーソドックスな授業活動を想起させてくれます。授業活動を想起させてくれない「不親切な教科書」は、「どうしたらいいかわからない!」ということで、敬遠されます。
 そのような事情ですので、(2)b②の先生は、また「親切な教科書」を選ぶことになるでしょう。そして、「親切な教科書」はあれこれ「親切に」付いているので、どうしても教科書が「授業の脈絡」を課してしまいます。つまり、教科書の練習などが教師の授業を縛って、授業を教科書に従属させるわけです。これが「授業の脈絡」というものの正体です。そして、「授業の脈絡」は「親切な教科書」を選んで用いるかぎり必ず付きまといます。

2.優れた教育実践を創造するための観点
2-1 language-promoting interaction、あるいは言語促進活動
 巧みに作り込まれた「親切な教材」であれば、それが指定する「授業の脈絡」に沿って授業を実践すれば、一連の「いい授業」が実現されるでしょうか。この問題は、授業は「実施するもの」なのか、「実施しつつ即興的な対応をしながら創り上げていくもの」なのかという問題に突き当たります。 
 そもそも「いい授業/教育実践」とは何でしょう。それは、学習者における日本語の上達を支援し促進する教育実践です。学習者における日本語の上達を支援し促進するためには、学習者を日本語上達の経路に載せながら、一定の活動を展開しつつ、ただ活動を展開するのではなくその中で日本語の上達に資する支援や援助や日本語促進要因を巧みに提供しなければなりません。そのようにしてこそ、その活動が日本語を促進する活動になるのです。Scarcella and Oxford(1992)のlanguage-promoting interactionや西口(2020)が言っている言語促進活動です。
 こうなると、授業はただ「実施するもの」ではなく、「実施しつつ即興的な対応をしながら創り上げていくもの」となります。そうすると、どんな教科書を使うのであれ、「授業の脈絡」に沿ってただ授業を実施しているだけでは、永遠に「いい授業」、「優れた教育実践」(←「いい教育実践」をこのように言い替えました)にたどり着けないことになります。

2-2 優れた教育実践の構成要因と教科書と教師
 上で論じたことに関してもう一歩議論を進めると、優れた教育実践(←カギ括弧を外しました)の構成要因は、

(a) 「適切な」あるいは「ちょうどいい」言語活動を運営すること
(b​) その言語活動の中で即興的に支援を展開すること

となります。そして、この(a)と(b​)は相互に支えあう要因になるのですが、言語技量の増強や日本語上達の促進という観点では、(b​)のほうが一層本質的な要因となります。
 そして、「いい教科書」が「いい授業」や優れた教育実践に結びつくか否かは、教科書が条件づける「授業の脈絡」がこうした構成契機を有効にそして十分に提供することができるか否かにかかっています。現在ある一般的な教科書が条件づける「授業の脈絡」は必ずしもそのようになっていないように思われます。ただし、それよりも重要なことは、授業を実践する教師が、優れた教育実践の構成要因を上の(a)×(b​)のように考えているかどうか、です。

2-3 一般的な教科書の背後にある(はずの)教育企画
 既存の一般的な教科書をめぐってはそもそも以下のような疑問点があります。

疑問点1: 一般的な教科書ははたして、「学習者における日本語の上達を支援し促進する」というところにねらいを定めているでしょうか。あるいは、教科書が設定しているねらいは、あなたが思い描いている日本語の上達ということのイメージと重なっているでしょうか。
疑問点2: 教科書で設定されている一連の課やユニットは、「日本語上達の経路」に沿ったものになっているでしょうか。あるいは、あなたが思い描いている日本語上達の経路のイメージと重なっているでしょうか。

 端的にいうと、学習・教育の「資材」である教科書を問題にする前に、上のような点がまず問題にされなければなりません。そして、それは教科書の問題ではなくて、教育企画の問題です。

3.結論
 1-3で「一般的な教科書の背後にある(はずの)教育企画」という言い方をしました。一般的な教科書では、教育企画が必ずしも明示的には述べられていません。「古い」教科書では、「基礎日本語力を養成する」と言いながら、その内実を「文型・文法事項と基礎語彙の習得の教育企画」にすり替えています。
 一方で、教育企画の背後にはそれぞれの言語観や言語習得観や習得支援の考え方などがあるはずで、それらを抜きにして教育企画を語ることはできません。本来的な直接法にはそれ独自のそうした理論や原理がありましたし、オーディオリンガル法にも独自の言語観と言語学習観がありました。現行の初級日本語教育(やそれ以降の日本語教育も)には、そうしたものがありません。あるいは、少なくとも、明示的に論じられてはいません。ただし、それは簡単に語れるものではないし、それを聞いて理解する側にも一定の高度な専門的教養を要求するでしょう。
 優れた教育実践を実現するということは、優れた教育企画という土俵の上で教育実践をするということです。それは、1-1で言った「わたしの授業」が優れた教育企画の脈絡の1コマとなることです。教科書あるいは教材というのは、その次に来るものです。
 優れた教育企画なくして優れた教育実践なし、というのが本エッセイの結論です。そして、ここに言う教育実践とは、個々の授業を指しながら、同時に当該のコースでの教育実践の全体を指しています。別の言い方をすると、あなた一人が「いい授業」をすることが問題なのではなくて、個々の授業担当教師が教育企画の中で適切で有効な貢献(contribution)を果たす教育実践をしながら、授業担当教師全体として優れた教育実践を創造することこそが重要な問題であり、それこそが重要な関心にならなければならない、ということです。そして、今求められているのは、「いい教科書」ではなく、優れた教育企画と、その企画の下での教育実践を支援してくれるリソース(的な教材)です。
 考えてみると、日本語教育ではとても奇妙な現象がずっと続いています。そして、今でも。それは、

(1) (一定の教育企画が背後にある(はずの))現在の教科書を用いて先輩教師たちが教育実践をしているが、必ずしも優れた成果を上げる教育実践が実現していない。
(2) そのような「体制」の中で、後輩教師は何とか「いい授業」をしようとしている。
(3) 後輩教師が経験を積んで、現在の先輩教師と同じくらいの教授技量を身につけたとして、その場合でも、「世代が進んだ」だけで、おそらく現在の「体制」が続く限りは、優れた教育実践を実現することはできないだろう。
(4) そして、教員養成においても、現在の体制でsurvive(生き残っていける)教師を育てている。

 こうした現状を改善していくためには、教員養成段階で実用的な教授方法の習得ばかりに目を向けるのではなく、高度な専門的教養を一部なりとも身につけさせて高度な専門職としてさらに成長していける筋道をつけておくことが必要でしょう。そして、それとともに、現役の教師も研修の機会や自己研鑽を通して高度な専門的教養を身につけることが求められるでしょう。教科書に「隷属」するのではなく、教育企画を適切に理解して他の教師と協働して優れた教育実践を創造できる高度な教育実践者をめざして。

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