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学生に話させるのは「テスト」!?

 昨日に続いて、もう一つ記事。
 日本語教育に限らず語学教育では、「できるだけ学生に話させる!」、「先生はやたらに話してはいけない!」と言われることが多いです。このテーマ、前にも書いたことがあるように思いますが、「再論」。
*Krashen流に「comprehensible inputが重要!」と思っている先生は「やたらに」話しているでしょう。一方で、日本語の先生で「やたらに日本語で日本語について説明」している人は実はとても多い! そんな授業は論外ですよね。上の「やたらに話す」は、「学生にあれやこれやお話をする」ということであって、「日本語について説明すること」ではありません。念のため。
 わたしは、今も入門・基礎の日本語教育をしています。そんな脈絡で言うと、「学生に話させる」のは「テスト」でしかないように思うのです。集中教育の場合でも、まったくの初習者からスタートして約1カ月あるいは1カ月半くらいまでは、話せる日本語のレパートリーはごく限られています。CEFRのA1で書かれているようにlearned items or phrasesを何とか駆使して話すという状況です。文型・文法積上方式の教育より表現活動中心の教育のほうが着実に日本語のcapacityを育成できている感じがありますが、やはり学生が「取り扱うことができる」日本語のレパートリーはごく限定的です。3カ月、約300時間勉強して一通り基礎日本語の学習を終えた段階でもまだ学生の日本語のレパートリーは限定的です。CEFRのA段階にある間は、話題をうまく選択したとしても楽に自在に話せるということはほどんどありません。
 こうした、入門・基礎の段階、CEFRのA段階内で学生に話させる、話させようとするのは、やはり「テスト」だと思います。そして、そんな「テスト」をよくする先生の決まり文句は「学生に話させてみたが、うまく話せない」です。そして、また文型・文法や語彙の補充指導をする。そして、また「テスト」をして、「まだ学生はうまく話せない」と嘆く。この(悪?)循環の繰り返しです。学生に必要なのは、文型・文法や語彙の指導ではなく、日本語を育成する機会・養分なのに! (「学生に話させるのは、学習した言語事項を組み合わせて話す練習であって、テストではない!」と言う先生もいるかもしれません。そういう先生の日本語習得の発想はスキル学習理論で、つまり言語の習得は要素(つまり言語事項)の学習とその組合せの技能の育成だと考えているわけです。その考え方は一定の合理性があるように聞こえますが、実はそれをすると「母語のフォーマットの上に日本語を貼り付けて話す」という母語の干渉が必ず起こります。そんな意味で、このスキル学習理論に基づく「話す練習」もあまり肯定できるものではないと思います。)
 表現活動の日本語教育では「ユニットの終わり頃にユニットの話題について話せる、聞いて理解できる、会話ができるようになればいい!」と考えています。それまでは、話題をめぐる日本語の育成です。話題について話すための日本語の語彙や表現を「教える」のではありません。話題をめぐる日本語を育成する機会・養分を与えることです。
 この(話題をめぐる)日本語を育成する機会・養分をどのように与えるかが、入門・基礎日本語教育の要(かなめ)となります。どうすればいいのでしょうか。そのためには、まずは「学生にできるだけ話させる!」というドグマから解放されることです。そして、日本語の育成のために本当に何が必要なのかを考えることです。そして、実は、入門・基礎段階だけでなく、初中級や、中級や、さらには上級の段階でも、日本語の育成ということが引き続き教育の重要な部分となります。わたしとしては珍しい!ですが、問題提起でこの記事を終えたいと思います。皆さん、考えてみて。

 

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