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発展性を内包した教育企画と新たなperspective

せっかくなので、Twitterの足し算。一部、言葉を加えています。

 ぼくが新たな教育を企画し教材・リソースを作成するのは、教育革新はもちろん、(a)授業の準備が楽になる、(b​)授業が(有効であるのはもちろん)学生にとっても教師にとっても楽しくなる、(c)授業後の「処理」も効率よくできるようになる、(d)慣れれば慣れるほどもっと優れた授業ができる、ためです。

 従来の基礎(初級)日本語教育の教材・コースでも慣れたら(a)と(c)は起こるでしょう。しかし(b​)はどうかなあ。また(d)は少し起こるとしても間もなく「行き止まり」が来そう。とにかく、しんどくなく、慣れれば慣れるほどもっと楽しくて優れた教育実践ができるようになっていくという実感のある実践を作りたい。

 コーディネータの目からは「今学期、わたしたちチームはこういう水準の実践ができた」という冷厳な評価をしなければならない。そして、次の「向上のための」課題を見つけ出して、次学期はそれに対応して、一層チームとしての教育実践を向上させる。教育実践を一定の形に「凝固させる」ような教育企画はNG。

 新たな教育企画は、そのように各先生としてもチームとしても「継続的に進化できる」新たな枠組みの設定でないといけないだろう。そうでないと「これまでとは違う新たな縛り」の設定になるだけ。これまでの基礎(初級)日本語教育は、教師による豊かな日本語習得支援・上達支援を大いに縛っていると思う。第一優先と位置づけられた文型・文法事項は、先生に課された桎梏(手かせ足かせ)。文型・文法事項を軽視しないで、どのようにその桎梏から逃れる?

 日本語教育を跳躍的に革新するためには、そのような新たな教育企画と同企画に基づく実践を支えるリソースとともに、言語のnatureや、言語と人格、言語と出来事や現実の成り立ち、言語の「身につけ」と「身につけ」支援についての明瞭にこれまでとは異なるperspectiveを持つ人が増えなければならない。当たり前の言語観等ではだめ。

 広範囲での跳躍的革新はむずかしいが、特定現場での跳躍的革新は実はすぐにでもできる。

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